「ここで1手、落ち着いた手を指せれば、勝てましたね」
というのは、駒落ちの指導対局で負けたときなどに、よく聞く言葉である。
将棋は相手の玉を詰ませれば勝ちだが、局面によってはそれを急がない方が早く勝てることが結構あるのだ。
そこで前回は、村山慈明七段のタイトル初挑戦の野望を打ちくだいた、羽生善治九段の妙手を紹介したが(→こちら)、今回は時代がぐっと下がった、ヴィンテージマッチを。
1954年の、大山康晴名人と塚田正夫九段の一戦。
「実力日本一名人対九段」
という五番勝負で、「九段」というのは今の竜王だから、さしずめ豊島将之竜王と、渡辺明名人の「竜名決戦」といったところか。
戦型は後手の塚田が三間飛車を選ぶが、大山からすれば塚田が飛車を振るなど見たことがないし、棋風的にも合ってないのでは、と感じたそう。
その精神的余裕からか、優位に進め、むかえたこの局面。
盤面は大山優勢だが、塚田もねばって、決め手をあたえない。
温泉気分から「出直し」という心境だった大山だったが、ここで「自慢の一手」をくり出し差を広げる。
▲86歩と突くのが、習いのある手筋。
玉のフトコロを広げながら、次に▲85歩と突きあげれば、後手の玉頭がスカスカで、すこぶるきびしい攻めになる。
これはもう感覚的にも、とんでもなく味の良い手で、ぜひとも指におぼえさせておきたいもの。
こうなると、9筋の位も、光輝いているではないか。
この場面で、こういう手が指せるということは、「フルエてない」という証拠だから、これは手の中身以上にガックリきます。
間違ってくれそうもないやん、と。
このように、
「優勢な局面で、急がず落ち着いた手を指す」
というのは、遅いようでも実は最短だったりするうえに、相手の心を折る効果もあって、その威力は見た目以上に絶大。
この呼吸をマスターすれば、勝率アップは間違いないのだが、実戦だとこれが、わかってても指せなかったりするんですよねえ……。
もうひとつ、大山の落ち着いた指しまわしと言えば、この将棋。
1990年、第15期棋王戦の挑戦者決定戦。田丸昇八段との一戦。
当時、66歳(!)で挑決まで勝ち上がってきたのが話題となったが、そこでも大山は、その強さを見せつける。
序盤の駒組で田丸に一矢あり、早くも大山がリードを奪う展開に。
後手が、ほとんどなんの代償もなく桂得に成功しているうえに、先手陣は金銀がうわずって、まとめにくくなっている。
後手が優勢なのは明らかだが、ここからの大山の指し回しは、ぜひとも参考にしたいところである。
△42玉と、ここで自陣を整備にかかるのが、血を売ってでもマスターしておきたい絶妙の呼吸。
こういうハッキリ良くなった場面だと、ついあせって△94桂とか△35角のような直接手に頼ってしまいがちだが、そこをじっと手を戻しておく。
これで先手が困っている。
後手玉は、指せば指すだけ安全になっていくにもかかわらず、先手陣は金銀がバラバラで、どうやっても好転する形がない。
こういう、相手にプラスの手がないときは、冷静にふるまうのがいいわけで、それは数手進めば一目瞭然。
後手はバランスの良い陣形に組めているのに、先手はほとんどパスに近いような手しか指せていない。
ここからも、大山は田丸になにもさせず圧勝。
こういう、奪ったリードを着実に広げながら勝つというのは、地味ながら、かなりむずかしい技術である。
それを、こんな簡単にこなしてしまう、大山の勝率が高いのは当然と言えるだろう。
(藤井猛のA級陥落編に続く→こちら)