幕末・明治の海外グルメ事情は熊田忠雄『拙者は食えん! サムライ洋食事始』から

2016年07月28日 | 

 熊田忠雄『拙者は食えん! サムライ洋食事始』を読む。

 日本人の特徴としてよくあげられるのは、


 勤勉

 「を重んじる姿勢」


 最近ならアニメ漫画などがあるが、私が思うにもうひとつ、これがある。



 「なぜか、やたらとグルメ



 日本人は結構いろんな料理を食べるもので、ちょっと駅前など歩くだけでも洋中をはじめ、東南アジアインドなど、様々な国の料理を出す飯屋が、ひしめきあっている。


 それは旅行をするとさらによくわかり、国内はもとより、海外でも日本のツアーガイドブックグルメ欄が、とにかく充実している。

 名所旧跡より、圧倒的に買い物と食事なのだ。

 それに関して、外国の旅行会社やツアーコンダクターが、

 「日本人はあまり世界史に興味がなく、観光をしても寺や遺跡などがピンとこない。だから、そのエネルギーがにむかうのでは」



 そう分析しているのを聞いたことがある。

 それが的を得ているかは別にして、


 「日本人は食べることが好き」


 と外国人も思っていることは、よくわかる声だ。

 では、なぜにて、そしていつごろから、こんな日本人は世界各国料理を(たとえそれが多少日本風にアレンジしているとはいえ)味わうグルメ民族になったのか。

 その「外国のメシ」とファーストコンタクトした日本人の反応を取り上げたのが、この『拙者は食えん! サムライ洋食事始』である。

 日本人が外国の食事、なべても欧米風のパン肉料理に接することとなったのは、ポルトガル人による「日本発見」や長崎の出島

 ここでオランダ料理と接することもあったが、本格的に向き合うことになったのは、江戸末期から明治大正にかけての使節団留学生たち。

 彼らは時に外交のため、時に先進国から学ぶためにに乗って、ヨーロッパやアメリカに旅立った。

 その旅先の料理のみならず、途中に寄港することになるアジア中東の街などでも現地の料理を食したりと、なかなかにバラエティーに富んだグルメを経験しているのた。

 その反応というのは、今の視点から見るとやや意外というか、かんばしくないものが多い。

 たとえば、文久三年(1863年)の江戸幕府による第二回遣欧使節団

 そこでの資料では、船で働くインド人が食べているものについて、こう紹介している。


 「食事の節、脇を見るに、飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のどろどろの様な物を掛け、此を手にてまぜ、手にて食す、至ってきたなき人物の者なり」


 もうおわかりであろう。これはカレーのことだ。

 今では日本の国民食ともいえるカレーライスは、初めて見たものにとっては「きたない」食べ物だったのだ。

 たしかにいわれてみれば、カレーの赤黒いルーや、キーマカレーなどのイエローグリーンな色彩は、見なれない者には異様に映るかもしれない。

 ましてそれが彫りが深く、ゆえに日本人にはちょっと怖く見えることもあり、また神秘的なイメージもあるインド人。

 そんな人がで食べている姿というのは、相当にインパクトがあったろう。

 ジーパン刑事のごとくに「なんじゃこりゃあ!」な気持ちになったことは、わからなくもない。

 どんなにうまいものでも、「初めて」のときは腰が引けるものなのだ。


 (続く→こちら



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