前回(→こちら)に続いて、ダイエットに成功した話。
腹式呼吸にグレープフルーツにビリーズブートキャンプと、世にダイエットは数あるが、私の提唱する「無駄づかいリカバリー・ダイエット」も、なかなか効果的である。
やり方は簡単。ふだんの生活で「無駄遣い」や「損な買い物」をしてしまったとき、その損失の「差額」が埋まるまで、ちょっとずつ食べ物を減らすのだ。
このダイエットのいいところは、ちまちましているけど、
「買い物の失敗を取り返しつつ、健康的に痩せることもできる」
ところであり、体にも財布にもやさしい。
さらにいいところは、
「ストレスの軸をずらすことができる」
この効用が、もっともおすすめポイントだ。
単に「損した」気分を取り戻すだけの節約とか、ダイエットでおかずを一品減らすだけというのは、誰でも思いつく話である。
だがこれを、単体でやると思ったよりもしんどい。
節約は気分がみみっちくなるし、食べ物が貧相になるのは悲しい。
最初はいいが、一月二月となるとオリのようにモヤモヤがたまっていき、あるとき突然爆発。「やってられっけ!」とストレス解消の買い物やドカ食いに走る。
それで財布も体重もリバウンド。典型的な、ダイエット失敗パターンだ。
ではそれと「リカバリー・ダイエット」はどこが違うのかといえば、ストレスを感じたときに、一方からもう一方にスライドさせることができる。
たとえば「無駄づかいした」「ちまちま節約して、みっともない」となったときには、そのことを悩むのではなく、
「あ、でもこれでダイエットするいい機会になるわ」
「3000円ムダにしたけど、その分カロリー減らしたら、2キロはいけそう」
「節約」から「体重」に気持ちを持っていく。
金をケチるのは気分的にマイナスだが、やせることはプラスだ。これで多少、気分は相殺する。あまり気持ちが落ちない。
逆もまたしかり。「はあ、今日もまた肉なしのカレーかあ」とか「体重減らないなあ」なんてため息つきたくなっても、
「でも、その分失敗した買い物をなかったことにできるから、いいよね」
そう思える。やはり、気持ちが落ちない。100%とまではいかないが、かなりマシになる。
文章で書いていると、「そんなもんかねえ」と半信半疑だろうが、実際にやってみると、想像よりも、存外メンタルに効くのがわかっていただけると思う。
人はしんどいときに、それをむち打って「がんばろう」というのは、やがては限界が来るが、
「こっちはだめでも、あっちでいいことあるから、いいよね」
そうやって気持ちを少しずらすだけで、ずいぶんと楽になるのだ。
「金」「体重」というリアルで重いものと直接向き合うのではなく、うまく「散らす」ことによって、気持ちを落とさない。
結果、体にも財布にも心にもやさしい、ポジティブなノリでやせられる。
以上が、私の提唱する「無駄づかいリカバリーダイエット」だ。
元は、古本屋めぐりが趣味の私が、せっかく買った本が他の店やネット書店でさらに安く売っているのを見て、そのくやしさのために、
「この差額分、おやつのチョコレートやおせんべいをガマンすることによって取り返せんやろか」
なんてことをやってみたら、いつのまにかやせていたことからはじまったのだ。
この「いつの間にか」というノンストレスなところがポイントだ。
あともうひとつグッドなのは、このダイエットには
「終わりが見えやすい」
ダイエットでキツいのは、体重を落とすための努力ではなく、
「その努力を一生続けなければならない」
という重い十字架を背負うこと。
ダイエットにかぎらす、禁酒禁煙などもそうだろうが、心が折れる瞬間というのは、
「今は耐えられる。でもこのガマンを、酒を、煙草を、チョコレートを、これから自分は一生心から楽しむことができないのだ」
こんな考えが、ふと脳裏によぎる、このときなのだ。
これはねえ、泣きます。そんな大げさなというなかれ。なにをかくそう、私自身が泣いたことがあるからよくわかる。
「一生」「死ぬまで」「永遠に」。号泣しました。いや、マジで。
でも、この「リカバリー・ダイエット」なら、そんな苦悩も軽減される。
なんといっても、これには「ゴール」があるのだから。「差額」に達成すれば、そこでやめてよい。
で、それだけでも、意外と数キロくらいなら減るもんです。
え? 減らなかったらどうするって?
安心してください。よほどのキッチリした人でなければ、世に「損した」と思うときの種は尽きまじ。
何日かしたら、また別のところで「あ、やってもうた」と思うときが来ます。
ほかにも、「人におごった」ときとかにもいいかもしれない。結婚式の招待状が来たときとか、想定外の出費でも、すぐに作戦発動。チョビチョビきざんで、身も財布も軽やかに。
おっと、そんなこといってる今日も、ネット通販で買ったSFアンソロジー『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』が、近所のブックオフだと300円安く入荷してたぞ!
嗚呼、損した! じゃあ、最近ハマッてる「塩入芋けんぴ」を300円分ガマンするか。
一袋150円やから、2日やめればええんやね。これでリカバリー。
やった、これで1200カロリー分得した!
腹式呼吸にグレープフルーツにビリーズブートキャンプと、世にダイエットは数あるが、私の提唱する「無駄づかいリカバリー・ダイエット」も、なかなか効果的である。
やり方は簡単。ふだんの生活で「無駄遣い」や「損な買い物」をしてしまったとき、その損失の「差額」が埋まるまで、ちょっとずつ食べ物を減らすのだ。
具体的にいえば、あなたが1万円で買った服が、別の店で7000円で売っていたのを発見したとしよう。
これはなんとも不幸な事態だ。先にこっちの店に来ておけば、安くに買えたものを。
このときの「損失額」は3000円だ。
この損を埋めるために、その分の食費を減らす。
ここで大事なのは、いきなり3000円分取り戻そうとしてはいけない。あくまで小銭単位できざみ、「結果的に3000円」まで行ければいいのだから。
たとえば、出勤前に喫茶店でモーニングを食べたり、コンビニでサンドイッチを買って始業前にお腹に入れるという人はいるであろう。
そういう人は、数日だけヨーグルトにしてみる。
うちの近所のスーパーで、3つ入りのが120円で売られている。1個が40円。
モーニングが350円として、これだけで310円リカバー。
昼食は、いつものラーメンに半チャーハンをラーメンのみにしたり、立ち食いそばの天ぷらを抜いて、かけそばにして100円もうけ。
ペットボトルのジュースを、「今日だけ」ガマンして150円くらい支出を抑えられる。
晩ご飯も外食しているのを、「気分を変えて、自炊でもするか」で、野菜炒めでも作れるかソーメンでもゆでれば数百円は浮くというもの。
これを意識的に数日やれば、ひいふうみいよと、あっという間に3000円くらいリカバーできる。
ほら、「損」したはずのお金は、あなたのもとに戻ってじゃないですか!
というと、「そらそうだろ」「単に節約しただけじゃん」といわれそうだが、それはその通り。
いくらリカバリーしたとはいえ、3000円損したものが返ってきたわけではない。
でもである、ここでもしあなたがやはりいつも通りの食事をしていたら、3000円は相変わらず「損」のままだった。
それを「変化」させたのだから、やはりこれは「取り返した」といってもいいのではないか。
なんたって、上記のような節約って、意識的にやらないと、案外とできないものなのです。
それこそ、ジュースなんてスーパーで買えば78円のものがコンビニで買うと150円。
でも、ふだんはわざわざスーパーまで行って買わないですよね。
というか、そもそもジュースなんて、飲まなくてもいいものといえる。糖分多くて健康には良くないし。
それを「3000円取り返す」という気持ちでやると、具体性があるおかげで、けっこう無駄づかいが押さえられる。
なにより、そうやって細かく作業することによって、
「損をチャラにした!」
あの落ちこんだ気持ちを払拭できる。
人間、ミスをしたときに、ただ落ちこむよりも「それに対してやることがある」と、これはなかなかに精神衛生上いいものだ。「達成感」もバカにならない。
でもって、キモはもうひとつの効用。
そう、例を見ればわかるように、この「リカバリー」における対象はすべて「食べ物飲み物」に限定すること。
これによって財布だけでなく、気がつけば「体重減」によって別のご褒美があらわれる。これが大きいのだ。
まとめると、
「損な買い物をした!」
↓
「じゃあ、その損の差額を取り戻すまで、食べるものを少しだけ減らしてみる」
↓
「差額分チャラにしたら、あれ? 気がついたら、その分カロリーも減って体重落ちてるやないの、ラッキー!」
こういうことである。
見ると「そんな単純な話かいな」と鼻で笑われそうだが、意識してやってみると、これが意外と効果的なんです。
現に私がほぼノーストレスでやせているわけだし、器具やジムに通うお金もいらないのだから、やってみる価値はあるのではないか。
やってみるとわかるが、このダイエットのもっとも大きなポイントは、
「ストレスの軸をずらすことができる」
これこそが、このダイエットをおススメする最大の理由でもある。
(続く→こちら)
ゆで卵ダイエットとかリンゴダイエット、水中ウォーキングにノンカーボなど、古今東西数多くのダイエットが存在するが、私がいつもやっているのがコレ。
その名も「無駄づかいリカバリー・ダイエット」。
名前だけだと、なんのことかサッパリかもしれないが、まあこれは私が命名したものなので、だれも知らないのも当然。
ただ手前味噌ではあるが、これはなかなか優秀なメソッドだと自負している。
「1週間で5キロ減」とか「ニックネームが『魔神ブウ』だったボクにはじめて彼女が!」みたいな劇的な効果はないけど、それなりに結果も出ているからだ。
実際、この夏も私は3キロほどやせて、しかもそれをキープすることに成功している。
さらに、このダイエットですばらしいのは、付帯効果で「財布にも優しい」ということ。
どうです、ちょっと興味がわいてきたでしょ?
やり方はカンタン。日常生活において、
「しまった! またムダ遣いをしてもうた!」
とか
「嗚呼、こっちの店で買っておいたら、もっと安く買えたのに!」
なんて、買い物でちょっとした後悔をするときってありますよね。
その「存した差額」分を、カロリーでカバーするというのが、このダイエットのやりかた。
わかりにくいという方に具体的な例で説明すると、たとえば、あなたが1万円の服を買ったとする。
モノ自体は気に入ったので、「いい買い物したなあ」とホクホク顔。ところが、数日後その店からメールが届いて、
「お客様にオトク情報! 本日全品3割引の大セール!」
なんてあったらどうであろうか。
「しまった! もう少し待ってたらよかった!」
そうなりますよね。でもって、
「ホンマやったら7000円で買えたのに、大損ぶっこき丸や……」
盛大に落ちこんでしまう。軽く死にたくなる。
ホンマやったらといっても、そんなメールが来るなんて知らなかったんだから、そこはいっても仕方がない。
でも、テンションが下がるのは止められない。金額のこともさることながら、さっきまでの「ええ買い物や!」という幸せな時間が胡散霧消してしまったのが、さらにつらい。
まさに「死んだ子の歳を数える」不毛な事態に。
こういうときこそ、私の提唱するダイエットの出番。
3000円「損」をした。なら、別のところでそれをリカバリーするのだ。
どこで借りを返すか、そう「カロリーを3000円分減らす」のだ。
といっても、ここで急に
「今日から晩ごはんを抜く!」
「3日、こんにゃくゼリーだけですませる!」
なんていうど根性に走っても、ストレスが溜まるだけ。
ダイエットの天敵は「体重が落ちないこと」ではなくて、
「ストレスでやけっぱちになっての盛大なリバウンド」。
これにつきる。
そのリバウンドのタネというのは、こういう「一気のカロリー減」による逆方向への爆発。
即効性こそあるものの、長い目で見たら肉体的にも精神的にも不健康で、結局はマイナスの方が大きい。
ここで大事になるのは「きざむバッティング」。
3000円といっても、1回の食事で盛り返すのではなく、少しずつできる範囲で行うのだ。
もっと楽にというか、習慣的に摂取しているものを、小銭の単位で減らしていくことによってムリなくリカバリーしようという試みこそが、このダイエットの骨子なのだ。
(続く→こちら)
オシャレなイタリアンレストランでランチを楽しみ、「仕事ができる男って、ステキよね」と語り合うOLさんたちに、
「それなら、ドイツ軍で活躍した、オットー・スコルツェニー少佐がおススメですよ」
そう教えてあげたくなった、さわやかな9月の午後。
前回は少佐のハンガリーでのはなれわざを紹介したが、大戦末期、敗色濃厚となったドイツはあの手この手で連合軍を攪乱しようと策を打っている。
最大の同盟国であるイタリアで盟友ムッソリーニが失脚し、どこかに幽閉されこづき回されているという情報が入ると、少佐はすぐさま、
「ワシにまかせんかい!」
と、コマンド部隊の精鋭を集結。
ベニトが閉じこめられていたグラン・サッソにグライダーで降り立ち、見事に救出。そのまま再びグライダーで風にのって空へと消えたという。
まさに「疾風のように現れて、疾風のように去っていく」。ルパンか怪人二十面相みたいである。かーっこいい!
またバルカンで友軍が苦戦していると聞けば、
「おえ! チトーのタマ取ってこんかえ!」
との声にすぐさま立ち上がり、「レッセルシュプルング(桂馬跳び)作戦」を発動。
ドイツ軍と赤色パルチザンが血みどろの殺し合いをしているユーゴスラビアへ出動すると、パルチザン本部に降下。なんと、チトー誘拐を試みる。
ユーゴのパルチザンといえば山にこもり、捕まえたドイツ兵から身ぐるみはいだうえ、目をえぐり、耳と鼻と性器をそぎ落としてから射殺するとかメチャクチャやっていた、歴戦の兵士たちもビビリまくる連中である。
そこに乗りこんで、ボス中の大ボスのチトーを拉致とは、えげつないくらいに危険な作戦だ。私だったら100億円もらっても断る。パウル・カレルの『捕虜』を読んだことあるから、よけいだよ。
おそらくは、ジャック・ヒギンズの名作『鷲は舞い降りた』のモデルになった、この大胆不敵なオペレーション。
スコルツェニーの部隊は敵のアジトにまで到達したが、チトーはわずか数分(!)の差で脱出に成功。
まさにタッチの差。もしここでチトーが捕縛されていたら、ユーゴの、いや世界の歴史が変わっていたことであろう。まさに「歴史を動かした」数分であった。
そしてスコルツェニー少佐を最も有名にしたのがこれ。
ドイツ軍西部戦線最後の大攻勢であるアルデンヌ進撃、「バルジ大作戦」として映画にもなったこの大決戦で、ドイツ戦車部隊の後押しをしたのがスコルツェニー少佐率いる特殊部隊であった。
スコルツェニーは英語がしゃべれるドイツ兵に米軍の軍服を着せ敵地に潜入させたうえで、こんな情報を流すのだ。
「連合軍の中に、完璧に偽装したドイツのスパイがいる」。
「グライフ作戦」と名づけられたこれには、アメリカも大パニックにおちいった。
そりゃそうだ、まったく見分けのつかない敵兵が自軍にいたらえらいことである。
自衛隊の幹部や防衛省のえらいさんの中に中国や北朝鮮のスパイがまぎれこんでいたと考えたら、そらさすがの米軍もビビるはず。
実際現場は大混乱におちいり、兵士どころか幹部クラスの面々すらスパイ容疑で取り調べを受けたりしたそうだから、さぞや溜飲も下がったことだろう。見事な「ドッキリ大成功」だ。
こうして負け戦にもかかわらず、一矢どころか二矢も三矢もむくいたスコルツェニーについたあだ名というのが
「ヨーロッパで最も危険な男」
シブイ! シブすぎるのである。かっこええなあ。
こうして数々の、ほとんど無理難題といったミッションをこなしてきたスコルツェニー少佐。戦後はスパイ罪に問われ、捕虜収容所にぶちこまれることに。
戦場で敵軍の軍服を着るのは国際法違反なので(まあ、これは連合軍をはじめ、どこの国でも大なり小なりやってるらしいですが)かなりシメられたらしいが、ところがどっこい、少佐はそんなことで反省するタマではない。
2年後しれーっと収容所から脱走。そのまま、どういうルートでかフランコ政権下にあったスペインに脱出してしまう。
そこで事業を興し、またあれこれあやしい活動に手を染めその地で大富豪となり、悠々自適の余生を送ったそうである。
すごい。よくスポーツやビジネスの世界で成功した人に、
「彼はどの世界でも一流になれる男です」
なんていうが、スコルツェニーこそまさにこの言葉が当てはまる人物であろう。ホンマ、なんでもできる人やなあ。セカンドキャリアも完璧や。
このように、私にとって「できる男」とはスコルツェニー中佐(最終階級)である。
世の女性のみなさんも、男性選びの参考になさってほしいものだ。
などと声を荒らげそうになったのは、ある昼下がりのランチタイムのことであった。
こじゃれたイタリアンの店にいて、ロバート・シェクリィ『無限がいっぱい』など読みながらボンゴレスパゲティーをずるずる音を立てて食べていたところ、横のテーブルからこんな声が聞こえてきたのだ。
「やっぱ、恋人にするなら仕事ができる男よね」
見てみると、OLさん4人連れが仲良くランチをしていた。
「恋人にするならどんな人がいい」という話題からの流れで、そこでは例として、嵐の櫻井翔君やくりぃむしちゅーの上田さん、ロザンの宇治原さんなんかがあがっていたが、私としてはひとつ大事な人物が抜けているような気がしてならなかったのだ。
もしもしお嬢さんたち、オットー・スコルツェニー少佐をお忘れではないですか、と。
オットー・スコルツェニー。
第二次大戦中のドイツ軍にはエルヴィン・ロンメル、エーリヒ・フォン・マンシュタインなどなど世に聞こえた名将が多いが、中でもスコルツェニー少佐は「特務作戦のスペシャリスト」として鳴らしたのが異色だ。
この人はまさにスパイ小説を地でいく、皆がド胆を抜くようなエピソードを数々残していて、それがいちいちおもしろい。
大戦末期。ソ連の物量に押されっぱなしのドイツ軍は敗走につぐ敗走で、とうとう占領していたロシア本土から東ヨーロッパまで押し戻されてしまった。
こうなると枢軸側についていたはずのルーマニアなど東欧諸国は、
「こらあかん。ちょび髭の伍長殿もいよいよ終わりやで。このままやったら、ワシらも負ければ賊軍でどんな目に合うか……」。
いよいよ足元がぐらつきだし、「パンがなければケーキを食べればいいのよ」と言い放ったアントワネットのごとく、
「どうせ負けなら、とっとと裏切ればええんや」
恥も外聞もなく反転してドイツに宣戦布告。それを見て同じく同盟国ハンガリーも
「どないしたらええんや……どう考えてもドイツは負けるし、そうなったらワシらも敗戦国や……」。
もうビビリまくりで、負けチームに居残るか、それともスターリンを選ぶかという古い言葉でいえば「究極の選択」を強いられるハメに。
そこにあらわれたのが、我らがスコルツェニー少佐。
ただでさえ負け戦なのに、たいした戦力ではないといえ同盟国にまで寝返られたら泣き面に蜂。
「おっしゃ、ワシにまかせたらんかえ! パプリカ野郎ども、なんとかしてくるわ!」
とばかりに、ヒトラー総統の命令を受けて「ミッキーマウス作戦」を発動。ハンガリーに極秘潜入し、独裁者であったホルティ提督の息子を誘拐。
「オラオラ第三帝国裏切ったら、かわいい息子がどうなるかわかっとるのやろうなオラオラ」
首根っこひっつかんで脅迫を敢行しようとする。
そこから紆余曲折あった末、続けて始動した「パンツァーファウスト作戦」では極右勢力「矢十字党」をあおってクーデターを起こさせることに成功。
寝返る直前だったハンガリーに、親独政権を樹立させ、見事味方につなぎとめたのであった。
すんげー話だ。
いわば自衛隊のレンジャー部隊が北朝鮮に極秘潜入し金正恩を誘拐した上、韓国の反政府ゲリラを指揮して朝鮮半島に親日政権国家を作るようなもんである。
とんでもない、まさにクリスチアナ・ブランド級のはなれわざである。
これこそまさに、真の「仕事ができる男」ではないか。
こじゃれたイタリアンの店でOLさんたちに、そんなステキな男性を紹介してあげたい。
そんな気分になった、さわやかな9月の昼下がりであった。
(続く→こちら)
前回(→こちら)の続き。
「爆笑問題の太田さんがここを読んでるらしいですよ」
ある女性から届いた、一件のこんなコメント。
これはいわゆる、「あのアイドルの極秘画像が流出!」などといった件名で興味をひき、メールやリンク先を開くとウィルス感染とかになるというアレではないか。
まったく、いくら無視してもこの手の仕掛けはなくならないもので、先日も、
「この間のステキな夜が忘れられない罪な女です。また会いたいので連絡ください」
というメールが届いたのだが、ひっかかる以前に、
「そういや、女性との《ステキな夜》なんて、もう何年過ごしてないやろうな……。これを開く人は、心当たりがある体験があるってことなんやろうな。ひっかかるのは阿保やけど、ある意味勝ち組か……」。
なんて、そっち方面でブルーになってしまったものだ。ウィルスよりも思わぬところでメンタルにダメージである。
そんなわけなので、とっとと読み捨ててしまおうと思ったが、くだんのコメントにはまだ続きがあった。
「コレは本当です。その証拠に、新潮社から出ている『yomyom』の創刊号を読んでみてください。ばっちり書いてあります(笑)」
しつこいヤカラである。すでに見破られているというのに、往生際の悪い奴だ。
なんとも辟易したものだが、雑誌を読めというのは気になるところであった。電脳空間ならともかく、ネットと『yomyom』にどういう関係があるのか。
というわけで、ヒマな日を選んで、すみやかに同書を立ち読みしてみたところ、あにはからんや、これが本当に太田さんが私の書いたものを読んでくれていたことが証明されたのであった。
経緯を簡単に説明すると、雑誌のコラムの中で、太田さんはSF作家のカート・ヴォネガットについて語っておられた。
太田さんが、自らの事務所に『タイタン』と名づけるほどのヴォネガットファンであることは有名であるが、コラムではその愛について切々と語っておられる。
曰く、本やネットなどでヴォネガットについて語っている人を見ると、名前も顔も知らないのに親近感を持ってしまう。つい最近も、あるブログでヴォネガットのことにふれてる人がいた。自分はまたも、他人であるその人に強いシンパシーを抱いた。
ところが、その人の文章にはオチにこんなことが書いてあったのであった。
「近所の本屋の『タイタンの妖女』のPOPに《爆笑問題の太田光も絶讃》とあるんだけど、安易にタレントの名前とか使われるとチョー冷めるんですけどぉ、マジ勘弁」
太田さんからすれば、「おお、この人も同志か!」。なんてテンションがグッと上がったところへ持って、自分の悪口がオチに使われていたわけである。
まさに二階に上げてハシゴを降ろされるというか、せかっくのよろこびに水を差されてさぞやガッカリされたに違いない。それどころか、かなりムカッときたことであろう。
ネット上には、こういった無礼なヤカラがまま見られるのが問題である。顔も名前もわからないのをいいことに、有名人や外国人のことなどを罵倒する。
まあ、こういう人はネット上だけでしか権勢を振るえない情けない存在と相場が決まっている。実生活ではうだつが上がらない分、匿名で暴れてフラストレーションを発散させているだ。
なんという惨めな男であろうか! このような人として最低のクズがいるからこそ、最近の日本はおかしくなっているといっても過言ではない。
そんな妬みとそねみにさいなまれ、人を引きずり降ろすことにしか人生のよろこびを見いだせない、生きるに値しないかわいそうなダメ人間はといえば、それがなんと不肖この私のことなのであった。
あらあら、これ書いたの、たしかにワシですわ。
思わぬところで、自分の吐いたツバを飲む羽目になってしまった。
くだんのコメントをくれた女性というのは、この最後の嫌ごとをグーグルで検索して、当ページにたどり着いたのである。しかも、太田さんは丁寧に当該センテンスを一字一句正確に引用してくれたので(おそらく興味を持った人が検索しやすいようにであろう)、他にもいくつか、
「『yomyom』読みましたよ」
といったものや、中には、
「こらー! 誰だ、あたしの愛する爆笑問題をバカにするヤツはー!」
といった、ファンの方からの熱いコメントまでいただいたりして恐縮したものだ。これには反省すると同時に、
「あー、ネットってすごいなあ」。
すっかり感心してしまったのである。
いや、ホンマに有名人が自分のブログを読んでたりする、そんなことがあるんですねえ。太田さん、変なこと書いてすいません。悪気はなかったんです。
オチが思いつかなかったもんで、たまたま本屋で見たPOPの文言を使わせてもらっただけなんですけど、まさか本人が読むとは思いもしなかった。
ちなみに、太田さんの文章は「オレを中傷するクズがいる!」みたいな怒りの表明ではなく、本来なら不愉快に感じるであろう私の言葉すら、オチに使って笑いに転嫁する見事な背負い投げを披露された、完成度の高いエッセイとなっている。
そのあざやかな返し技には感心させられたものだ。なるほどー、これが「玄人の芸というやつかあ」と。
いやホント、プロってすごいです。これ以来、私はすっかり爆笑問題のファンになってしまった。さて、更新も終わったし、年末に録画しておいた検索ちゃん見ようっと。
「爆笑問題の太田さんがここを読んでるらしいですよ」
まだこのブログをはじめたばかりのころ、ある女性からこんなコメントをいただいたことがあった。
インターネットというのはたいしたもので、ブログやツイッター、フェイスブックなどで、これまでなら絶対にコミュニケーションなど取れないはずであった遠方の人や有名人とも交流することができる。
すごい時代である。私の周囲でも、嫌いな芸人に嫌ごとコメントを送って怒られたり、好きなアイドルに自作のポエムを送ってキモがられたり、政治的な論争をやっているうちに炎上が止まらなくなったりと、各地で盛り上がっている。
そんな中、いよいよ私も有名人とコミュニケートデビューである。
それも爆笑問題の太田さんといえば、お笑いの世界でもトップクラスのスター。さすがは私、やはり在野にいてもその才は隠せないようだ。
彼のような、見る人が見れば、「こいつはモノがちがうぞ」と、どうしても目をひいてしまうのだろう。プロも認める、あふれくる才能と将来性をもった私だ。まったく、たいした男であるといわざるを得ない。
などという中2病じみた妄想におちいりそうな内容であったが、同時に私の中の危機管理センサーも敏感に反応するのであった。
「これは罠ではないか」
よくあるではないか、パソコンやケータイに届くアレだ。
「女子高生です、最近困っているので援助してください」
「さみしい人妻です。愛人になってくれませんか」
「アイドル○○のマネージャーです。彼女が最近悩んでいるようです、相談にのってあげてください」
なんてタイトルで目をひいて、うっかり開くとウィルスだったり架空請求が来たりしてノートン先生に怒られるというアレ。
まあ、私の場合はそのような誘いにのせられるようなトンマではないので、引っかかったのはこれまで、せいぜい25回程度のことだが、また性懲りもなくその手のブービートラップである。
そもそも、あまりの人の少なさで、周囲から
「残され島」
「そして誰もいなくなった」
「川崎球場のロッテvs南海戦」
などと揶揄されているこんな過疎地帯に、芸能人などくるわけがないではないか。
よくブログやツイッターをやっている人が、
「誰も見てくれないから、心が折れました」。
なんて、更新をやめてしまうことがあるが、そんなのは当たり前である。
私もかつては友人とミニコミを作ったり自主映画を撮ったりしていたものだから、この世界における絶対真理である、
「世間の皆さまは、誰も知らん素人が書いたり創ったりした小説やマンガやコラムなど、カケラも興味などない」。
ということは身にしみてわかっているのだ。もうね、一所懸命やってるのに、信じられないくらい人って来ないもんですよ。
クレバーな私は瞬時にそのトラップを見破り、
「おい、オレのブログ爆笑問題が読んでるねんぞ」
などと吹きまくって後で、
「うっそぴょーん。だまされやがって、やーいやーいベロベロバーカ!」
そんな、どんでん返しを食らって赤っ恥という展開は回避することができた。
こちとら、そんなドッキリにかかる素人ではない。フッフッフ、見よ、この読みの深さ。
おそらくこんなことを仕掛けてくるのは、私の台頭におそれをなすNASAかユダヤ・フリーメーソンといった巨大な組織の陰謀であろうことは想像に難くない。どこのどいつか知らんが、私をハメようなど100億万年早いのである。
悪の組織敗れたり! 私にケンカを売ろうなど愚か極まる。みそ汁で顔を洗って出直してきなさい。
なんて一発カマしてスルーしようとしたのであるが、この怪しげなメールにはまだ続きがあったのであった。
(続く→こちら)
キラキラネームというのが、なにかと話題になっている。
これに関して賛否はあるが、世の中には逆に本名が地味なのにニックネームの方が、やたらといかつい人というのが存在して、おもしろい。
たとえば、ウィンストン・チャーチルなどその不屈の闘志から「タンク」と名づけられている。
関西人の私としてはお笑いのシンクタンクのタンクさんを連想し、図らずも歴史書をひもときながら笑ってしまうが、その同盟国ソ連の指導者スターリンも、なかなかにキラキラしたニックネームの持ち主である。
スターリンというと、名前は「ヨシフ・スターリン」であると歴史書などには書いてあるが、実はこれ本名ではなくニックネーム。
本名は、「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ」という舌を噛みそうになるような、いかにも東欧っぽい名前。ちなみにスターリンの出身地はロシアではなくグルジア。
なので、この「スターリン」というのは鈴木一朗が「イチロー」と名乗るようなもので、いわば登録名みたいなもの。
で、その意味というのが、
「鋼鉄の男」。
おお、かっこいいではないか。鋼鉄の男。鉄男くん。強そうである。さすが権力者にありがちな、
「みんながオレ様の地位をねらっている」
という妄想だけで、2000万人もの人々を粛正し、ビビリ倒されていた人。たしかに、それくらいのドッシリした名前がよく似合う。
「2000万人」である。南京やアウシュビッツなど鼻で笑われる数字であるというか、2000万人ってヨシフ……。オーストラリアの人口と同じだよそれ……。
独裁者といえば、とかくババリアの伍長殿が取りざたされるが、鋼鉄の男とくらべたら小さいもんだ。数がヒトケタ違う。たしかに、たいした「鋼鉄」っぷりである。
まあ独裁者といえば、毛沢東主席も大躍進政策では3000万人、文化大革命は2000万人と、これまたけた違いの数字をはじきだして、こちらも全然負けてないところもすごいですが。
大東亜戦争の日本人の死者が全部で約300万人。不謹慎を承知で、つい「たった」とつけそうになるのが怖い。共産主義は命が安い。
あと、これはまったくの余談だが、高校時代の友人ムラサキ君のあだ名はスターリンと同じ「鉄の男」であった。
なぜムラサキ君が「鉄の男」と呼ばれていたのかといえば、彼がスターリンのような冷酷な独裁者だったから……。
ではなく重度の鉄道マニアだったからであった。日本は平和でなによりである。
より正確にいうと、お店で自分が注文した食べ物が来ても、同席している友人らの注文したメニューが来なければハシを取らない人。これが、よくわからないのだ。
彼ら彼女らは、なぜか食べない。
同席者全員の注文した食事が来ない限り、決してハシを取らない。しつけのいい飼い犬のように、皿を前にしてじっとしている。「食べなよ」とうながしても、ニッコリ微笑んで「いいから」と首を振る。皆がそろうのを待ってくれているのだ。
でもこれ、待たれている身からすると、全然うれしくないんですよね。
むこうは気を使ってくれてるんだろうけど、逆の立場から見たら、目の前でその人の頼んだ皿が、どんどんさめていく様を見せられるのだ。
たとえば「待つ人」とレストランに行ったとしよう。こちらはオムライス。「待つ人」はハンバーグステーキセットを注文したとする。
談笑しながら待つこと数分。まずは鉄板にのったハンバーグステーキセットが登場。アツアツのゴハンと湯気の立つスープがついている。ドミグラス・ソースがたっぷりとかかっていて、思わずノドが鳴る。
これが私だったら、「いただきまーす」と子供のようにはしゃいで、「さめないうちに」とすぐさまハシを取り、ハンバーグムグムグ、ゴハンハグハグの法悦にひたることだろう。
ところが「待つ人」はそうしない。待っている。何を。私の注文したオムライスである。
まだ料理の来ないコッチに気を使って、ハシを手に取らない。
鉄板の上では、ソースたっぷりのおいしそうな焼きたてのハンバーグが
「早くあたしを食べて」
と情熱的に横たわっているのだが、無視だ。彼は食べるどころかそれを見ることすらしない。
「食べへんの」と尋ねると、おだやかな表情で、
「いいから」
いいからといっても、目の前ではハンバーグがジュウジュウグツグツと音を立て、
「さあ、早くそのおハシであたしのことをメチャクチャにして!」
と激しくアピールしているのだ。なぜ食べないんだ、冷めるじゃないか。文字通り据え膳食わぬは男の恥だぞと言いたくなる。。
「はよ食べんと、さめてまうよ」といってもニッコリと、
「いいからいいから」
いやいやだから、そっちはよくてもこっちはよくないんだよー(泣)。
なんということだ。さっきまであれだけジュウジュウグツグツと盛大に熱を上げ、「あなたと早く一緒になりたいの」と伝えていたハンバーグたちが、その思いをどんどんと減らしているのがわかる。
そして、その蜜月の時をうばったのは他ならぬ私なのだ。私のオムライスが来ないせいで、彼らの間の「熱い思い」は急激に冷え切っていく。
耐えられない。目をおおいたくなる気持ちになる。
あせりを覚え、忙しく立ち働くウェイトレスさんに「ちょっと、ここオムライスまだなんですけど」なんてイヤミっぽくいってしまって、穏やかな表情で待っている目の前の人とくらべて自分はなんと器の小さい男なんだと自己嫌悪におちいる。
が、元はといえば、この人が素直にハンバーグをアツアツのまま食べてくれれば、オレはこんな目に会わなかったのに、とだんだんと錯乱してくる。一体、誰が悪いのか。どこに罪があるというのか。嗚呼、私は頭をかかえ、天に吠えたくなる。
祭は終わった。いまやアツアツだったはずのハンバーグはジュウもグツもやめて
「ずっと放っておくなんてヒドイ!あんたなんかもう知らない」
とふてくされてしまっている。紳士的な態度が、必ずしも愛の成就に結びつくとは限らないという好例だろう。ときには人目もはばからず、ワイルドに攻めることも大切なのだ。
やがて、機を逸した形でオムライスが登場。私の目の前に置かれると、彼はウェイトレスさんの「ご注文の品以上でよろしかったですか」との質問に「はい」と答え優雅にハシを取り、「いただきます」と、冷えてボソボソになったハンバーグを食べるのだった。
以上、実体験に基づく悲劇である。
にしても、今回はハンバーグだったからまだ被害は少なかったが、これがトンコツラーメンだったら、なべ焼きうどんだったら。ああ、なんと怖ろしいことだろう。考えただけで身震いする。
いやホントに、鉄火丼とか冷や奴定食とかならともかく、せめて温かいものはすぐに手をつけてほしい。グラタンとかが目の前で冷えていくのを見るのは、こっちは本当につらいんです。
ということなんで、私と一緒にゴハンを食べる方は、どうか気を使わないで料理が来たらすぐ食べてください。後輩でも全然OK。私は上下関係に超アバウトです。おいしいうちに、ハグハグ食べてほしい。
日本人として、気づかいなのはわからなくもないけど、それはなんか、間違ってるような気がするんだよなあ。
作ってくれた人も、きっとそうしてほしいと思うんですよ、ホントに。
最近、碁をはじめてみた。
前回(→こちら)も言ったが、まずは入門書を読んだところで、
「なるほど、碁とはSFであったか」
と、独自流に解釈して意味の分からないまま実戦譜などを盤にパチパチ並べている。とりあえずの目標は銀河帝国司令官の10級くらいである。
さて、碁や将棋、チェスなど盤上ゲームではその勉強法というのがだいたい共通している。
柱は3本で、「定跡や手筋を覚える」「詰将棋(詰碁、チェス・プロブレム)を解く」「とにかく実戦」この三つ。比重や量は人それぞれだが、これらをひとつでもまじめにやれば、たいていの人は中級者、まあアマチュアの初段前後にはなれるであろう。
私が今取り組んでいるのが、とにかく実戦譜を碁盤に並べること、これだけ。
というと、おいおい詰碁や実戦はやらないのかとっこまれそうであるが、それはまた後で。とりあえず、今は本にあるプロの対局をひたすら並べるだけ。これで実力アップを図ろうという算段である。
というのは、私の将棋上達法からきている。
私の腕は、将棋倶楽部24で初段という典型的な中級者(もう10年くらい指してないので、今はもっと弱いと思うが)。で、そこまで行く勉強法というのが、
「ともかくも、プロの棋譜を並べまくる」
ということだったからである。
といっても、別に将棋を強くなろうと思ってやっていたわけではない。単に棋譜並べがおもしろかったから、やっていただけだ。趣味といってもいい。
プロの棋譜には、一種独特の美しさがある。これは将棋を知らない人にはピンとこないところもあるだろうが、そこには様々なものが内包されている。
何百年といった時の流れに洗練されて残る手筋や、それに堪えて今なお進化する定跡の数々。碁やチェスもそうだが、いわばそこには「歴史のエッセンス」が詰まっている。
そんな人類の知の遺産の中に、棋士たちの深い読みや新しい発見、はたまた哲学や勝負魂などがミックスされ、さらにはそこに人間くさいポカやうっかりなどの不協和音などがちりばめられ、わけのわからないことになってくる。
それがまるで、よくできた楽曲のような、はたまた時にはコミカルでドタバタの人間喜劇のような、そんな一幕の歌劇でも見ているような気持ちにさせられるのだ。
そんな大げさなといわれそうだが、将棋や碁をやる方は、きっと大きくうなずいてくれることだろう。序盤の画期的新手や、終盤での奇跡的な詰み筋や、信じられないような妙手を見せられたときなど、本当にベートーベンの『運命』みたいに、ジャジャジャジャーン!という大音が聞こえるような気になるのだ。
その証拠に、ジェイムズ・ジョイスの日本語訳などで有名な翻訳家の柳瀬尚紀氏は、羽生善治名人と森下卓八段の名人戦第一局を鑑賞して、
「バッハの曲を聴いた心地がした」
とコメントしておられた。
あの一局は、最終盤で丸勝ちの将棋を、森下八段が一手ばったりの大ポカで失い、名人戦史上に残る大逆転と評されたところから、
「バッハっちゅうよりは、かしまし娘の音楽漫才みたいやろ」
と私は感じたものであったが、これには将棋ファンである官能作家団鬼六氏も羽生名人(当時)との対談で、
「僕はバッハというより、チャンチキオケサを感じちゃったんですけど」
とズバリ言い放ったが、これには名人も
「あれ、チャンチキオケサの方が当たってるかもしれませんよ(笑)」
と答えておられた。
そらまあ、バッハはかっこつけすぎですわな。と、そこはいいたくはなるにしろ、本来は記号の羅列のはずの棋譜から音楽的なものを感じ取れるのは、将棋ファンなら感覚的にわかるところなのだ。
強い人の棋譜にはそういう技術の修練と人間味のようなものが合致して、なんともいえない芸術性と「おかしみ」のようなものがにじみでているのだ。それを感じられるのが楽しい。
いわば、小説や戯曲を読むような感覚に近いというか。一昔前はよく
「囲碁や将棋の棋士は理系」
なんていわれたものだが、そういう意味では私は完全に文系のファンであるといえるかもしれない。
そうやって、特に勉強する意図もなくパチパチ並べていただけだが、えらいもので、そうやっているうちに、なんとなく自分の将棋にも影響が出てくるようになった。
そらそうだ、スポーツでいえば解説付きでプロの試合を見て、そのビデオを見ながら自分もフォームをまねてみるようなものだ。そのうち何となく「コツ」みたいなものがわかってくるようになる。
具体的には、「厚み」とはなにかとか、四間飛車対穴熊で、どのタイミングで64歩とつくとか、銀冠で玉が17に行ってしのいでいるとか、不利になったときのねばり方や戦線の拡大の仕方などは、実際に自分より強い人の手を鑑賞しないとわからないことが多い。
そういう感覚が、あくまでフワッとであるがわかってくる。よく絵や書の審美眼を身につけるには、ひたすら「本物を見る」のがいいというが、それみたいなものであろうか。
幸い、将棋の場合は手で駒を並べることによって、「体で感じる」ことができる。いわば、絵や文章における「模写」をしているようなものだ。将棋の郷田真隆九段は
「いい手は指が覚えている」
という名言を吐いたが、それを少しは体感できるようなのだ。自然に「筋」のところに手が行くようになります。スポーツでいう「自動化」みたいなものか。
そうして、なにも考えずにタイトル戦などをパシパシ並べていて、あるとき24で指してみたら、初段になっていたというわけである。棋譜並べ、すごいなあ。
ここでのコツは、あくまで気楽にやること。よく棋譜を並べる際には、
「途中で手を止めて、次の一手をじっくりと考えてみる」
なんてアドバイスもあるが、私はおすすめしない。そんなしんどそうなことをやっていては、どこかでイヤになるからだ。
とにかく、ひたすらヒョイヒョイやる。それだけでOK。素人の、しかも私のようなナマケモノの勉強法のコツは、
「とにかくハードルを下げること」。
もちろん、熱心にやる方が上達が早いに決まっているが、残念なことに「気合い」は「上達」に比例してブーストをかけるが「挫折」のメーターもまた気合いに比例してグラフを描くようにできている。
習い事やお稽古事で大事なのは「うまくなること」よりも「やめないこと」である。
ダイエットでたとえればわかりやすいが、「絶対やせるぞ!」「1ヶ月で5キロ落とす!」なんて挑むと、やせるのも早いが、反動でリバウンドしやすいし、そうなったときの心の折れ方も大きいのは、誰しも体験したことがあるだろう。それくらい「気合い」というのは諸刃の剣なのだ。
だから、あくまでのんびりと。ゆるい棋譜並べだけでも、そう捨てたものではない。現にそうして、実戦を10年以上指してないにもかかわらず、ただ並べるだけで私は初段になったのだ。
こういった経験があるので、とりあえず猿のようにひたすら棋譜を並べている。気長にやれば、これとNHK杯観戦だけで、初段にはなれるはず。5年後が楽しみである。それまで続いていたらだけど。
(この話題、さらに次回【→コチラ】に続きます)
碁をはじめてみた。
私は将棋ファンであるが、将棋好きにも二種類のタイプがいる。それは碁も打てる人と、打てない人。
私は典型的な後者であり、碁のことはまったくわからないし、興味も持ったこともない。知っていることのせいぜいが『ヒカルの碁』に書いてあったこと程度。だから、こないだまでコミが6目半になっていたことすら知らなかった、まさにずぶのド素人である。
そもそも、囲碁は将棋とくらべてとっつきにくいというイメージがある。いや、碁もルール自体はシンプルなのだが、見ていて勘所がつかみにくい。
将棋の場合、駒の動かし方さえ覚えれば、駒の損得とか、玉の固さとか、そういったビジュアル面でどっちが勝ってそうとか判断できるし、ゴールは王様を詰ますこととハッキリしていてわかりやすい。
囲碁の場合、そこがつかみにくい。盤面には白と黒しかなく、どこにポイントをしぼればいいのかの判断が難しい。中盤の形勢判断とかちっともわからないし、そもそもどうなれば終局なのかとかもちんぷんかんぷんだ
実際、将棋の棋士である阿部光瑠四段など、子供のころ『ヒカルの碁』の影響で碁をはじめてみたが、ルールがよくわからないまま将棋に転向し、そのままプロになったというエピソードがある。やっぱり、囲碁は導入部にやや高い敷居があるようだ。
そんな私がなぜ碁をやってみようかと思ったのかといえば、宮内悠介の山田正紀賞受賞SF囲碁小説『盤上の夜』と、団鬼六の『落日の譜 雁金準一物語』がえらいことおもしろかったことと、たまたま碁石と折りたたみの盤をいただいたこともあって、「これはいい機会かも」と、軽い気持ちで手を出すことになったのだ。
一応、ざっくりしたルールは阿部四段同様『ヒカルの碁』で知ってはいたが、いかんせんそれ以上の定石やらはさっぱりわからない。
私はこういうとき教室などよりも独学で本からはいるタイプなので、さっそく図書館に走って入門書をいくつか借りてきた。井山裕太本因坊や石倉昇九段の本などである。
家で折り畳み盤を広げて、まずは黒石をパチリ。うむ、安物だが音は悪くない。将棋もそうだが、この駒や石を打ちおろすときの乾いた音が士気を高めるのである。
ネット対局も悪くないが、やはりリアルの盤駒にはそれなりの良さはあるものだ。碁も将棋もよく「上達するにはいい盤を使いなさい」というが、それは営業戦略もあるけど、やはりあの「パシ!」という音が気持ちいいというのも大きいのだ。スポーツだって、バットやラケットの打球感がいいと、練習が楽しくなりますからね。
とりあえず、本の手順に導かれるままに並べてみる。もちろん、意味はわからないが、まあよい。まずは習うより慣れろだ。
数冊分の定石や実戦例を鑑賞してみたところ、私の持った印象は、
「碁ってSFなんやー」
ということであった。
これは、『盤上の夜』に引きずられたというわけではなく、まず碁の19路盤をあらためて見たときの第一印象というのが、
「SF映画のレーダーの画面みたい」。
そう、ガンダムとかスタートレックに出てくる大画面のあれだ。オスカーとマーカーが、「4時の方向に敵戦艦発見。15分後には接近します!」とかやってるやつ。
そこに碁石を置いてみると、ますますレーダーっぽくなった。黒石と白石が、まるで植民星かスペースコロニーのように画面上に勢力を作っていく。
そうして、手が進むごとに、宇宙模様が徐々に描かれていく。星同士、コロニー同士がぶつかりあい、押し合いへしあいしながら陣取りゲームを行う。うーん、これはまさに、銀河帝国同士の宇宙戦争をレーダーで鑑賞しているみたいではないか!
というと、「幼稚か!」とつっこまれそうだが、『ヒカルの碁』の中でも、ヒカル君が、
「この盤は宇宙なんだ。オレはここに自分の手で宇宙を作り出すんだ」
みたいなことを言っていたではないか。いや、それどころか、石倉九段の解説によると、碁盤とは暦や占いにも使用され、19路の由来もそこからきているし、碁盤全体のイメージは宇宙からきているという。
盤上にある点が「星」と呼ばれることも、真ん中の星が「天元」であるのも、その表れだ。
さらには、碁盤はそれ自体は二次元の平面だが、本質的には天元を中心としたピラミッド状になっているらしく、実際は三次元の立体的な空間なのだ。
おお、ますますSFっぽいではないか!宇宙戦争にピラミッドパワーで銀河構築。シブすぎる。板の上の宇宙。フェッセンデンか。
将棋が、駒の性能を生かした「ソロモン攻防戦」とか「ア・バオア・クーの戦い」みたいなモビルスーツの接近戦だとすれば、碁の方はレビル将軍が指揮するところの「星号作戦」みたいなものか。うーん、ますますシブい。なんか「三連星」とか出てくるし。やっぱりSFやん。
という私のイメージが碁の正しいとらえかたなのかどうかはわからないが、ともかくも勝手に見立てたところでは、「囲碁=銀英伝」みたいな感じである。あるいはアシモフか。
そんな私は今のところシチョウすら今一つ理解できていない素人であり、銀河帝国の興亡というか、田中啓文さんの銀河帝国の弘法も筆の誤りといったところだが、とりあえずのところは宇宙戦線司令官アマチュア10級くらいを目指して精進したい。
■この話題、次回(→こちら)も続きます。