「人生の意味」に悩む女子高生に、わりと真剣な「正解」を考えてみた

2019年08月06日 | ちょっとまじめな話
 「人生を生きる意味はあるから、その答えを教えよう」。
 
 そう少女に言ってみたくなったのは、ある休日の昼下がりだった。
 
 きっかけは、駅前のカフェでお茶を飲んでいたときのこと。隣の席から、こんな声が聞こえてきたのだ。
 
 
 「生きる意味って、ホンマにあるんかなあ」。
 
 
 ちらと横目で見ると、そこにいたのは制服を着た女子高生2人組であった。
 
 一人は背が高く細身な子で、もう一人は丸くて小さい。
 
 思わず、アブラハムには7人の子♪ と歌い出したくなるようなコンビであったが、ボヤキの主はちっちゃい子の方のようである。
 
 ミニマムなマムコちゃん(勝手に命名)は、アイスティーのストローを指先でいじりながらボソボソという。
 
 曰く、自分の人生は冴えない。顔は地味だし、チビだし、成績も並。彼氏もいない。
 
 部活に打ちこんでるわけでもなく、人に自慢できるような特技もないし、なにより自分にはやりたいことがない。
 
 どうやらマムコちゃんにとって、自分が平凡であることに加えて、
 
 「やりたいことが、なにもない」
 
 このことがコンプレックスらしく、さかんにこれを繰り返し、もう17歳だというのに夢もなく茫洋と生きている自分が耐えられないというのだ。
 
 なにを目標にして生きたらいいんだろう。こんなダラダラ時が流れていくだけの人生なんて、意味があるのかなあ。
 
 青春の蹉跌である。まあ、こういってはなんだが、ありがちな悩みだ。
 
 しかしである。ヤングの悩みは端から見れば陳腐でも、それはそれなりに、当時は本気で煩悶していたもの。
 
 それを「ありがち」の一言で一蹴してしまうのは、なんとなくはばかられるところがある。
 
 なにやら昔の自分から、
 
 「はー、アンタもえらなったもんやのう」
 
 冷たく皮肉られるような気もしてくるではないか。
 
 だが、これは難問でもある。
 
 人はなんのために生きるか。これまで、多くの文学者や哲学者が挑んできたが、いまだ決定版が出せていない問いだ。
 
 人類の知性が何千年も考えて、いまだコレという回答がメジャーになっていないところを見ると、
 
 「そんなもの、ないんでないかい?」
 
 というのが結論かもしれないし、
 
 「年とったら、まあどうでもよくなるよ」。
 
 というのも事実ではあるけど、そこはそういってしまうとミもフタもないし、若気至って真っ最中のマムコちゃんも、そういう「大人の回答」には納得できないであろう。
 
 そんなシンプルだが深遠な問いを、ぶつけられて困るのは相方の背の高いタカコちゃん(やはり勝手に命名)。悩める友の問いに、「うーん」と首をかしげながら、
 
 「楽しむため」
 
 「人類の種を残すため」
 
 「誰かを幸せにするため」
 
 「なにか生きてきた証を残すため」
 
 などと、あれこれひねり出し、果ては、
 
 「生きるために、生きるんじゃないかなあ」
 
 などと、ちょっと逃げ気味の(でもたぶん間違いではない)答えなど提出してみるが、おそらくは眠れない夜にベッド中で、それくらいのことはとっくに検討済みなのだろうマムコちゃんも、
 
 「でも、今楽しくないもん」
 
 「子供とか、好きやないし」
 
 「彼氏いてないの知ってるやん。家族とも最近、口きいてないし」
 
 「そもそも、やりたいこともないのに、なにかを残せるわけないやん」
 
 親切な友人に、容赦のないカウンターを連発。果ては、
 
 「いろいろ言ってっけど、どれも全部、言いくるめるための屁理屈でしょ?」。
 
 とりつく島もないというか、あつかいにくいお年ごろである。
 
 これにはタカコちゃんも、困ってしまってワンワンワワンと吠えこそしないが、「そっか、むずかしいなー」と腕組みをして考えこんでいる。
 
 ややこしい友人相手に、真剣なもんだ。人によってはブチ切れてる可能性もあるのにねえ。
 
 私は横で『オール東宝怪獣大進撃』を読みながら(←女子のいるカフェでそんなもん読むんじゃない)、漏れ聞こえてくる内容に、ついつい笑みがこぼれるのを禁じ得なかった。
 
 若気の至り爆発な話もさることながら、なんかこの二人がいいコンビというか、ふつうなら
 
 「ウザ」
 
 「アンタ、マジめんどい」
 
 人によってはあっさり無視して、スマホでもいじりはじめそうなシチュエーションの中、あれこれと一緒に考えてくれるタカコちゃんが、もうとってもラブリーである。
 
 私から見れば、そういう友を持てたことだけでもマムコちゃんは果報者というか、充分に
 
 「生きる価値ある人生」
 
 を歩んでいると思うけど、まあきっと、彼女が望んでいる答えはそういうものでもないのだろう。
 
 では、やはり彼女のいう
 
 「人生に生きる意味などないのではないか」
 
 という問いに「正解」はあるのかといえば、実はこれがある。
 
 そう断言してしまうと、「ホンマかいな」と笑われそうだが、これは断じてある。
 
 私のような阿呆の言葉が信用できないなら、私よりも頭が良くて、人生経験も豊富で、多くの支持者を集めている著名人の言葉として紹介してもいい。
 
 彼らも、はからずも私と同じことをいっているのだから。
 
 だから、私は答えてあげたくなったのだ。
 
 「意味はあるよ」と。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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「勇気」の価値は アントニオ・タブッキ『供述によると、ペレイラは……』

2019年07月20日 | ちょっとまじめな話
 アントニオタブッキ供述によると、ペレイラは……』を読む。


 「勇気を持つこと」


 これについて、どう教えたらいいのだろうと、ずっと悩んでいる。

 私は独身貴族だが、もし将来子供ができたら、彼ら彼女らが成長過程で当然持つであろう疑問に、どう答えればいいのか考えることがある。
 
 たとえば、なにか決断するとき、「勇気」を持って行動するべきかどうか。

 なんていうと、
 
 
 「そんなことは当然だろ。それともお前は子供に卑怯者とか臆病者になれと教えるのか」


 なんだか、しかられてしまいそうだけど、それでもとぼしい人生経験上でも、


 「《勇気ある者》は実社会ではをしているケースが多い」


 という、イヤ現実を何度も見さされてきたからだ。

 私の周囲でも、「勇気」を持っている人はいた。

 いじめをゆるさない人、差別搾取と戦う人、強者横暴を阻止しようとする人、不正ごまかしを見て見ぬふりをできない人。
 
 世の様々な不公正を、「人生とはそんなもん」とスルーしない人など。

 だが、彼ら彼女らはその「勇気」に対して、評価が不当であることが多いのだ。

 通知表の数字を下げられたり、中傷されたり、を引っ張られたり、左遷されたり、理不尽な謝罪を要求されたり。

 中には彼ら彼女らの「仲間」や「守ろうとした人」からすら、裏切り迷惑そうな顔を向けられたりもしている。

 こっちも一応子供ではないから、「世界は不公平にできている」ことくらいは理解するけど、じゃあその中で「勇気」を持って生きようとすることに、どんなメリットがあるの?


 「まあ、それが大人の社会ってもんじゃん」


 なんて、クールなふりをできればいいんだろうけど、因果なことに私は文化系の読書好きで、映画好きである。

 そして、「物語」というのは、そういう安易な考えをゆるしてくれず、「待たんかい」と襟首をつかんでくる。
 
 アントニオ・タブッキの『供述によると、ペレイラは……』も、そんな作品のひとつなのである。

 舞台は1938年ポルトガル
 
 ドイツイタリアファシスト政権が確固たるものになり、隣国スペインではフランコ将軍が反乱を起こし内戦が勃発している。

 かくいうポルトガルも独裁者アントニオサラザールが君臨し、思想言論への締め付けが強化されている。
 
 そんな息苦しさにつつまれたヨーロッパで、この物語は幕を開ける。

 主人公は小さな新聞『リシュボア』の記者ペレイラ

 もとは別の新聞の社会部で働いていたのだが、今は文芸担当。
 
 太っていて心臓が弱く、養生をすすめられているが、好物である砂糖たっぷりのレモネードと香草入りオムレツはやめられない。

 日々の仕事を淡々とこなすけど、さして勤勉というわけでもなく、事なかれ主義的であり、なにかあれば家で亡きの写真に話しかける。

 特に悪い人間でもないが、格別すぐれたところがあるわけでもない。いわば我々と同じ、「よくいる小市民」なのである。

 そんな彼は、経済的に困窮し、新聞社に原稿を売りこみに来たモンテイロロッシという青年と出会うことから、少しずつ人生のレールが軋み始める。

 ファシズム批判するような原稿を書くモンテイロ・ロッシに対して、当初は困ったような反応をしていたペレイラだが、なし崩し的に彼に協力していくことになる。

 理由はわからない。青年の志に共感したのか、また作中で何度も「子供がいない」と語られるところなどから、自分の息子のように肩入れしてしまったかのか。
 
 そこはハッキリとは書かれないが、主義主張というよりは惚れた女利用される形で、しかも書いてきた原稿は彼女の請け売りという、決して有能とは言えなさそうな彼のため、天をあおぎ、ボヤキながらも、ペレイラはどんどん深みにはまっていく。

 そうして気がつけば、すっかり権力側から「要注意人物」とマークされ、様々な困難に直面する羽目になってしまうのだ。

 何度も引き返すチャンスはあったはずなのに、いつの間にかペレイラは、望んでいなかった政治的トラブルに肩までつかることに。
 
 そして最後に「凡人」であったはずの彼が取った行動とは……。

 タイトルがすでに、ある意味「ネタバレ」(解釈は色々あろうけど)になっているため、中盤からクライマックスにかけて、カタストロフへの疾走感にはフルえがくる。
 
 彼はなぜ、危険な物件であるモンテイロ・ロッシの原稿を破棄せず、せっせとアルフォンスドーデーなどフランス小説を訳すのか。

 「批判的精神」を失い、「愛国的でない」物語を紹介するペレイラを怒鳴りつける『リシュボア』の部長

 嬉々として卑劣なスパイ活動にいそしむ、管理人のセレステ
 
 インテリで弁は立つが、悪くなる時代に対して何もする気がないシルヴァ

 そして、ナチスの「突撃隊」のように、権力側にいることを本人自身が偉くなったとカン違いして、無辜の市民に暴力をふるう「ちんぴら」たち。

 彼らの横暴諦観がペレイラをして、作中の様々な行動に走らしめるのだが、「英雄でない」彼が、なぜ赤の他人のため、そんなことになってしまったのか。

 そう問われたら、作中の言葉を借りればペレイラの「たましい」ゆえのことである、としか答えられない。

 彼はなんてことのない人間である。それが、ある決断をすることによって「供述」を取られる立場に追いこまれたのだ。
 
 それをタブッキは淡々と、それでいて熱く語り続け、問う。

 「あなたなら、どうする」と。

 ここで私は思うのだ。

 果たして「勇気」の対価とは?

 なにかが起こったとき「たましい」を守るための行動に出られるか。そして、「その結果」を受け入れられるか。

 将棋のプロ棋士である先崎学九段は、若手時代に苦労がなかなか報われなかったとき、軽く「やめちゃおっかなあ」と思うことがあったという。

 それは棋士という職業をということではなく、


 「将棋に勝つことが喜びである」


 という考え方をやめてしまおうかということ。本人が和文和訳するところの、「精神的な自殺」だ。

 続けて先チャンはこう書いた。


 「不純な気持ちに折り合いをつけるのは、不純に考えると楽だが、純情に考え出すと、えらくややこしくなることがある。そうして僕は、ややこしく悩むのである」。

 
 自分も、ときおり、そう考えることがある。
 
 やめちゃおうかなあ、と。
 
 私はもともと「勇気」なんか持ってない人間だ。だから今さら、そのことをなんとも思いはしない。でも、
 
 
 「勇気を持って生き、《たましい》を守るために戦うことをあきらめない人を尊敬する心」


 この想いから、どうしても抜け出られないのだ。
 
 世の中のことをわかっている「大人」のフリをして、「そういうもんだよ」と肩をすくめて、ペレイラのことを「バカじゃん」と決めつけてさえいれば、きっと今より楽しく生きられるのはわかっている。

 実際、そうしている人もいるし、私も若いころはそうしようと、ニヒルを気取ってやってみたこともある。
 
 だって、オレには「勇気」がないのに、その人のことを勝手に尊敬したり「感動」したりするのは、ただ「尻馬に乗っている」だけではないのか?
 
 自分以外のだれかが頑張っているのを見て、「共感」して「仲間だ」と認定するなど、安全圏から他人前線に送り出すだけの、卑劣な行為ではないのか?

 嗚呼、なんて青臭いんだ。ワシャ高校生か。
 
 まったく、先チャンの言う通りだ。そうして私もまた、今日もややこしく悩むのである。
 
 すばらしい作品にめぐり合えた幸運に感謝しつつ、アントニオがこんな小説を書きさえしなければ、オレがこうして煩悶しなくてすむのになあ、とかブツブツつぶやきながら。



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ダン・ガードナー『リスクにあなたは騙される』 「感情」より「論理」を優先するむずかしさについて その2

2019年06月14日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)に続いて、ダン・ガードナー『リスクにあなたは騙される』を読む。 
 
 人はなにかを判断するとき、「論理」「データ」よりも、圧倒的に「感情」を優先する。たとえば、
 
 
 「現代ではガンによる死亡率が増加している」
 
  
 という人がいるけど、それは単純な思い違いのせいだったりする。
 
 著者によれば、ガンで死ぬということは逆にいえば
 
 「他のあらゆる死病が撲滅されたか、治療法が確立したか」
 
 このおかげであり、いわば人は
 
 「ガンくらいでしか死ななくなった」
 
 そしてガンの最大の要因はなによりも「加齢」であり、すなわちガンの死亡率が多いということは、
 
 「致命傷となる病の数が減り、人の寿命が延びた」
 
 このせいなのだ。
 
 医学が発達すれば、そうなるのは必然なわけであり、別に保険会社の恐喝……じゃなかったCMのように「日本人の国民病」というわけでもない。
 
 また、たとえば学校に凶器を持った賊が進入し、子供に襲いかかったり誘拐されそうになったりしたら、どうすればいいか。
 
 我々はおそらく学校の門を固く閉め、周囲の不審者に牽制の視線を投げかけるだろう。
 
 そういった「正義の人」に水を差すのはもうしわけないが、これらも本書によれば、まったくの的はずれといわざるを得ない。
 
 データによると、アメリカには7000万人のティーンエイジャーがいるが、その中で1年に誘拐されるのは50人。
 
 そのうち殺されるか行方不明になるのは、0、00007%。140万分の1である。
 
 だが現実には、子供になにかあるとメディアは総出であおりたて、今にも日本中の子供が危険にさらされるかのように取り上げる。
 
 日本より治安に不安のありそうなアメリカでさえ、0、00007%の危険をだ。
  
 さらにいえば、そこから生まれる
 
 「疑心暗鬼」
 
 「いわれなき偏見の目」
 
 のことも考えると、明らかにマイナスが大きい。「公園で休んでいたら職質や通報をされた」とか、やりすぎではないか。
 
 もちろん警察や周囲の大人が、子供の安全に気をかけるのは当然だ。
 
 だが、それを必要以上に煽り立て、安易に「原因」や「結論」や「犯人」をはじき出してしまうのが問題なのだ。
 
 「犯人はアニメのDVDを所有していた」「ゲーム好きだった」とか、そういった類のもの。
 
 それは「吊し上げ」の快感や「自分に都合のいい物語」という心の平安と引き換えに、間違った情報や分析が流布し、本来われわれが守るべき「健康」や「安全」を結果的に阻害してしまうから。
  
 それは我々の無知だったり偏見だったり、あるいはこの本でも糾弾されているように、売らんかな主義の企業やメディアが原因だったりする。
 
 なんて聞くと、
 
 「テレビや週刊誌はひどい」
 
 「企業は金の亡者か」
 
 という声も上がるかもしれないが、なんのことはない。
 
 むこうだって、そうすればモノが売れるからするだけだ。
 
 とりあえず「天然」とつけとけば、どんな食料品でも買ってくれたり、
 
 「日本は昔より安全になりました」
 
 そう報道してもニュースやワイドショーを見てくれないなら、
 
 「若者は荒れている」
 
 「引きこもりは犯罪者予備軍」
 
 という不正確でも扇情的な記事を載せるのは、商売的にはそういうものだろう。
 
 そのことを責める資格が、いつも「思考の怠惰」の状態にあるわれわれに、あろうはずがない。
  
 この本を熟読すると、あとがきでサイエンスライターの佐藤健太郎さんの書くように、福島の事故で我々がいかにうろたえ、理性的判断力を曇らされたかがよくわかる。
 
 人の思考や感情は、自分で思っている以上に操縦が難しいのだ。
 
 ただ、著者はこういった事例を挙げ
 
 
 「腹でなく、できるだけ頭で考えよう」
 
 
 そう提言はしているが、意外なことに、その口調はあまり強いものではない。
 
 それは著者も同じ人間だ、
 
 「まあ、それが理想やけど、実際のとこは難しいわなあ」
 
 ということが、わかっているからだろう。
 
 ブラッド・ピット主演で映画にもなった、マイケル・ルイス『マネーボール』でも、そういったエピソードがくり返し描かれている。
 
 「論理」「情報」「統計」などは「感情」と矛盾すること多々であり、人はそのストレスに耐えられない。
 
 だから、どうしても正確さよりも「自分に心地良い話」を選んでしまう。それは私もよくわかる。悲しいことに。
 
 おそらく人間というのは、自分で自覚しているほど、もしくは、そうありたいと願うほどには賢くはなれないのだ。
 
 だから大事なのは、自分よりも頭のいい人の話を虚心に聞く。
 
 なにかあったときに自分のイメージだけで決めつけず、本書のような本を読むなどして冷静に検討してみる。
 
 できるなら、おっくうがらず「検算」してみる。そういう姿勢が大事なのだろう。
 
 私のようなたいした「頭」を持たない石器時代人は、せめてこういった「謙虚さ」だけでも忘れないようにしたいものだ。
 
  
 
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ダン・ガードナー『リスクにあなたは騙される』 「感情」より「論理」を優先するむずかしさについて

2019年06月13日 | ちょっとまじめな話
 ダン・ガードナー『リスクにあなたは騙される』を読む。
 
 9.11のテロ以降、数年間のデータによると、アメリカでは交通事故による死傷者数が増加した。
 
 その数は9.11の犠牲者の6倍。
 
 それまで飛行機を利用していた人々が、テロを恐れて車移動に切り替えるようになり、その分だけ事故が増えることとなったのだ。
 
 よくいわれることであるが、飛行機というのは頻発する交通事故と比べると、圧倒的にリスクが少ない乗り物である。
 
 本書によれば仮にテロがその後も猛威をふるい、週に1度(!)という頻度でハイジャックを起こしたとしても、1年間毎月1回飛行機を利用する人が死ぬ確率は、わずか13万5000分の1
 
 一方、交通事故で死ぬ確率は6000分の1。
 
 しかしそれでも、人はほぼゼロに近い確率のテロでの死をおそれ、それよりも20倍も危険な車に乗ろうとする。
 
 こういう、実にイヤなエピソードから幕を開ける本書は、この例のように、人がいかにリスクに対して、的確に対応できないかを列記していく。
 
 人はなにかを判断するとき「データや論理」ではなく圧倒的に「感情」を重視するからで(著者はこれ「頭」と「腹」と呼んでいる)、するとどうしても、先入観や情報操作に惑わされやすくなってしまうからだ。
 
 この状態のことを、著者はこう喝破する
 
 
 「頭脳は石器時代のままなのに、社会は情報時代をむかえている」。
 
 
 つまりは現代社会はこれだけ発展し、教育が普及し、理性が重んじられているのにもかかわらず、それを使いこなせていない。
 
 たとえば、これはSF作家の山本弘さんや日本文化史研究家のパオロ・マッツァリーノさんも主張しておられるが、現代の日本は歴史的に見て、かつて無いほどに安全な場所だ。
 
 にもかかわらず、ワイドショーなどのいいかげんなコメントに惑わされて、
 
 「若者は荒れ、治安が悪化している」
 
 「凶悪犯罪が増えている。こんな事件は昔はなかった」
 
 などと、トンチンカンなことを主張したりする。
 
 また、その圧倒的な治安の良さに加えて、現代日本は医療や衛生面でも進歩している。
 
 1900年の世界は、先進国ですら子供の15%から20%が5歳になる前に死んでしまっていたのに(!)、今では0、5%にまでおさえられた。
 
 やはり100年前はせいぜい50歳だった平均寿命が、今では30年近く延びた。
 
 世界史の本を少し読めばわかるが、多くの地域で飢餓は解消されている。天然痘や結核といった死病が撲滅され、ペストやコレラも治療可能。
 
 資金があれば、ポリオやマラリアをもおさえることができる。その意志さえあれば、何万、何十万、下手すると100万単位で人命を救うことすらできるのだ。
 
 それでも多くの人が、
 
 「科学など信用できない」
 
 「現代医療はまちがっている」
 
 「人は原始の自然に還るべきだ」
 
 などと言って、根拠もない疑似科学や詐欺まがいの民間医療に入れあげたりもする。
 
 そういった、よくある錯誤やカン違いに、われわれがいかにおちいりやすいかを本書は取り上げてくれて、これがいちいち勉強になるやら耳が痛いやらで、刺激的なのである。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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暴力やヘイトやハラスメントに対するアナトール・フランスとロバート・A・ハインラインの答え

2018年12月30日 | ちょっとまじめな話
 暴力が嫌いだ。
 
 ヘイトハラスメントを肯定する人と友達になりたくないし、善意の押しつけも慇懃な笑顔でゴメンこうむる。
 
 「強者横暴」を無視して「弱者少数派責任」だけに言及するのは、もうやめようよと心底願う。
 
 「自分不愉快」を「義憤」に変換しようとする心の動きを警戒する。下の者に責任をなすりつけて、ヘラヘラしている大人に反吐が出る。
 
 自分が知らなかったり興味がないものを、バカにしたり、排除しようとしたりする想像力のなさに怒りをおぼえる。
 
 「常識」という名の偏見を見直そうとしない人に絶望する。「多数派」であることだけに安堵する状態は、あまり健全ではないと考える。
 
 頭の悪い人が、頭のいい人に無礼な態度で「お前は頭が悪い」という地獄はあまり見たくない。
 
 憎悪をあおったり、若者外国人低賃金で使い倒すことが「かしこいやり方」とほくそえんでいる者など、ブラックホールに吸いこまれればいい。
 
 でも世界は想像する以上に、それらをとする人もいて、結構おどろかされっぱなしだ。
 
 学生時代読んだ本に、こういう言葉があった。
 
 
 人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全だから、人生の掟は寛容と仁慈でなければならない。

  ―――アナトール・フランス『神々は渇く』
 
 
 「寛容」というと、なにやら道徳的でめんどくさそうだが、別にこれは
 
 「嫌いなものでも、愛して受け入れろ」
 
 みたいなことではない。
 
 「自分と違うものを、《そういうものだ》と放っておけばいい」というだけのことだ。
 
 これを皆が実行するだけで、人種間の確執や宗教戦争など、この世界からけっこうな多くの争いを、なくすことができるのではないだろうか。
 
 でも、その一見簡単なことが、なかなかできない。
 
 
 同志(タワリシチ)、常に人間というものは他の連中のやっていることを憎悪して、いつも駄目(ニエット)と言うものなんだ。

  《かれら自身のためになることだから》そんなことはやめさせろ―――それを言い出す自分自身がそのことで害を加えられるというんじゃないのにだ。 
 
  ―――ロバート・A・ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』
 
 
 そう、われわれはしょせん「不完全」な存在だから。「他の連中のやっていることを憎悪」し、それを正しいことだと思いたがる。
 
 人はきっと、自分が思ってたり望んでたりするほどには、気高くも賢明にもなれないのだろう。
 
 だからせめて、自分がそうであることを自覚しておきたい。
 
 いたらなさを受け入れ、多様性を尊重し、人の弱さを嘲笑せず(それは自分の弱さから目をそらし、他者に押しつける行為だから)、自分よりも「不完全さがマシ」な人や、そうあろうと常に努力している人に、尊敬の念を抱くことを忘れないでおきたい。
 
 年の瀬にマリオ・バルガス=リョサ『チボの狂宴』を読み返しながら、ボンヤリとそんなことを考える。
 
 
 
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フリッツ・ラング『M』と永井豪『デビルマン』に見る「正義の怒り」のあやうさ その3

2018年09月24日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 ドイツ映画『M』のラストで、

 「この殺人者をここで死刑にしないのはどういうことか」

 そう釈然としなかった若かりし日の私。

 「古典」と呼ばれる作品には、古びてしまい「資料的価値」が高くなってしまったものと、今でも鑑賞に堪えうるものの2種類あって、『M』はまさに後者なのだが、見ている間中ハラハラし、同時に犯人役であるペーター・ローレへの怒りが湧き上がってくる。

 もちろんそれこそが名匠フリッツ・ラングのねらいで、その「義憤」を頂点まで高めたところで、

 「法の名のもとに」

 冷や水をかぶせる。

 ハッとなったわれわれは、そこで激高する市民と一体になっていた自分を冷静にかえりみて、この『M』はなにを描かれた作品なのか、ざわざわした割り切れない気持ちで考え始めるのだ。

 それこそが私の場合は「正義」だった。観賞中、ずっと犯人は殺されるべきだと思っていた。

 それもできるだけ無残に。なんなら、被害者たちの手で行われてもいい。

 「法の名のもと」なんておためごかしは必要ないし、精神病院に放りこんでの「治療」「更生」も望まない。

 子供殺して、なんの罰も受けずぬくぬく過ごして、いつかは釈放でっか、と。

 なら、ここで「われわれの手で」殺すべきなのではないか。

 私はハッキリこう思った。いや、今でも全然思っている。

 今回、この記事を書くにあたって『M』を観直してみたが、のべ4回目の今回も、やはり昔観たとき同様、

 「警察、いらんことすな! こんな悪党、今すぐここで殺せや!」

 やっぱ、そうなっちゃうんだよなあ。

 もちろん、それが「正しいこと」であるとは思っていない。

 それなりに人生経験も積んでるし、本などで仕入れた「そういうことはよくない」という歴史的、論理的な裏付けとなる知識も多少はある。外で、たとえどのような事情があれど、だれかを「殺せ」など口に出しもしない。

 でもそれは、

 「法治国家は」

 「ドイツの世相が」

 「倫理の問題で」

 といった「正しいこと」では覆い隠せない、私自身の「素直で自然な感情」であり、それをくつがえすことはなかなか大変だなと苦笑いを禁じ得ないのだ。

 フリッツ、アイツをぶち殺して、オレをスッキリさせてくれよ、と。

 だから私は、永井豪先生の『デビルマン』を読んで、3度衝撃を受けた。

 言うまでもなく、あの悪魔特捜隊による牧村家などの惨殺シーンだが、ひとつ目は

 「ふつうのヒーローアニメだと思っていた『デビルマン』にそんなショッキングなシーンがあったこと」。

 ふたつめは

 「それによって、《人間とはなんと愚かで、扇動されやすいのか》と戦慄したこと」

 そしてみっつめは、

 「自分は暴徒たちに怒る不動明ではなく、その『愚かな人間』の方になる可能性は充分あること」

 「ペーター・ローレを殺すべき」と確信していた私が、呑気に「きさまらこそ悪魔だ!」なんて、だれかを糾弾できるはずもない。

 「やっちまえ」って、言ってんだもん。

 ふつうに考えたら、不動君が叫んだような「外道」側に立つ可能性は充分ではないか。

 そこに「正当性」や「大義」があたえられたら、なおさら。しかもそれは「超スカッとすること」ときてる。

 『M』のペーター・ローレは犯罪者だった。だが、もしそれが

 「オレたちの勝手に決めたルール」

 における「罪」だった場合はどうなる?

 「民族の血を汚した」

 「資本家や貴族だった」

 「モラルに反する作品を作った」

 「神を信じていない」

 「だれかが井戸に毒を入れた」

 「戦争犯罪人」

 などなど。

 いや、そもそも本当の犯罪者でも「リンチ」をしていいのか。たぶん、いけないのだろう。だが私には確信できない。

 理性(そんなものがあると仮定しての話だが)と「自然な感情」が反する場合、どちらを優先するのが正しいのかを、

 「スパイがまぎれこんでいる」

 「家族が狙われている」

 「おまえは不当に搾取されてる」

 という、扇動家の決まり文句を耳に吹きこまれた状態で、うまく判断できるとはかぎらない。

 だから私は「正義の怒り」を警戒する。

 なにか「悪」を見つけたときに、自分基準のせまいモラルや《世間の常識》の判断で、それを断罪し、排除しようとしてしまわないかを。

 それはおそらく、人間にとって「自然」で「充実感ある」体験であり、逆らうことに困難が生じる。

 だからこそ、「不本意」ながら常に心にとめておかなければならない、と考えているのだ。

 
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フリッツ・ラング『M』と永井豪『デビルマン』に見る「正義の怒り」のあやうさ その2

2018年09月23日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 「正義の怒り」の快感に身をひたすことには気をつけろ、と言いたいのは、自分の中にもまたそういった

 「自分が《悪》と認定したものをたたいて気持ちよくなりたい」

 という危険な願望が、きっとゼロではないからだ。

 そう感じたきっかけは、昔『M』という映画を観たから。

 『M』は1931年、ナチス台頭直前のドイツで公開された作品。名匠フリッツ・ラングによるサイコスリラーの傑作だ。

 「デュッセルドルフの吸血鬼」と呼ばれた殺人鬼ペーター・キュルテンをモデルにしたとされる主人公(ペーター・ローレが怪演)は、小さな女の子をねらって殺すシリアルキラー。

 警察の必死の捜査にもかかわらず、なかなか正体を現さない犯人に業を煮やし、ベルリン暗黒街のギャングたちや、街の自警団も立ち上がることに。

 エルジーという女の子が行方不明になったとき、盲目の男が、たまたまグリーグの『ペール・ギュント』の口笛を聴いたという証言から、徐々に犯人の正体が明らかになる。

 目印として、背中に「M」(「Moerder」ドイツ語で「殺人者」の意)の文字をつけられた犯人は、次第に暴徒と化していく民衆に追い詰められ、ついには……。

 ……というのが、だいたいのストーリーで、もう今回は最後まで語っちゃいますが、私が気になったのがまさにラストのシーン。

 街の人々によって地下室に連れこまれたペーター・ローレは、証拠を突きつけられ、罪を認めることを余儀なくされる。

 このままでは殺されると恐怖したペーターは、自らの精神の不安定さを訴え

 「警察に連れていけ」

 「裁判を受けさせろ」

 とさけぶが、市民たちは怒りの声と嘲笑しか彼にあたえない。

 地下室の興奮がピークに達したとき、だれかが声をあげる。

 「おまえの権利は死ぬことだけだ!」

 「殺人者に慈悲などいらない!」

 「怪物は殺せ!」

 それを合図にしたようにタガが外れ、みながペーターに襲いかかろうとしたところで、警察が入ってくる。

 手をあげる市民たち。警察はペーターの肩に手を置くと、

 「法の名のもとに」

 その後、審理のシーンが少し入って、被害者遺族の

 「こんなことをしても、あの子は帰ってこない」

 「だれもが子供の近くにいて見守らないといけないのです」

 という言葉で幕となる。

 この映画のラストは、説明セリフのようなものがないので、解釈も様々だ。

 「人民裁判」のシーンを当時「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチスの正式名称)が力をつけつつあった、不安定なドイツの世相を表現しているという人もいれば、

 「精神病者を法で裁けるのか」

 といった、今でも解決されることのない問題を突きつけてくるという人もいる。

 また、どんな犯罪者にも「法」を適用させる警察の態度から

 「法治国家のあるべき姿」

 を描いているという解釈もあり、それらはおそらくひとつだけでなく、多重的な層をなして映画の中に組みこまれているのだろう。

 ただ、私の感想は違った。

 いや、私も映画好きで、それなりに数も観てきたから、上記のような意見は理解できるつもりだし、おそらくそれは映画論的には「正しい」のだろう。

 しかし、私はこの映画を最後まで見終えて感じたことはただひとつであり、それこそが、

 「市民たちは警察が入ってくる前に、この鬼畜の殺人者をとっとと殺しておくべきだったのに」

 という、「正義の怒り」なのである。


 (続く→こちら


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フリッツ・ラング『M』と永井豪『デビルマン』に見る「正義の怒り」のあやうさ

2018年09月22日 | ちょっとまじめな話
 「オレは今でもフリッツ・ラングの『M』に納得いってないからね!」

 友人カシダ君に、そう声を荒げたのは不肖この私である。

 ことの発端は、近所のおでん屋で一杯やっていたときのこと。辛子たっぷりのちくわをほおばりながら、友がこんなことを言ったのだ。

 「でも、シャロン君の中に《リンチ願望》があるなんて、意外やったなあ」

 私が誰かを「私刑」したがっている。

 などというと、ずいぶんと物騒な話だが、カシダ君はこないだここで書いた「大坂なおみ選手とブーイング」の記事(→こちら)を読んで、「へえ」となったのだそうな。

 「正義を安易に楽しむこと」。

 それはそのまま無意識の虐待や差別にもつながる危険な感情だから、注意した方がいい。

 といった内容的なのだが、友がひっかかったのは、注意した方がいいというフレーズの前に

 「実に残念なことだが」

 そうカッコつきで、つけ加えてあったこと。

 「あんな前置きつけるいうことは、キミの中にも《悪》をやっつけて快感を得たいっちゅう欲望があるってことやもんなあ。それが意外やったなあ、思うて。まあ、冗談か皮肉かも知らんけどね」

 カシダ君にかぎらず、基本的に私はおとなしい人間に見えるらしい。

 たしかに、あんまり他人に対して腹を立てたり怒ったりしたことはないかもしれない。だれかに暴力をふるったこともないし、権力などを利用した各種ハラスメントとも無縁だ。
 
 実際、友人の女性などには、

 「セクハラとかパワハラをしないのが、唯一のとりえだよね」

 なんてことをいわれるほど安パイであり、それは別に私が聖人君主というわけではなく、

 「生きるエネルギーにとぼしいボンクラ男子」

 だからに他ならないが、それで世界が平和なら、まあそんなに悪いことでもないのかもしれない。

 そんなスーパー昼行燈なので、「正義の暴力願望」なんてのもなく、それゆえ「気をつけたほうがいい」と、ある意味他人事としてクールに語っているのかと思っていたところの「不本意ながら」発言。

 これが友には不思議だったのだと。寝ながら起きてるようなキミに、そんな激しい感情があるとはねえ、と。

 これに対して、冒頭の私の答えになるわけだ。

 そんなもん、全然あるよ。あるある。ないわけがない。

 そりゃまあ、『デスノート』のライト君みたいに

 「悪を滅ぼし理想の世界を作る」

 みたいな、中2病的ノリは大げさにしても、好きでない芸能人やスポーツ選手なんかがやらかしたり、たたかれたりしてるのを見ると、

 「フン、調子にのるからや」

 くらいなことは思うもの。
 
 それをわざわざ出かけて石を投げたり、ネットに書いたりはしないけど、熱量が低いから伝わらなかったり無害だったりするだけで、そういう「醜い願望」はふつうに持ってる。

 つまるところ、たぶんここをお読みの皆様方と同じくらいには「正義の怒り」を感じることもあるわけで、その意味では「気をつけろ」というのは、多分に自戒がこもっているのだ。

 全然、他人ごとなんかじゃない。

 私がそのあたりのことに自覚的なのには理由があって、それがフリッツ・ラング監督の『M』という古典的ドイツ映画。

 これによって自分が、

 「《正義の怒り》と理性を天秤にかけたとき、前者を取る可能性がゼロではない人間」

 だということを否定するのが、むずかしいと感じてしまったからだ。


 (続く→こちら



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「差別主義」「レイシスト」を自称する人と、映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』 その3

2017年08月30日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続きで、『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』という映画について。

 タイトルの通り、かつてアメリカを二分し、今でもその歴史的影響いちじるしい南北戦争で、もし史実と反対に南軍勝利していたらどうなっていたか。

 そのパラレルワールドで制作された、CSA(南部が主導権を取ったアメリカ連合国)の歴史番組という体の、いわゆる

 

 「フェイク・ドキュメンタリー」

 

 というやつであって、架空の世界を描く歴史のifものであり、いわばSF映画なのだ。

 なんといっても、つかみから先生と教え子の男の子が出てきて、こんなやりとりをする。

 


 ナレーション「奴隷の価値は、今でいう高級車1台分。重要な資産なんです」

 少年「(感嘆したように)アメリカには奴隷制度が不可欠なんですね!」

 先生「(誇らしげに)だからこそ、南北戦争を戦ったのさ」




 
 NHK教育番組のノリで、とんでもないことを言う。もう作り手の悪意がひしひしと(笑)。

 そこからも、敗軍の将であるリンカーンが、「地下鉄道」(南部の黒人奴隷を北部に逃がす運動もしくはその経路)を使って逃亡するも、その際

 

 「黒人に変装するのを嫌がって

 

 たいうトホホな理由で説教されたり。

 またその醜態をグリフィス(『國民の創生』という映画でKKKを英雄的に描いて問題となった)が、『うそつきエイブの捜索』という映画にしたり(いやコレ、ふつうに全編見たいんだけど)。

 そっからも、CSAは中南米占領するわ、奴隷制度を有色人種全体に適用するわ、世界恐慌は奴隷貿易で乗り切るわ。

 人種差別政策に同調してヒトラーと手を組むわ、太平洋から日本に奇襲攻撃(!)をしかけるわ、もうやりたい放題。

 いやもう、作り手の意地悪、かつブラックユーモア効きまくりの(第二次大戦の黒人兵が「所有者からのリース品」とか)歴史パロディーがこれでもかとくり出されて、笑っていいのか頭をかかえていいのか。

 ご丁寧にも、中に挿入されるCМもいちいちエグい内容で、掃除用品歯みがき粉など「汚れを落として白くする」製品に黒人のキャラクターを使ったり、



 「奴隷逃亡阻止のセンサー入り腕輪」



 の通信販売とか、「この大きな口が目印です」とか、明るく宣伝されて、もう見てるほうはどうせえと。

 他にも、「赤狩り」の標的が「共産主義者」ではなく「奴隷解放論者」とか、それを題材にした侵略SF映画『夫は奴隷解放論者』とか(『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』とか一連の「アカ怖い」作品ですね)、「綿花のカーテン」とか、とにかくもうメチャクチャによくできた、偽とは思えないドキュメンタリーなのだ。

 これがねえ、すんごくおもしろくて、ためにもなる。私が南部人だったら、よう見ませんけど(笑)。

 だってこれ、日本でいえば

 

 『大日本帝国 もし大東亜戦争で日本が勝ったら?』

 

 とかいうタイトルで、日本人がアジアとかでいばりちらしてる映像作るようなもん。

 で、世界中の人から

 

 「あるあるー」

 「あいつら、いかにもやりそー」

 

 とか言われてるの。

 で、自分でも「そうやなあ」とか思てんの。そんなん、いくら思想的にゆるゆるの私でも笑えへんですわ。

 この映画から、われわれがもっとも学べることは、



 「自分たちもまた、CSAかもしれない」



 という視点だろう。

 歴史というのは勝者のものといわれるが、勝ち負けにかかわらず人は、それをスキあらば自分に心地よく書き換えたいという願望がある。

 勝者はそれを(それこそこの映画のCSAのように)露骨にできるだけで、これは全人類どの民族、国家でも不変だろう。

 日本も、あの国もこの民族も一緒。だから、他者のそれを笑うのは、どこまでいっても「同族嫌悪」の域を出ない。

 かの「自虐史観」すら、



 「オレ様はこんなに反省している。だから、昔の《愚かな人々》のやったことは、関係ないから一緒にしないで」



 という欺瞞が、ないとは言えないと思うし。

 そう、人はみな、この映画のCSAになる要素を持っている。

 自分たちの自尊心を満たすためだけに、自覚なしに、だれかを傷つけているのかもしれない。

 だから私は、この映画を観て「南部連合ヒドイ」と単純には思えなかった。むしろ、ゾッとした。

 だって、あの中の架空のドキュメンタリー製作者は皆

 

 「なんの悪気も悪意もなく」

 

 あの作品を撮っているのだ。

 ただただ素直に、「自分たちを誇っている」だけなのだ。

 だったら、「自分はそうではない」と、いったい誰が言えるというのか。

 物事の善悪や正誤なんて、時代や見方次第でいくらでも恣意的に変化する。

 そもそも、CSAのやってることはUSAの「合わせ鏡」だ。

 だったら、そのことを自覚し「オレも、もしかして?」と常に気を配ることこそが、この作品を通して「歴史に学ぶ」態度ではないだろうか。


 


 ☆映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』は→こちらから



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「差別主義」「レイシスト」を自称する人と、映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』 その2

2017年08月29日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続き。

 リー将軍銅像の撤去をめぐる事件は痛ましいものだったが、この件で

 

 「自分はレイシスト

 

 と主張したり、KKKナチス白人至上主義者擁護する人、それも日本人がいる(だって彼らに対して「差別される側」なのに)というのが不思議だ。

 理由としてまず、差別意識はだれの心の中にもあるけど、それを垂れ流しにすることに私は興味がないし、みっともないという倫理的な観点があるわけだが、もうひとつは「危機回避」の問題。

 よく、イジメ問題のとき、なぜか



 「いじめられる方にも問題がある」



 みたいな意見が出てくるけど、こういう人は、



 「自分がいじめられる側」



 に立たされた時、どうするんだろうと、いつも気になる。

 だって、

 

 「いじめられてもしょうがない」

 「被害者にも責任がある」

 

 って人を攻撃したら、自分が同じ理論で攻められたとき、反撃したり正当性を主張する「道義的権利」を失ってしまうのだから。

 強盗が強盗にあっても、

 

 「おまえが言うな」

 「自業自得では?」

 

 って終わらされる可能性が高くなる。

 それを、「助けてくれ」とか「オレにも裁判を受けさせろ」というのは、間違ってはないけど「虫がいい」とは思われる。心証はよくない。

 これは断言してもいいけど、だれかを

 

 「いじめられてもしょうがないヤツ」

 「相手の方にも責任がある」

 

 と理不尽に攻撃した人が、立場逆転したときに、



 「自分もそうやって攻撃したのだから、当然むこうのいうことを受け入れるべきだな。たしかに、こっちにも責任があるとしなければならない。だからいじめられても、文句は言いません」



 っていうこと、まずないはず。

 他にも、女性差別をする人の中に(ちなみに私はです)「女は男より頭が悪い」って言う人もいるんだけど、もし科学的精査によって、



 「調べてみたら、男の脳は女よりも機能がおとっている」



 って結果が出たら(なぜみんな、この事態についてもっと想像力危機感を働かせないのだろう? ありえるでしょ全然)どうするのだろう。



 「男は女より頭が悪かったか。じゃあ、これからは女尊男卑でいくことにしよう」



 とか、絶対言わないだろう(というか、そんな人はもともと差別なんかしないだろうけど)。

 でも、そういうのって「フェアじゃない」気がするのだ。

 私は決して、できた人間ではない。だから、



 「理由はないけどムカつくヤツ」

 「いじめられても、しょうがないという気持ちを誘発させる人」



 がいることは否定しきれない。

 でも、だからってやらないほうがいいと思うのだ。

 モラルとして当然として、それにもしかしたら自分も、だれかにそう思われてるかもしれないわけで、そこを考慮に入れたら今度はリスクが高いからする気も起らない。

 もう一度言うけど、私は差別主義にはくみしない。

 ひとつはそういうのは、「みっともない」(時として犯罪のこともある)し興味もないから。もうひとつは「リスクヘッジ」として。

 理不尽な暴力から身を守るために、他人に理不尽な暴力をふるって言質を取られるようなことはしない。

 うーん、なんか当たり前のこと言ってるだけの気もするけど、まあそう。

 それとも、みんなそんなに「攻撃側チーム」にずっといられると確信しているんだろうか。

 いや、かも。そうカン違いしてる人も多いかもしれないけど、



 「いつ自分が被害者になるか」



 にビクビクしてるから、過剰な反応になってる人もいるのかもしれない。

 「受け身に立たされた自分」を、そもそも想像したくない

 だから、それを打ち消すために、論理や倫理よりも「のデカさ」「嘲笑」を持ち出して、必要以上に「攻撃側」をアピールする。

 白人である著者が黒く塗って、自らが「差別される側」に立った経験をレポートしたジョンハワード グリフィン著『私のように黒い夜』によると、白人による黒人リンチ事件の発端の多くが、



 「これまでしいたげてきた黒人が暴動を起こして、復讐しにやってくる」



 という白人側の「罪悪感からくる被害妄想」が転じて「先手必勝」と襲いかかることだという。

 どこかで……というか、どこででも聞く話だ。

 だったら「そもそも最初から攻撃しない」ことこそ、本当はベターな選択じゃないのかなあ、と。

 まあ、このあたりは「趣味」の問題だから(思想関係のことは「正しい」「間違い」などなく、「しょせんは好き嫌い」と解釈している)、他人の私が理屈こねても、しょうがないかもしれないけど。

 ……て、なんか前置きが無駄に長くなっちゃったけど、今日オススメしたい映画は、アメリカ南部つながりで、

 

 『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』

 

 「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」という番組で紹介していたものだが、内容については次回に。



 (続く→こちら



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「差別主義」「レイシスト」を自称する人と、映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』

2017年08月28日 | ちょっとまじめな話

 リー将軍の銅像の撤去をめぐる事件は痛ましいものだった。

 すでに何度も報道されているが、アメリカ南部、バージニア州シャーロッツビルで、南北戦争における英雄であるロバートエドワードリー将軍像の撤去が決まった。

 そこで、それに反対する白人至上主義者とそのカウンターの集会が衝突し、ついには死者まで出る悲劇となった。たのだ

 昨今、この手の政治思想がからむニュースになると、いつも驚かされるのが、



 「自分がレイシストである」



 ということを、自ら表明する人がいるということ。

 私は基本的に、人種差別が好きではない。

 いやこれは人種にかぎらず、性別でも思想でも性癖でも趣味嗜好でもなんでも、

 

 「自分と違う」

 

 という者を、それだけで、のけものにしようとする発想が好みではない。

 それは別に私が聖人というわけではなく、単に人と比較して、自分の優越性を誇示したり劣等感をなぐさめたりすることに

 

 「なーんかそういうの、あんまり興味がないなあ」

 

 というだけだが、それにしたってレイシストを自称する人には、



 「そこを自分の売りにするって、すごいなあ」



 とは思うものだ。

 

 「勉強ができる」

 「運動神経がいい」

 「ケンカが強い」

 

 とかなら、まあわかるけど、

 

 「オレ、人種差別主義者

 

 って自己アピールするの、ムチャクチャにカッコ悪い気がするんスけど……。

 とはいえ私も、差別自体を完全に否定できるわけではない。

 人には多かれ少なかれ、他者に対する偏見警戒心はあるし(たとえば私の場合は「暴力をふるう人」「権力を誇示する人」「自分の主義主張を押しつけてくる人」の第一印象は悪くなる)、生きるためには、



 「自分や仲間、家族を守るための群れの選別」



 をしなければいけないこともあるから、誤解を怖れずいえば、ある意味必要な本能のようなものでもあるかもしれない。

 ただ、これは「本能」に近いのだから、人には「食欲」があるといっても、人の物を盗ってまでがっついたらいけないわけで。

 楽してお金はほしいけど万引き窃盗はしたらダメだし、「性欲」が繁殖に不可欠だからと言って痴漢セクハラがゆるされるわけではない。

 それみたいなもので、

 「人には差別意識がある」

 からといって、汚い蔑視の言葉を垂れ流しにするのは「みっともないな」くらいには感じるわけだ。

 別に、だれかが異性外国人同性愛者を嫌っていても、それは自由だし、好悪の感情は止めようもないからそれもいいけど、理性ある大人なら、

 

 「せめて黙ってればいいのに」

 

 と感じてしまうわけなのだ。

 『帰ってきたウルトラマン』に出てきたMATの伊吹隊長は、第31話「悪魔と天使の間に…」というエピソードの中でこんな言葉を残した。

 


 「しょせんは人の腹から生まれた子だ。天使にはなれんよ」




 そう、人の心は不完全で、決して負の感情からは逃れられない。

 でも、いやだからこそ、聖人ではない自分の弱さや至らなさを自覚し、易きに流れ加害行動に走らないことを、無くすのは難しいにしても、

 

 「できるだけ、最小に近づける」

 

 という努力をしないといけないのではとか、思うわけなのだ。

 われわれは自分と違うものを「愚か」「醜い」「秩序を乱す」と感じることはある。私もある。

 それは、ある意味自然なことかもしれない。

 けど、「自然だから」といって、指さして笑ったり、足蹴にしていいわけではない。

 もちろん、こっちが笑われたり足蹴にされても、受け入れる必要もない

 なぜならそれって、あえてこの言葉を使うが「バカのすることだから。

 賛否あるけど、ポリティカルコレクトネスって、要するにそういうことなのでは。

 PCのそもそもの精神って、



 「悪意を持って、もしくは時に悪気なくとも無意識的に、相手を傷つけてしまう言葉や行動」



 について、

 

 「ちょっと気をつけようよ、おたがいにね」

 

 ってことのはず。

 行き過ぎた規制は私もめんどいし、それを錦の御旗にして人を否定しまくる人は論外だけど、基本的にはおかしなこととも思えない。

 日本人も海外で「黄色い」とか「チノ」とか、バカにしたように目を吊り上げるパフォーマンスとか、

 

 「原爆投下は正しかった」

 

 みたいな発言とか、されたら怒ることもある。私だって腹が立つ。

 だったら、自分も同じことやって、どないしますねんと。

 あとこれはモラルとともに、「危機回避」の問題もからんでくるのではないだろうか。

 よく、イジメ問題のとき、なぜか



 「いじめられる方にも問題がある」


 「ムカつくし、キモイから、やられてもしょうがないだろ」



 みたいな加害者側を擁護する意見が出てくるけど、こういう人がいつも不思議なのは、



 「自分がいじめられる側」



 に立たされた時、どうするんだろうということだ。


 (続く→こちら



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カラオケの「無理やり一曲歌わせる」人と、日本人的な同調圧力について その2

2017年07月19日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 「愛国心」に「自己の相対化」は必要だと私は思うんだけど、この作業を嫌う人は多い。

 わかりやすいところでは前回も言ったカラオケで、

 「一曲だけでも」

 と嫌がる人に無理強いするのは、もちろんのこと好奇心でも親切心でもなく、

 「自分が熱狂しているところを、横にいて冷めた目で見られたくない」。

 そんな心根の表れなのだ。だから、

 「そうできないように、おまえも同じ穴のムジナになれ

 こういう命令なのである。だから、むこうはむやみと必死に「おまえもやれ」と押しつけてくる。
 
 自分の熱狂に「興味がない人」がいることが不安だから。

 これは突き詰めていくと、思った以上に根の深い問題で、極北まで行けば、たまにある体育会系の集団レイプ事件とかも同じ心理であろう。

 この手の事件を調べると、よく体育会系が裸を好む傾向にあるとか、軍隊における捕虜虐待などと比較して、


 「同じ罪や恥を共有することによって、集団内の絆を深める」


 などと解説されたりするが、そういう「アップ」な部分とともに、「強要」することにより「相対的視野」を防ぐ「ダウン」の効果もあるのだろう。

 具体的にいえば「密告」や「脱走」を封じるためだ。

 「罪人」は裏切ることができない。そうすると、自らが糾弾されるから。

 おまえが言っても、説得力ねーよ、と。

 一番効果的な忠誠心の確保だ。「おまえも同罪だぞ」と。他人事みたいな目で見るなよ、と。

 昔の中国のマフィアは、仲間に皆と同じ刺青を入れさせたそうだが、そういうことなのである。

 「絆」に興味がない人を、同じ罪を負わせることにより、取りこんで「排除」するわけだ。

 カラオケと同じ。だからこれは、特に「体育会系」の問題でもない。まあ、体育会系はより圧が強い傾向はあるだろうけど、われわれだって日常でやっているではないか。

 「空気読め」

 日本人が愛し、ある意味ではこの国の秩序の根幹を形成し、同時に大いに悩まされ、民族病ともいえる「同調圧力」という言葉。

 これも、まさにその相対化の忌避のあらわれであるといえよう。「こっちは多数派。だから正しいのだ」という「マジョリティーの数の暴力」で責めたて、同化を強要する。

 「愛国」でも「飲み会の誘い」でも「サービス残業」でも「運動会でクラス一丸」でも「伝統の継承」でも、「みなと同じようにふるまえ」「和を乱すな」というのは、そういう人がいると、みな


 「自分たちがやっていることは、はたから見ればおかしいのではないか?」

 「自主的にふるまっているつもりだけど、本当はイヤだっていう本音をむりやり変換しているだけではないか?」

 「もしかしたら他にはもっと楽しいことがあって、自分だけ損してるのでないか?」

 
 そうやって、心の平安を乱されるからだ。

 このザワザワ感は単なるイヤな気分ではなく、解消するのに「他者への干渉」が必要なことから、おそらくは「いじめ」「差別」「隔離」、果ては戦争や虐殺にすらつながる、あなどれない感情だと個人的には思っている。

 小難しい理屈よりも、わかりやすいと思ったのは、ミステリ作家である芦辺拓先生のあるツイート。

 「歴史好きは大学で歴史を学ばないほうがいい」というブログ記事に対して、


 「好きなことは仕事にするな」「好きな相手とは結婚するな」に続いて「好きなものは学問として学ぶな」ですか。もうええかげんにせぇよ。そんなに他人の人生が楽しかったり面白かったりするのがいやか

 
 とつぶやいておられたが、まさにしかり。

 もちろん、芦辺先生も答えはわかって言っているのだ。

 「いやか」と問われれば答えはこうだろう。

 「イヤに決まってんじゃん!」
 
 「自分の意志」で同調圧力に乗っからない人は、単なる拒否の不快だけでなく、今の自分よりも「他人の人生が楽しかったり面白かったりする」のではないかというおそれを喚起させる。その意味で、人の幸福感を損なう。

 「ふーん。でも、こっちはこっちで、もっと楽しくやってるけどね。ま、がんばってよ」

 とか思われたくない。軽く見られたくない。妄想かもしれないけど(実際、多くは妄想なのだろう)「今の自分より、より良い世界を自由に生きる人」など見たくない。

 ましてやそんな連中に、「なんでそんなことやってんの?」という冷めた目で見られたくない。自分はマヌケではないのだ。

 ゆえに、「排除すべき敵」。

 「相対化の忌避」とは、こういうことなのである。

 「よりよいかもしれない、よそさん」がいたら、そら何らかの手段で「つぶしにかかる」という心理が働くのは、当然といえば当然だろう。

 とにかく人は、「相対化」をこばむというのは、子供のころから強く感じていることだった。

 ただ個人的には、だからといってそのことで他人に干渉したり、生き方を否定したり、同調圧力で「相手の幸福値を減らそう」とする行為は「みっともないな」とも思う。

 ほっておいてやればいいのに。自分の自信の無さや、エゴイスティックな心の平安のために、他者の足をひっぱるのって不毛だし、ましてやそこに「正義」「愛」「一体感」「場の空気」なんていう、一見美しく聞こえる「恫喝」を持ちこむのは、それこそ卑怯未練というものだ。

 人になにかを強いることによってではなく、自らが心から愛してる、信じていると言えるだけの「意志」と「知性」を身につけたとき、はじめてその人のなにかを「愛する」心が尊ばれるのではないか。

 よそさんの視点も内包し、「おまえも歌え」なしの愛こそが、真の大人の愛である。

 私はそう思っているのである。





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カラオケの「無理やり一曲歌わせる」人と、日本人的な同調圧力について 

2017年07月18日 | ちょっとまじめな話
 「愛国心」は自国文化の相対化から生まれる。

 というのは、以前(→こちら)話した私なりの「国を愛する」ための重要事項である。

 相対化というとこむずかしそうだが、平たく言えば、

 「よそさんから見たら、こう見える」

 という視点を持つことであり、その過程を経ずして「国を愛そう」なんて言っても、ただの偏狭なナルシシズムにすぎず、北朝鮮のニュース映像とさして変わらないのではないかといいたかったわけだ。

 こういう話をするとよく、

 「そんな視点いらないよ! 日本人なんだから、日本を愛するのは当然でしょ。なんで外国人の話なんて、聞かなきゃならないの?」

 そう言って反発されたりすることもあって、

 「ほら、やっぱり『愛国』とかいうヤツは偏狭で、怖いんだよ」

 とか拒否反応を示す人もいるかもしれないけど、自分で「相対的視点」とかいいながら、私としては彼らの気持ちもわからなくはないところもある。

 愛国にかぎらず、人は自分が偏愛しているものを、第三者的視点で見られることに警戒する生物なのだから。

 「もしかして、自分たちのやってることって、端から見たらマヌケじゃね?」

 と疑わされるのが怖いから。

 だから愛国心(だけでなく、宗教でも流行ものでもなんでも、なにかを支持する行為)とかっていうのは、ときとして声高で、押しつけがましいものになる。

 基本的に、「熱狂的な支持」=「はたから見るとマヌケ」だから。それがバレたら、目も当てられない。

 これは国を愛することをおかしい、といっているのではなく、そもそも「愛」とか「信仰」「熱狂」というのは、興味のない人からしたらマヌケなもの。

 宗教がからむ紛争や議論、暴力的なフーリガン、アイドル好きの熱狂や宝塚ファン独特の「しきたり」、バブル時代のはしゃぎっぷりなどなど、あげていけば枚挙にいとまがないく、愛国心もまたそこから逃れることはできないのだ。

 だからみな、それを見たくないし、見せようとするやつを憎む。モノマネ芸人を、マネされた本人が嫌がるように。

 いい悪いは別にして、わりと自然なことだとは思う。

 「マヌケが嫌だから、相対化されたくない」

 という心理を、一番わかりやすく体験できるのが、カラオケボックスという存在。

 そこでの「あるある」である、「カラオケ好きは、無理やり人に一曲歌わせる」というのが、まさにそれであろう。

 自分が気持ちよく歌いたいけど、それをクールな視点で見られると(もしくは「見られている」と妄想がわくと)、

 「あたしって、一人で気持ちよくなって、もしかしてマヌケで迷惑って、内心思ってる?」

 そんなザワザワした気持ちになる。

 だから、彼ら彼女らは意識的か無意識かは知らないけど、「おまえも歌えよ」と強要する。

 カラオケが苦手なタイプ(私もそう)には今ひとつ理解しがたいこの行為で、その分自分が一曲でも多く歌えばいいのにと思うけど(実際そうしている人がいるのは「自分に自信がある」「開き直ってる」「そもそも気づいてない」のどれかであろう)、「相対化をこばむ」という視点から見れば、逆にものすごくわかりやすくなる。

 みな、言うまでもなく「歌ってほしい」「キミの声が聞きたい」わけでもない。わざわざ数分の自分が歌うチャンスを棒に振ってまでせまってくるのは、

 「冷めた目で見るなよ。おまえも歌って、オレたちと同じ『マヌケ』になれ

 という命令なのだ。


 (続く→こちら



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「助っ人ガイジン」日本を語る ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 その2

2017年07月04日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)に続いて、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』のお話。

 この本を読むと、今まで当たり前だった日本が、

 「なんか、ウチらって変じゃね?」

 そう感じられてきて、困惑すると同時に、すこぶる興味深い。

 同時思うことは、

 「これで困惑する自分は、何やかや言うても日本人なんやなあ」

 前回、私は自分に体育会系的要素はないと書いた。精神論や根性も苦手であるとも。

 そんな私ですら、本書を手に取るまで「千本ノック」に、たいして疑問を持たなかった。

 それどころか、「ゴロの心」も「甲子園で燃え尽きることが美談」という非人道的な欲求にも、その他ここに書かれている各種の

 「日本独特の勝手な思いこみ」

 を、100%ではないが、それなりに受け入れていたのだ。

 たしかに疑問もあるけど、「日本って、そういうもんや」と。

 でもそれって、本当に「常識」なの? そう思ってるの、自分たちだけじゃね?

 その、ちょっとした思考の転換。これは、「第三者的視点」なくしては、決して手に入れられないものの見方ではあるまいか。

 この本を読んで私は、まさに蒙が啓かれる思いであった。「日本人」と「ガイジン」の、個別のエピソードもそれ自体おもしろいが、それよりもなによりも、

 「どんなに自分が『常識』『当たり前』と思っていることも、よそさんからみたら『おかしなこと』かもしれない」

 というテーマが、すばらしく心に刺さった。

 ものごとを複眼的に見ること。このことによって、世界はより厚みを増してくる。理解の深度が変わってくる。「変」と切り捨てていたことの中に、あらたな思想を見出せる。

 なんというおもしろさ。

 たとえば、今でいうなら、ワールドカップなどサッカーの大きな大会でよく出てくるネタに、こういうものがある。

 「アフリカのチームは勝つために呪術を使う」

 多くの場合、これを、あたかもアフリカの後進性のように笑い話にしているが、よその国から見ると、わが大日本帝国スポーツ界の、

 「必勝祈願のお参り」

 「護摩業でメンタルをきたえる」

 という行為も十分「日本は勝つために、呪術に頼っている!」と感じるそうだ。

 はー、そら思いつかん。もし「未開国」のスポーツ選手が、オリンピックにそなえて、その土地の宗教的スポットをおとずれたりしたらどうか。

 そこで神官に謎の呪文を唱えてもらったり、キャンプファイヤーをし、全身に火ぶくれを作りながら「精神のトレーニング」なんて言おうものなら、きっと我々は「おもしろニュース」として取り上げるにちがいない。

 でも、やってること、よそさんから見れば一緒なんやなあ、と。

 少なくとも私は外国人から見たら「呪術」に見える「お参り」や「護摩業」を、さほどおかしなこととも思わない。

 誤解をしないでほしいが、私は別に

 「外国人が言っているからエライ。日本野球(日本文化)はダメだ」

 といっているわけではない。

 それは外国を踏み台に、「一眼的な日本観」をさかさまにしただけで、あいかわらず同じようなことを言っているだけにすぎない。

 「千本ノックはすばらしい」

 というのと、

 「千本ノックはナンセンス。外国人だって、そういってるぜ」

 という意見は、言葉がちがうだけで、「知性の深度」では、さほど変わらないのではなかろうか。どっちもどっち。 

 この本で学ぶべきことは、どっちがえらいとかではなく、外国人がいってるからこうすべきとか、逆に「ガイジンが上から目線でえらそうに」とか、そう怒ることでもない。

 文化というのは、どれだけその人にとって絶対的なことでも、他者の視点により相対化される運命をまぬがれない。

 大リーガーから見たら日本は変かもしれないが、こっちだってアメリカを見たら変なところはたくさんある。

 すなわち、すべての文化文明は、よそさんからみたら「変」であるということなのだ。そして、それは怒ることでもないし、劣等感を感じることでもない。

 もちろん、それで他者を「劣った文化」などとおとしめ、悦に入るのもナンセンスだ。どっちも「変」なんだから。

 で、それが「普通のこと」なのだ。だから、われわれもそれを「普通に」受け取ればいい。そのことを、ボブさんの『和をもって日本となす』は教えてくれた。

 本書に出会って以来、私はあらゆる事象を信じなくなった。

 別にニヒリストを気取っているわけではない。そうではなくて、世の中の「当たり前」や「常識」にいったん「待てしばし」が入るようになったのだ。

 だれかが信じていることというのは、もしかしたら、そのだれかの半径数メートルの範囲でしか「当たり前」でないかもしれない。それが世間でまかり通っているのは、それが「正しい」からでなく、その人が

 「数が多い」「声が大きい」「戦争に勝った」「今たまたま流行っている」

 その程度のことのせいかもしれない。

 それがわからないと、人は簡単に視野狭窄になる。

 西欧の植民地主義も、アメリカのジャスティスも、ISのテロも、世界の大きな暴力の背景に「相対的視点の欠如」があるような気がする。

 私はなにかを愛することを愛する。でもそれが、「よそさんの目」を排した、自己愛の集積しかないとしたら、ちょっとゴメンこうむりたい。

 この文章を書くにあたって、『和をもって』を、もう一度読み直してみようとネット書店でさがしていたら、そこのレビューで、


 「自分たちが偉いと思いこんだ大リーガーの『上から目線』に腹が立つ」


 とあって、つい苦笑いしてしまった。
 
 あー、これこそが「相対化の忌避」であるなあと。

 人は他人の呪術は笑うけど、自分がやってることを「呪術じゃん」と指摘されると怒る。ちょっと、フェアではない気がする。

 先も書いたが、この本から学ぶべきところは、別に

 「外国人がこう言っているから直せ」

 ということではない。たしかに「上から目線」に感じることもないわけではないが、そこじゃなくて、何度も言うが、

 「よそさんからは、そう見える」

 ということなのだ。彼らの意見が「正しい」から聞くのではない。「視点がちがう」から聞くのだ。

 オランダのあるラジオ局には、こんなのポリシーがあるという。


 「この世には絶対理性は存在しない、すべてが正しく、すべて誤っている」


 そう、世界には数学以外100%はない。だから、大事なのは自分の変に「変じゃない!」と向き合わなかったり、「おまえの変を直してやる!」と押しつけたりすることではなく、どっちも変なのだから、それをせいぜい自覚して、「愛される変」を目指すのがよいのではなかろうか。

 おたがいに、ね。


 (「カラオケと同調圧力」編に続く→こちら




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「助っ人ガイジン」日本を語る ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』

2017年07月03日 | ちょっとまじめな話
 「愛国心」は自国文化の相対化から生まれる。

 というのは、前回(→こちら)話した私なりの「国を愛する」ための重要事項である。

 相対化というとこむずかしそうだが、平たく言えば、

 「よそさんから見たら、こう見える」

 という視点を持つことであり、その過程を経ずして「国を愛そう」なんて言っても、ただの偏狭なナルシシズムにすぎず、北朝鮮のニュース映像とさして変わらないのではないかといいたかったわけだ。

 なぜにて私がそう言った複眼的視点が大事だと思ったかといえば、ひとつはこないだも話した「海外旅行」の体験だが、もうひとつ、ある本の存在がある。

 それは、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』。

 野球について書かれた本は数多あるが、この本のユニークなところは、当時のボキャブラリーでいう(今も?)「助っ人外人」を取り上げているところ。

 といっても、「阪神のバースは史上最強」とか「一番のダメ外人はグリーンウェル」みたいな、ファン目線の楽しい野球談議をするわけではない。

 この本が画期的だったのは、「外人」をあつかう視点が、われわれとまったく逆だったこと。

 そう、ふだん我々が批評する対象だった「ガイジン」選手が、日本在住のアメリカ人であるボブさんの綿密な取材に応えて、

 「外国人選手から見たら、ここがヘンだよ日本野球

 について語るという、まさに「文化の相対化」をテーマにした、野球という枠を超えた比較文化論なのである。

 「日本にはベースボールと違った『野球』という競技がある」

 との名言というか、捨て台詞を残して日本を去ったボブ・ホーナーといった、「日本を理解できかった」選手から、ウォーレン・クロマティ―、レオンとレロンのリー兄弟のような、こちらで「レジェンド」ともいえる実績を残した「優良ガイジン」まで、実に幅広い。

 中身といえば、日本野球へのリスペクトありグチありで、いちいち興味深いんだけど、これが読んでいて、ものすごく不思議な気分になるのだ。

 なんというのか、彼ら「ガイジン」の視点から語る日本と日本プロ野球というのが、ものすごく「変」なシロモノだから。

 いや、実際は変でもなんでもなく、むしろ日本人の目から見たら彼らが違和感を感じるところは、こちらからしたら「常識」なんだけど、それを一度「外国人の目線」というフィルターに通してみると、「あれ?」と首をかしげたくなる。

 これって、なんかおかしくね? と。

 たとえば、日本の野球界には「千本ノック」という伝統がある。

 私が通っていた学校でも、野球部はそれこそ毎日やっていたし、昭和の野球漫画にはかならず、ボロボロになるまでノックを受けるシーンがある。

 日本人にとっては、ごくごく普通の練習法。まさに「常識」だが、外国人選手から見ると、これが実に「クレイジー」だという。

 ただただ黙々と単調なノックを受けるだけで、果たして練習になってるのか。それで守備を向上させることよりも「ノックを受ける」ことの方が大事なようで、ひたすらマシンのようにゴロを処理する。

 疲れてゼーゼーいってるのに「千本」終わるまでノックする。そんなバテた状態で練習しても身につかないし、変な形で体が覚えてしまって、むしろマイナスではないか。

 あまつさえ、ノックを終えた監督が、

 「これであいつも、ゴロの心がわかっただろう」

 と悦に入っている。

 え? ゴロの心って、なに?

 ほとんどスピリチュアルの世界だ。わけわからんなーと。

 アメリカと日本を比較して、こういった「つっこみ」が延々と入るわけだ。

 いわれてみて私は、急に自分の足場がぐらつくような不思議な感覚にみまわれたのを憶えている。

 あれ? そう? まあ……そうか……。

 あー、言われてみれば、変なんやなあ、と。

 たしかに「千本ノック」をはじめ、日本の精神主義や「練習のための練習」は改善点も多いところであろう。

 私自身、体育会系のノリが苦手であるし、こういう意味不明の根性論はなじめないが、あらためて「外国人」に語られると、うなずかざるをえないところがある。

 ここでポイントとなるのは、私がこういったことに、「本を読んで初めて変だと思った」こと。

 これは「外国人がいうから正しい」とかそういうことではなく、

 「もともと千本ノックがおかしな風習だと思ってたけど、そんな私ですら外国人にあらためて指摘されるまでは、本当の意味では心の底から『変』だとは実感してなかった」。

 ここなのである。

 本の中では他にも、応援団の熱狂、浪花節が支配する甲子園、通訳の苦労、メジャーに行きたかった男のトラブルなどなど、そのどれもが、

 「われわれにとっては普通だけど、外国人からしたらハッキリと『変』なこと」

 で埋めつくされている。しかもその「つっこみ」が、いちいちそれなりに理にかなっている。

 にもかかわらず、そしてそもそも「日本独特の村の掟」に違和感のあった私ですら、それをそれなりに受け入れていた。

 なぜ? どうして?

 それが「こっちでは、ふつう」だったからだ。

 読み進めると、こちらの「常識」と、むこうの「困惑」が交錯して、しだいにわけがわからなくなってくる。

 なんたって、「常識」と「変」がぶつかり合っている舞台が、「同じ事象」なのだから。

 それが、同じことに向き合ってるのに、視点が逆になるだけで、こんなにもわかりあえず、おたがいがおたがいを拒否し合う。そうして、頭をかかえることになる。

 日本になじめない「ガイジン」と、「ガイジン」を理解できな日本人。

 いったい、正しいこと言ってるのは、どっち? と。

 いや、もしかしたら、どっちもが同じくらい「正し」くて、どっちもが同じくらい「間違って」いるのかもしれない。

 で、この本を読んで私は、つくづく思わされたのだ。

 「自分は日本人なんだなあ」と。


 (続く→こちら




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