「幻の妙手」について語りたい。
将棋の世界には、盤上にあったのに対局者が発見できないか、もしくは発見しても指し切れず、幻に終わってしまった好手というのが存在する。
前回は敗れたものの、王座戦で存在をアピールした久保利明九段に影響をあたえた「元祖さばきのアーティスト」こと大野源一九段の将棋を紹介したが(→こちら)、今回はある女流棋戦であらわれそうになった幻の妙手を。
まず、現れなかった絶妙手として思い出すのが、この将棋。
2006年、第64期A級順位戦。
名人挑戦レースは羽生善治三冠と谷川浩司九段の一騎打ちとなり、双方ゆずらず8勝1敗でフィニッシュ。
決着はプレーオフまでもつれこんだが、これがまたこの期一番ともいえる熱戦となった。
最終盤で、むかえたのがこの局面。
後手の谷川が△76金と打ったところ。
▲同竜でタダのようだが、それには△88飛と打って、王様が▲76に逃げられないから詰み。
受けるべきか、それとも豊富な持ち駒を生かして、後手玉を詰ましに行くか。
残り時間の少ない中、決断を迫られた羽生は、▲31角と打って詰ましに行くが、後手玉はギリギリで逃れており、谷川が名人挑戦権を獲得。
ここは▲58金と寄っておくのが冷静な手で、これが後手玉を上部に追ったとき、△47の地点に逃げこむ筋を消す
「詰めろのがれの詰めろ」
になって先手が勝ちだったが、秒に追われながら発見するには、あまりに難解な手ではある。
羽生の王手ラッシュで、超難解な「詰むや詰まざるや」。
△76金に▲58金と寄っていれば、ここで△47玉と逃げこめず、後手玉は詰みだった。
ふだん、あまり感情を表に出さない羽生が、この将棋は敗れたあと、かなりハッキリと落胆する姿を見せていたのが印象的だった。
やはり、2004年、2005年と、2年連続で森内俊之に「十八世名人」獲得を阻止され、三度目の正直と意気ごんでいたところを足止めされたせいだろうか。
ご存じの通り、羽生はその後「十八世名人」の座を、森内俊之に先んじられてしまう。
このとき▲58金と指していたら……。
そんなことを想像してみるのも、またファン楽しみのひとつなのだ。
もうひとつ思い出す幻の舞台は、2012年の第2期リコー杯女流王座戦。
加藤桃子女流王座に本田小百合女流三段が挑戦したこのシリーズは、女流棋戦ではややめずらしい、相居飛車戦がメインの戦いとなった。
第2局も角換わりの将棋となり、熱戦が展開されたが、最後は加藤が勝ちになったように見えた。
後手玉は▲22飛成と、▲25桂打の詰めろが受けにくい一方で、先手玉には攻めのとっかかりがないため安泰に見える。
加藤陣は絶対に詰まない、いわゆる「ゼ」とか「ゼット」と呼ばれる形に近く、典型的な一手勝ちのようだが、実はここで後手にすごい勝負手があったのだ。
△97角と、こんなところから王手する筋があった。
▲同香は△99飛と打って詰み。
王手すらかからないように見えた王様が、いきなり詰まされるというのだから、おそろしい。
突然天井から現れて、吹き矢で一撃。
まさに忍者かアサシンのワザとでもいうべき一着だ。
本田はこの手をかなり前からねらっていて、自玉が迫られる中、どのタイミングで放つのがいいのか、ずっとうかがっていたそう。
その照準にとらえたのが、まさにこの局面なのだが、先手も▲88桂(!)と合駒して、その後のことが読み切れず断念してしまった。
本譜は△21金と受けたが、▲25桂打から先手勝ち。
代わって、ここではやはり本田の読み筋通り△97角が最善で、桂馬を合駒で使わせてから△21金なら、▲25桂打の寄せが消えていて激戦だった。
本田としては、結果はともかく、ずっと温めていた鬼手を指せないまま終わってしまったのは残念だったろう。
それにしても、こんな角を「取らない」のがいいとは、将棋の手というのは色々な可能性があるものであるなあ。
(谷川浩司の光速の寄せ編に続く→こちら)