(前回)に続き、アレックス・ベロス『フチボウ 美しきブラジルの蹴球』を読む。
1950年ワールドカップ・ブラジル大会で、ほとんど手中に収めていた地元優勝の栄冠を、最後の最後に逃してしまったブラジル代表。
負けたのは悲劇だが、ブラジル国民はその後何十年もこの敗北に苦しみ、またそのため「賊軍」となった選手たちは、その人生を棒に振ってしまうほどの迫害を受ける。
では、なぜにて「たががサッカー」でブラジル人が、ここまでのダメージを受けたのか。
識者によると、ブラジルというのはポルトガルからの独立をはじめ、国の成立からワールドカップの年まで、さほどの歴史的うねりを体験していなかったところにあるという。
フランス革命やロシア革命、アメリカなら南北戦争、ドイツなら2度の大戦における敗北
中国なら帝国主義との戦いと赤化、イギリスも植民地をすべて失い没落した。
我が大日本帝国は言うまでもなく、国土を焼け野原にされた大東亜戦争。
多くの国には大なり小なりこういった、国の根幹がひっくり返るような歴史的挫折を経験しているもの。
だがブラジルの場合、もちろん細かい困難はあったものの、大きな戦争に巻き込まれることもなく、比較的安定した生活を営むことができた。
それによって、国民には重大なショックに耐えうる免疫力が育っていなかったというのだ。
いわば、当時のブラジルは「苦労知らずのボンボン」だったのだ。
そんなノンキな国民だったからこそ、初めて味わった敗北は消化しきれるものでなく、胃の腑を越えて逆流し、とんでもなくヒステリックなものになってしまったというのだ。
なるほど、彼らにとってあのギジャの決勝ゴールは、日本における玉音放送のようなものだったわけだ。
そういわれると、自殺者が出るというのも、理解できるような気もしてくる。
というと、スポーツに興味のない人は、おいおい、そんなたいそうな話かよとあきれられるかもしれないが、人にとって大切なものとは、往々にして他人にとっては意味不明なものだったりするのだ。
かつて杉良太郎は『君は人のために死ねるか』と歌ったが、逆に人は案外、自分以外のためだからこそ、死ねるというのはあるかもしれない。
子供のためとか、大義のためとか、誇りのために死ねるなら、サッカーのために死んでも、特段おかしくもなかろう。
ともかくも、いわば「若気の至り」ゆえに、ブラジルは「マラカナンの悲劇」の後遺症をなかなか払拭できなかったわけだ。
その意味では、次の2014年ブラジル大会はまさに、国民的トラウマをはらす絶好の機会。
こういうのを聞かされると、もう大盛り上がりは必至なので、ぜひともブラジルには因縁の決勝まで勝ち上がってと応援したくなるが、もし今回も準優勝だったら、おそろしいことになりそうかもなあ。
(続く→こちら)