前回に続いて、丸山ゴンザレスさんのクラウドファンディングに参加してみたおはなし。
『バックパッカー・シンドローム』というノスタルジー系「旅の同人誌」の制作。
蔵前仁一さんや高野秀行さんという「レジェンド」も参加なするとあっては、「元バックパッカー」としては注目せざるを得ないではないか。
とここで気になったのが、マルちゃんがこの本を作ろうと思ったきっかけというのが、
「今は失われた《日本人バックパッカー》という文化を活字で残しておく」
私はボーッとした人間なので「日本人バックパッカー」が「失われた」ことにピンとこなかったが、これがどうも本当らしい。
たしかに一昔前は海外旅行といえばドイツ人と日本人がやたらと多くて、続いて個人的体感ではカナダ人にスウェーデン人、イスラエル人とかそんな感じだった。
街を歩くとアヤシイ客引きなんかが定番のように、
「コンニチワー、アリガト、オミヤゲ、ノータカイネ」
なんて日本語で声をかけてきていたのが、ある時期くらいから世界には韓国人と中国人旅行者が増え、「ニーハオ」「カムサハムニダ」が混じるようになってきて、しまいには、
「ウェアユーフロム? コリア? チャイナ?」
となって「ノー、ジャパン」と答えるとか、日本が「ランク外」になっているという現実におどろいたり。
先日、5年ぶりくらいに海外に行ったけど、ネパール人も、
「昔は日本人が星の数ほどおったけど、今は全然おらんねえ。どこ行ってもうたんやろ。また来てほしいわ」
なんて残念がっていた。とにかく「few japanese」という言葉を何度も聞いたものだった。
たしかに、昔は「石を投げれば日本人に当たる」というくらいだったのが、今ではほとんど見かけない。
旅好きな人や、旅系YouTuberもよく
「日本人が全然いない」
「インドとか、昔は日本の学生だらけだったのに」
とか言ってるけど、どうもガチなようなのだ。
こんな感じ。
「○○ってすごくいいところだよ、日本人がいなくて」
なんて日本人から言われたりして苦笑いするのは(アンタは何サマやねん)、わりと旅行者「あるある」でした。
私も仲良くなった日本人旅行者とイタリアで電車に乗ってたら、同じ車両に乗った日本のおばさまが、
「なんでヨーロッパにまで来て、日本人なんか見なくちゃいけないわけ? ホント下品でやんなっちゃう!」
なんて聞こえよがしに言っていて、笑ってしまったことも。
最近では経済的に恵まれない人を「底辺」なんてヤな呼び方をするらしいけど、本当の底辺って、きっとこのおばさんみたいな人だよなーと思ったり。
でも、今はそんな心配(?)もないと。
うーん、そうなんやー。それはそれで、ちょっとさみしいなあ。
こういうとき定番として出てくるのが、
「旅行なんて、ただの趣味なんだから無理していかなくていい」
それはその通りで、ストレスを感じるなら行く必要はないし、
「旅は人を賢人にしない」
という言葉もある通り、一時期流行って当時でも失笑されていた「自分探しの旅」とかも、期待するほどの変化は見られないものだ。
旅によって人が劇的に変わったり、成長したりしないことは、だれよりも私自身が証明するところ。
だから、そもそも興味のない人は全然いいけど、ただ今の時代でもいるであろう
「興味あるけど、なかなか踏ん切りがつかない」
「外国を見てみたいけど、時代の空気的にテンションが上がってこない」
くらいの熱量の人が、「ま、もういいか」となってしまうのは、なんとももったいない気もする。
こういう人はきっと、「ブーム」のときだったら、結構フットワーク軽く出かけていたのではないか。
旅は人を賢人にしないが、出てみれば、それなりの「なにか」はつかめたりするものだ。
そしてそれは、
「今の人生がつまらない」
「先が見えなくて不安」
という人に強烈な「特効薬」になることもある。
具体的に言うと、
「今まで自分が信じてきた価値観や幸福の定義が、かならずしも絶対的なものでない」
という感覚。
「視野が広がる」といえば聞こえはいいが、要するに、いい意味でいい加減になれる。
今でも多くの人を、特に若者を苦しめる
「言葉にできない《なにか》に囚われて息苦しい」
というのが、少しばかり楽になるのだ。
その意味では、「こんな時代」だからこそ、逆に海外に出るというはアリだと思う。
休みとったり、お金のこととかいろいろと大変なことも多いけど、きっとそれだけの価値はある。
だから「迷ってる」人は、ぜひ一歩を踏み出してみてほしい。
しかし、円安だけはどうにかならんかね、ホント。