最近、落語で、うかつにも泣いてしまった。
日本人はなぜか「泣ける話」が好きである。本でも映画でもお芝居でも、なにかといえば「涙が止まらない」「声をあげて泣きました」みたいな宣伝文句が並べられて正直辟易している。
というと、なんだか私がひねくれもののようであり、実際
「これで泣けないなんて、感性が鈍いんじゃないの?」
とかいわれたりもする。
感性が鈍くない人間は、人のことを「感性が鈍い」呼ばわりはしないと思うけど、それはともかく、私はなにも泣ける話を全否定しているわけではない。フランク・キャプラ『素晴らしき哉、人生!』とか、そういう「泣ける」映画で涙することもある。
ただ、なんでもかんでも十把一絡げにして「泣ける」で売るのは芸がないというか、逆にいうと
「泣ける以外では売れない」
と考えているということわけであり、売り手側に
「観客の知性を信じていない」
という一面があるのではという危惧もあるわけだ。そこがどうにもしっくりこない。
泣ける話に懐疑的なことに関しては、簡潔に言葉で説明してくれた人がいて、まず翻訳家の大森望さん。
「キミは泣ける話が嫌いなのかね」といわれて、
「そんなことないですよ。でも泣きって、感動の要素の中ではもっともハードルが低い分野でしょ。だから自然に点が辛くなるんです」
まったくその通り。「泣き」というのは喚起が容易なぶん、方法論が安易なものになりやすいのだ。『さよなら絶望先生』でもつっこまれてたような、「死んだら感動」とか「動物が出たから感動」とか。
いや、死ぬのはいい。動物が出て心が揺さぶられるのもアリだろう。だが、「それだけ」というのがあまりに多くてガッカリなのだ。
問題は、それら素材を「どう料理するか」なのに。
もうひとつは、斎藤美奈子さんの
「多様な読み方や解釈が可能な小説というジャンルにおいて、「泣き」だけに特化されるというのは、作家としての敗北ではないだろうか」。
捕捉すると、「(もっともハードルが低い)「泣き」だけに特化されるというのは、(それしか売り物にならないと判断されたというわけで)敗北ではないか」ということ。
これもまた、世間に数多ある安易な「泣ける話」と、なんでもかんでもそのレッテルを貼って「一発当てよう」とする売り手への強烈な一撃となっている。
一番簡単な「泣ける」ところしか評価されない、あんたの作品ってどうよ? と。
この2つの意見に賛同する私としては、「もっともハードルが低い分野」だからこそ、安易に流れてはいけないということで、芸のない泣ける話が苦手なのだ。
そんなへんくつジジイのようなことをふだんブツブツつぶやく私が、ではなにで泣いてしまったのかといえば、これが冒頭にも言った楽しい落語なのだから、我ながらおかしな話である。
先日、古いDVDを整理していたときに、桂枝雀さんの落語が出てきた。
かつて落語研究部に所属したこともあり、昔深夜にテレビでやっていた「枝雀寄席」を欠かさず見ていた身にはうれしい掘り出し物で、そうじも忘れてついつい見入ってしまったが、これがおもしろいのなんの。
『青菜』や『持参金』などなつかしすぎて、押入から昔集めた落語のCDまで取り出して、まとめて聞くことになった。
そこには桂米朝師匠をはじめ、桂吉朝さん笑福亭松喬さんなどなどお気に入りの噺家が腕を振るっているわけだが、中でも笑いの量が圧倒的に多いのが枝雀師匠。
個人的な好みとしては、米朝、松喬が2トップなのだが、単純にお腹の底から笑いたいときには、やはり枝雀師匠がいい。
「うまい落語」の笑いは、どちらかといえば玄人の演者と客との「わかってる者同士」の一体感が心地よいが、「楽しい落語」はそういったことは放っておいて、ただただおかしい。
素人が見ても、わーっと心から笑える。そこには、なんともいえない開放感がある。
そうして、「枝雀落語大全」を聞きながらヒーヒーいっているところに、唐突にブワッと涙が吹き出してきたのである。
(続く→こちら)
日本人はなぜか「泣ける話」が好きである。本でも映画でもお芝居でも、なにかといえば「涙が止まらない」「声をあげて泣きました」みたいな宣伝文句が並べられて正直辟易している。
というと、なんだか私がひねくれもののようであり、実際
「これで泣けないなんて、感性が鈍いんじゃないの?」
とかいわれたりもする。
感性が鈍くない人間は、人のことを「感性が鈍い」呼ばわりはしないと思うけど、それはともかく、私はなにも泣ける話を全否定しているわけではない。フランク・キャプラ『素晴らしき哉、人生!』とか、そういう「泣ける」映画で涙することもある。
ただ、なんでもかんでも十把一絡げにして「泣ける」で売るのは芸がないというか、逆にいうと
「泣ける以外では売れない」
と考えているということわけであり、売り手側に
「観客の知性を信じていない」
という一面があるのではという危惧もあるわけだ。そこがどうにもしっくりこない。
泣ける話に懐疑的なことに関しては、簡潔に言葉で説明してくれた人がいて、まず翻訳家の大森望さん。
「キミは泣ける話が嫌いなのかね」といわれて、
「そんなことないですよ。でも泣きって、感動の要素の中ではもっともハードルが低い分野でしょ。だから自然に点が辛くなるんです」
まったくその通り。「泣き」というのは喚起が容易なぶん、方法論が安易なものになりやすいのだ。『さよなら絶望先生』でもつっこまれてたような、「死んだら感動」とか「動物が出たから感動」とか。
いや、死ぬのはいい。動物が出て心が揺さぶられるのもアリだろう。だが、「それだけ」というのがあまりに多くてガッカリなのだ。
問題は、それら素材を「どう料理するか」なのに。
もうひとつは、斎藤美奈子さんの
「多様な読み方や解釈が可能な小説というジャンルにおいて、「泣き」だけに特化されるというのは、作家としての敗北ではないだろうか」。
捕捉すると、「(もっともハードルが低い)「泣き」だけに特化されるというのは、(それしか売り物にならないと判断されたというわけで)敗北ではないか」ということ。
これもまた、世間に数多ある安易な「泣ける話」と、なんでもかんでもそのレッテルを貼って「一発当てよう」とする売り手への強烈な一撃となっている。
一番簡単な「泣ける」ところしか評価されない、あんたの作品ってどうよ? と。
この2つの意見に賛同する私としては、「もっともハードルが低い分野」だからこそ、安易に流れてはいけないということで、芸のない泣ける話が苦手なのだ。
そんなへんくつジジイのようなことをふだんブツブツつぶやく私が、ではなにで泣いてしまったのかといえば、これが冒頭にも言った楽しい落語なのだから、我ながらおかしな話である。
先日、古いDVDを整理していたときに、桂枝雀さんの落語が出てきた。
かつて落語研究部に所属したこともあり、昔深夜にテレビでやっていた「枝雀寄席」を欠かさず見ていた身にはうれしい掘り出し物で、そうじも忘れてついつい見入ってしまったが、これがおもしろいのなんの。
『青菜』や『持参金』などなつかしすぎて、押入から昔集めた落語のCDまで取り出して、まとめて聞くことになった。
そこには桂米朝師匠をはじめ、桂吉朝さん笑福亭松喬さんなどなどお気に入りの噺家が腕を振るっているわけだが、中でも笑いの量が圧倒的に多いのが枝雀師匠。
個人的な好みとしては、米朝、松喬が2トップなのだが、単純にお腹の底から笑いたいときには、やはり枝雀師匠がいい。
「うまい落語」の笑いは、どちらかといえば玄人の演者と客との「わかってる者同士」の一体感が心地よいが、「楽しい落語」はそういったことは放っておいて、ただただおかしい。
素人が見ても、わーっと心から笑える。そこには、なんともいえない開放感がある。
そうして、「枝雀落語大全」を聞きながらヒーヒーいっているところに、唐突にブワッと涙が吹き出してきたのである。
(続く→こちら)