前回(→こちら)の続き。
「いまだに、なんでランドセルなんていう、ダサくて値段の高いものが売れてるんやろう」
という素朴な疑問に、私とともに
「森羅万象、世の中のことを下世話に邪推する」
ことを旨とする「邪推会」という組織を結成した友人マツムシ君は、
「学校に【男らしいヤツ】がいてるに決まってるやんけ!」
バシッと決め打ちしてきた。
といわれてピンときた。
なるほど、そうかそういうことか。不肖この私、邪推会ナンバー2の男として、そこはぬかった。
そんな「商売上手の陰謀」なる、つまらない結論に飛びつくとは。
うっかり太平の世に流されて、「よこしまに世界を解釈しよう」という熱い心を失うところであった。
といわれても、読者諸兄にはピンと来ないかもしれないので、ここに説明すると、我々の言う「男らしい」の定義は以下のエピソードに集約されている。
これまた現在はどうか知らないが、私が中学生くらいの時(昭和から平成に切り替わるくらい)、女子の体操服といえば男子のような短パンではなく、ブルマが主流であった。
ところがこのブルマ、女子生徒からは相当に不評であった。
できれば別の、それこそ男子と同じような、短パンのようなものにしてほしいという意見が、大勢を占めていたのである。
これは、うちの学校だけではなく、けっこう全国的に女子の総意であったらしく、その後日本中の学校で「ブルマ廃止」を求める運動が起こったらしいのだ。
テレビのニュースか新聞で見た程度なので、くわしいことはわからないが、教育委員会に嘆願書が提出されたり、女性議員がそのことを問題視したりと、それなりに大きな話であったらしい。
私は男子なので関係ないといえばないのだが、そこまで嫌がってるんだったら、廃止したらええやん別に。
くらいに思っていたものだが、後にある新聞だったか雑誌だったかの記事を読んで、そう簡単に割り切れるような問題ではないことを知ることとなる。
ある県の学校でも、ご多分にもれず「ブルマをやめてほしい」という女性側からの意見書のようなものが、提出されたそうだ。
普通ならそこまでされたら「じゃあ、そうしましょか」となりそうだが、その学校の校長先生はそうではなかった。彼は男らしかった。
その校長は机をドンと強く叩くと、意見書を持ってきた人に
「ブルマ廃止だと! ふざけるな。そんなことをいってるのはどこのどいつだ! ここに連れてこい、俺が話をつけてやる!」
大激怒したそうである。
オレが直接話をつけてやる! 熱い、実に熱い先生である。
校長自らが直談判。昨今、役人や大企業のトップが、組織の失態において責任逃れに汲々とする中、自ら出て行こうとするこの校長はまさに男である。
ブルマ廃止。それは、よほど校長氏の教育理念に反する態度だったのだ。
そして、その理念というのは、まあごく自然に考えたところで、おそらくは
「オレはブルマが好きだ」
ということであろう。他に、特に納得のいく合理的結論というのも思いつかないし。
オレの趣味を邪魔するなと。この校長先生はきっと「正直は美徳」をモットーに生きておられるのだ。
戦後民主主義教育において我々は、画一化ではなく「自分らしく生きる」ということが大事だと教えられた。
そこからいえば、この先生はまさに身をもって「自分らしさ」を体現したともいえる。
世間の声に屈することなく、また他人にどう思われようとも、自らの道を貫き通す。まさに男の中の男ではないか。
もうおわかりであろう。いまだランドセルが現役でいられるのは、ブルマと同じく、
「ランドセル廃止だと! 誰がそんなことを言ってるのだ! オレが直接話をつけてやる!」
といった、「男らしい」先生とか権力者だとかが、どこかにいるせいなのだ。
まったく、わが友は大したヤツだ。そんな根拠もない下世話な邪推を、こんなにも堂々さわやかに披露するとは、まさにエースの仕事。
やられたぜ、相棒! ランドセルのCMに出演して、さわやかな笑顔を振りまいてギャラをもらっていた体操のお兄さんは、日本の教育者のアブノーマルな性癖に感謝すべきであろう。
こうして私は、またもや一つの真理を得た。
このように我々は、今日も世界にあまねく広がっているさまざまな謎を、ややこしく解釈しては悦に入っている。
みなさんも、根拠なき妄想を求める問いがあれば、ぜひ邪推会までご連絡いただきたい。
「ランドセルが生き残ってるのは、《男気》のおかげやろうな」
唐突に、そんな意味不明なことを言い出したのは、友人マツムシ君である。
なぜマツムシ君が、そのような話を切り出したのかと問うならば、なにげなくつけていたテレビから、ランドセルのCMが流れたからであった。
それを見て私が、
「ふーん、今どき、ランドセルしょってる子供もおるんや」
なにげなく、口にしたわけだ。
ランドセル。なんであんな前時代的なものが、今でも幅を利かしているのか謎なのである。
私が小学生だった昭和の終わりごろでも、ランドセルといえば子供には不評であった。
低学年ならともかく、物心ついてくるとデザインは画一的でダサイし、重いし、それほど機能的とも思えない。
おまけに、なにげに高い。だから女の子などは5年生くらいになると、ランドセルではなく、おしゃれなマイバッグで登校していたものであり、先生も特にとがめだてもしなかった。
まあ、こういうのは
「大人の事情」
「癒着」
「既得権」
といったものが、からんでいるのだろうが、少なくとも私の周囲で「ランドセル、サイコー!」という声は、まず聞いたことがなかった。
そんなんだから、昔ともかく、今ではとっくに駆逐されてるものだと思っていたが、そうではないようだ。
それどころか、子供のいる友人に連絡して聞いてみると、
「最近はランドセルによって、親の所得がはかられるんや。安物を背負っていったら、子供がいじめられたりすることもあるんやて」
たかがランドセルで、格差をうんぬんされるのも業腹だが、それにつけこんで、
「いじめられたくなかったら、高い品を買え!」
とかカツアゲする業界も、なんだか生臭くてイヤである。
ただまあ、実際に子供がいる家ではそう脅されると、安易に「あんなん、安モンでええねん」とは言いにくいのだろう。
独身貴族にはわからないが、子育てというのは大変なことであるなあ。
ということで、結論としてはランドセル業界の恫喝、もとい企業努力のおかげであろう、と結論がいったんは出そうになったわけだが、そこでマツムシ君は柔らかい笑みを浮かべながら
「シャロン君、そこで終わらせるとはキミらしくないな。ちょっと思慮が浅いんとちゃうか」。
らしくない、といわれても「商売人の事情」以外、特に他の理由も思い浮かばないわけだけど、なにかあるのかいと問うてみるならば友は、
「オレにはわかったで、このカラクリが」
ずいぶんと自信満々である。
とここで、私は巻いたフンドシをしめ直し、気合を入れることとする。
どうやら、友は本当にひらめいたらしい。目がよこしまに光っているのだ。
ここに伝えておくと、私とマツムシ君は
「森羅万象、世の中のことを下世話に邪推する」
ことを旨とする「邪推会」という組織を結成しており、そこではそんな通り一辺倒の結論などゆるされないのである。
世の中を楽しむには、「ゆがんだ発想で世界と対峙する」ことが大切なのだ。
そんな邪推のエース、ことマツムシ君がビシッと断言することには、
「ランドセルが今でも現役なんて、そんなもん学校に【男らしいヤツ】が、いてるからに決まってるやんけ!」
(続く→こちら)
私はジェットコースターは苦手だが、それは日本国憲法の精神に反しているからである。
さらにいうと、ジェットコースターは私の人間的権威を失意させる効力がある。
私がジェットコースターに乗ると、たいてい搭乗後、周囲からのなめられ度が上がる。
それまで私のことを「先輩」と呼んでいたかわいい後輩たちが、一様に「おい」に変わり、ついでにタメ口になる。
女子の場合はもっとひどく、タメ口どころか、そもそも口をきいてくれなくなる。これはいかなる手のひら返しか。
いったいなぜにてそのような株価大暴落が起こるのかと問うなら、まず私は一度乗ったマシンには二度と乗ろうとしないかららしい。
くわえて、そのときのいいわけがいちいちダサいというのだ。
たとえば、ある遊園地でコースターに乗った後私は、みながもう一度乗ろうと盛り上がる中、断固として再トライを拒否。
その際、強く主張していたことが、
「首が痛いねん。いや、別に怖いわけやないねんけどな。でも、首が痛いねん。乗ってるとき痛めたんかなあ。とにかく首が痛いから、もう乗られへんねん」
あまりに何度も「怖くはないが、首が痛い」と繰り返す姿は、目撃者によると、
「これほど情けない人の姿は人類の歴史上、見たことがない」
と語りぐさになるほどのもの。まさに世界史レベルに残るみっともなさであった。
首が痛いという軟弱さもさることながら、かならず枕詞に
「別に怖いわけではないが」
と入れるところに、ますます私の人間の卑小さがあらわれており、いよいよ男の威厳もへったくれもないようなのである。
私から言わせれば、何度も「怖くはない」と主張する者がいたら、
「それほど強く繰り返して言うのなら、きっとそれは本当のことに違いない」
素直に解釈するところだが、周囲の声は、
「あんなにしつこいくらい言うってことは……ブ! ブワッハッハッハ! こいつ超ダッセー!」
ということになるらしい。発想が逆なのだ。
なんというひねくれた考え方なのか! このように、人の言うことを信じられなくなるというのも、ジェットコースターの負の側面である。
正直者が「怖くはない」といっているのに、それをゆがめて解釈し、その人間性をおとしめようと陰謀を巡らす。
これこそが、まさにジェットコースターが人権に配慮せず、憲法にも背いているというなによりの証拠である。
人が人を信じられない。
我々は、そういう殺伐とした世界に生きているのだ。こんなことになってしまって、地球人類はこれからどうやって生きていけばいいのだろうか。
やはりこれは、日本人をつなげる強固な結束力を破壊し、世界支配をねらうNASAかユダヤ人の陰謀であろう。
その証拠にユダヤもジェットコースターも、ともに頭文字が「J」である。さらにいえば、あんな激しい動きにもかかわらず人が落下しないマシンなど、「NASAのすごい科学力」以外では製造不可能ではないか。
アポロが月に行っていないのと同様、いくら巧妙に隠そうとも、私の灰色の脳細胞の前には無力なのだ。おのれイルミナティめ、どこまで私を責めさいなめば気が済むのか!
ここまで説明すれば、私がジェットコースターのおもしろさがわからないことが、たいそうよく伝わったことと思う。
人を重き拷問にかけ、ついには人間同士の信じる心さえ失わせる恐ろしい機械なのだ。
こうして見事な論理によって私の
「ジェットコースターは怖くはないが、いろいろと苦手」
という説はあざやかに証明されたわけだが、最後に一つ問題なのは、こういったいいわけ……もとい説明をとうとうとしていると、どこかから誰にともなく声が聞こえてくるということ。
それはたいていが、野球部のような通る声で、
「ピッチャービビってる、ヘイヘイヘイ!」
というものであり、それはどうにも、自分の心のどこかからも聞こえてくるような気がしてならず、いったい誰が出しているのか、謎は深まるばかりである。
ジェットコースターの楽しさがよくわからない。
世の中にはジェットコースターや絶叫マシンが好きな人というのがいる。
よく休みになると遊園地に出かけて、高いところから落ちたり、空中で飛んだり回ったり華麗なツイストを決めたりして遊んでいる。
特に男子よりも女子の方が肝が据わっているのか、男が涙目で鼻をたらしながら「ヒイイイイ!」とか言うてる横で、女子たちはキャーキャーいいながら、なんとも楽しそうに乗っている。
なんなら、乗り終えたあともう一度乗ったりしている。女というのはタフである。
そんなジェットコースターであるが、どうもその魅力というのがよくわからない。
あれの、なにが楽しいのか。
まず、ジェットコースターというのは恐怖を味わうものである。
それがよくわからない。私はそれほど怖がりというタイプではないが、恐怖が快感であるという感覚がない。だから、お化け屋敷の類も興味がない。
人生には普通に生きていても、まだ給料日まで5日もあるのに財布に652円しかないとか、パソコンが壊れて5時間かけて集めた桃色遊技的動画がすべて消えてしまったとか、恐怖に凍りつくような事象が数え切れないほどある。
なのになぜ、わざわざ自分の意志で、しかも金を払ってさらに恐怖の数を増やすのか。頭がおかしいのではないか。そこが疑問である。
さらにいえば、ジェットコースターは基本的人権を無視している。
日本国憲法によれば、日本人は最低限文化的な生活を送る権利があるはずである。
にもかかわらず、ジェットコースターにしろフリーフォールにしろ、あとはバンジージャンプとかも、人を拘束し、逃げることをかなわぬようにしたうえ、上に行ったり下に行ったり、左右に揺さぶったり、果てははるか高みからつき落としたりする。
これは人権無視を通り越して、ほとんど拷問である。もし、地球の文化をまったく知らない異星人が予備知識なくこれを見たら、
「この地球と呼ばれるM240惑星の人々は、なんと野蛮な人種なのか」
とおそれおののき、我々の宇宙とのコンタクト、銀河連邦への加入の夢はきっと1000年は遅れることであろう。無念である。
それほどのリスクを犯してまで、人類は絶叫マシンに乗る必要があるのか。いま一度、我々は考えてみるべきではなかろうか。
などと語っていると、無責任な外野からは、
「で、結局のところビビってるってことだよね」
などという声が聞こえてきそうであるが、それはもちろんのこと大いなる邪推であり、おそらくは私のことをおとしめようとするフリーメーソンの陰謀であると考えられる。
(続く→こちら)
やけ食いする人もいればカラオケで熱唱する、中にはボクシングジムでサンドバッグをたたくなんていう人もいるかもしれない。
私が色々聞いた中でもっともインパクトのあったストレス解消法というのが、「ナスの呪い揚げ」というもの。中島らもの名著『明るい悩み相談室』で紹介されていた。
『北の国から』で有名な倉本聰さんが考え出したらしいが、まず野菜のナスに包丁で嫌いな人間、たとえばその人が「雲雀丘花屋敷さん」だったとすると、その名前を包丁でナスに彫りこんで、それを高温の油で、
「フッフッフ、雲雀丘花屋敷、今からお前を揚げてやるぜ」
と、ジャーと素揚げするというものである。どんな復讐法なのか。これを、らもさんではなく、倉本さん発案というところに、なんともいえない味がある。
これは女の子にフラれたときなんかにもいいかもしれない。
たとえば、会社の同僚のOL梅子を食事に誘って袖にされた夜など、ナスに「梅子」と彫りこんで、油で揚げてしまう。そしたら次の日、会社であったとき「フン」といった態度を取られても、
「フッフッフ、昨夜オレ様に280℃の油で揚げられたとも知らずにのんきなもんだな」
と、特に根拠はないが優越感にひたれる。
なるほどこれは、いい方法かもしれない。「油で揚げる」というのが、適度に残虐な感じでSな心を満足させ、「ジュワー」という音も嗜虐趣味を刺激しそうだ。
なにより、ネットでの中傷やイタズラ電話などとちがって人に迷惑をかけることなく復讐(?)できて気分がスッキリするところが良い。同時に食事の用意もできて野菜も食べられるし一石二鳥も三鳥もあるではないか。
昨今は、アイドルに熱愛が発覚してネット上で炎上なんてケースもよく見かけるが、そういうときこそこの「呪い揚げ」の出番であろう。
下手にテンパって「今までまんまとダマしてくれたな、このクソ女が!」などといった、みっともないことをツイッターなどに書き散らして、あとで恥ずかしい思いをするくらいなら、ナスに名前を書いてカラッと揚げてしまい、右往左往する仲間たちを尻目に、
「フッフッフ、悪いが彼女は昨晩すでに私が揚げさせてもらったよ。もちろん、その後おいしくいただいたがねワッハッハ」
と余裕をかませれば、気持ちもおだやかに……ならないかな。
そう喝破したのは、かのアインシュタインである。
フランス革命は「自由・平等・友愛」を謳ったが、人が真の意味で平等になれたかについては意見が分かれるところであろう。
世界には不合理な不平等があふれている。機会の不平等、民族差別、階級社会、埋められない貧富の差など、その理想をはばむ障壁は多い。
だが世の中には、そういった壁を乗り越えて平等を実現している場というのも存在している。
たとえば、ロックミュージシャンの大槻ケンヂさんは「焼肉屋平等論」を提唱した。
オーケンいわく、
「人は地位や民族や経済差に関係なく、焼肉屋では平等になる」。
焼肉屋ではたまに「鉄板の肉汁が飛んで、お召し物をよごしてはいけないから」と、紙製の前掛けを用意する店がある。
そこにはたいてい、その店のマスコットキャラクターであろうかわいい牛の顔がプリントされており、さらには「食べ放題で、モー最高」みたいなフレーズが書かれててあったりする。
前掛け。この時点で、すでにかなりマヌケだ。
どんな偉い政治家であろうと、一流大学を出たビジネスマンであろうと、IT長者であろうとイケメン俳優であろうと、焼肉屋では前掛け。
しかも、そこには「食べ放題で、モー最高」である。マヌケの二乗だ。それをオーケンは
「どんなに偉そうにしていても、焼肉屋ではみな前掛けをしている。その姿は赤ん坊が「バブバブ」といってる姿と変わりはない。しかも、《モー最高》である。みな、《マヌケ》という意味で、焼肉屋では平等である」
と結論づけるのである。
私はこれを読んで、まさにひざを打つ思いだった。
人間には様々な不平等があるが、《マヌケ》において平等になれる。
なんと深い発見なのか。そして同時に私の地元である大阪にも、同じような「マヌケゆえの人類平等」があることに気がついたのである。
その正体とは車のナンバーだ。
大阪の車には「大阪」「堺」「和泉」ナンバーがあり、それともうひとつ、「なにわ」というものが存在する。
「なにわ」である。マヌケである。
ただでさえ「浪速」という響きが、いかにも大阪的にもっさりした印象なのに加えて、さらに見た目でもひらがなで「なにわ」。
この脱力感は、なかなかのものである。
どんな高級車に乗っていても、外車で左ハンドルでブイブイいわしていても、ナンバーは「なにわ」。
たとえベンツに乗ろうがポルシェだろうが、フェラーリもシトロエンもBMWもカウンタックもジャンカーもラビットパンダもすべて「なにわ」である。
なんでも関東の人は「世田谷」とか「湘南」とかいうナンバーにこだわって、「千葉とか埼玉のナンバーなんて、かっこわるいよー!」などとほたえているらしい。
これにはマツコ・デラックスさんが
「たかがナンバーでガタガタ言うんじゃない!」
たいそう怒っておられ、まあ私もおおむね同意だが、こと大阪に関しては多少ナンバーについてこだわる人がいても責められない気はする。
大阪の一部地域では、どんなにカッコつけて高級車に乗っても、ナンバーは「なにわ」。
先日も難波で、サングラスをかけて助手席に女の子を乗せ、今どきオープンカーで走り回っている男を見たのだが、そのナンバーが「なにわ」であった。
これでは、いくらブイブイいわせても、見ている人からすれば
「ああ、なにわの人なんだ」
一言で終わらされてしまう。
あそこまで、イキっておいて、肝心の一番目立つところが「なにわ」本人は気にならないのだろうか。
オーケンいうところの焼肉屋の法則のごとく、大阪には誰もが等しくズッコケな「なにわ」ナンバーの法則がある。
ささやかながら、人類の理想実現に尽力できて、地元民として大いに満足である。