前回(→こちら)の続き。
パリのユースホステルで出会った数学ガールのコミコちゃん。
「『7+5』っていくつになるかと思います?」
の問いに当然のこと12と答えると、なんと彼女はこんなことを言い出した。
「でも、7+5って、もしかしたら12にならないんじゃないかって思うんです」。
はあ? である。
コミコちゃん、なにをいっとるのかキミは。
7+5は12に決まってるじゃないか。7に5を足せば、答はそれしかない。
これはピタゴラスがやっても私のような阿呆がやっても同じ。
数学や数式の美しさは、その「絶対性」にあるが、これこそまさにそうではないか。
7+5=12。
これ以上もこれ以下もない、完璧で、たとえ宇宙がでんぐり返ろうともくつがえらない、絶対的な正義の解答なのである。
そんな小学生でもわかる問題に疑問をいだくとは、サンドウィッチマンの漫才ではないが、「ちょっとなにいってるかわからない」である。
ところがである。呆然とする私に対してコミコちゃんはカバンからノートとペンを取りだし、
「じゃあ、ちょっと説明してみますね」
そこに様々な数式を書きこみ解説しはじめた。
7+5は12にならない。
その単純すぎるがゆえに絶対くつがえらない命題に、彼女は果敢に挑むのである。
こっちは一応聞くのだが、それはあまりにも難解、かつ専門的、かつ形而上学的で、ほとんど理解できなかった。
それは私が数学オンチということもあろうが、おそらくはある程度数学を知っている人でも理解できなかったのではないだろうか。
それくらいハイレベルというか意味不明というか、超越的な視点からの数学観だった。
はっきりいって、気ちがいじみていた。流れるようにペンを動かす彼女を見ながら、正直ちょっとヤバいんじゃないかとすら思った。
だが不思議なことに、私はいつしかそれに聞き入ってしまっていた。
そこには学校の授業でやる、無味乾燥な数式の羅列とは違うなにかが表現されているような気がしたからだ。
コミコちゃんの「仮説」の証明に、私は次第に取りこまれていった。
わけはわからないが、ワクワクさせられた。ちなみに、これはよくある「1+1は2にならない」というパズル的な詭弁ではない。
さすがに、その程度のトリックは知っていたし、そもそもそんなレベルで語れるような内容ではなかった。
なるほど、そんな視点からの解釈があるのか。驚かされることばかりであったのだ。
まさか、7+5という、たったこれだけの式に、これほど語ることがあろうとは!
数学というのは、無機的なものではなくむしろミステリ小説を連想させる、大げさな言葉で言えば高度に完成された知的ロマンであることをはじめて知った。
彼女の「証明」を見ながら、このことを、高校時代に先生が授業で教えてくれていたら、私の数学に対するスタンスも少しは変わっていたかもしれないなあとボンヤリと考えた。
単なる公式の暗記ではなく、そういうことを生徒に教えるのが「教育」でないのかという気も。
そして、これは本当に驚いたことが、彼女がすべての解説を終えたとき、こちらが
「なるほど、その通りだ」
と納得したことだ。
まったくだ、その通り、7+5は12にならない、と。
もちろん、数学素人の私はコミコちゃんの説明をすべて理解できるはずもないが、あの瞬間は論理的、数学的に見て、7+5は12にならない。
少なくとも、ならない可能性は存在する。そう思わされたのである。
7+5は12にならないかもしれない。
この説が正しく、彼女は天才なのか、それとも珍説をふりまわすトンデモさんなのかはわからない。
もしかしたら、私は数学無知であることを知って、体よくからかわれただけかもしれない。
だが、数学というものが、有名なSF小説ではないが「冷たい方程式」ではなく、そこに様々なぶっとんだ発想や想像力やロマンがあることをコミコちゃんから教わった。
それまでは単なる記号にすぎなかった数式の持つ美しさや深淵を、ほんの少しだが味わえた気がした。
蒙が開かれるというのはこういうことをいうのであろうか。
賢人コミコちゃんありがとう。
キミは天才かもしれないし、気ちがいかもしれないし、もしかしたら、ただのお茶目ないたずらっ子かもしれない。
けど、学問における「なにかきっかけ」を与えてくれたのはたしかだ。
私が理系の本を読むようになったのは、彼女の影響大である。
それにしても、なぜその時彼女がノートに書いた数式と解説をコピーしてもらっておかなかったのか。
それが今でも、痛恨の極みだ。