「英語コンプレックスがある人は、第二外国語をやるのがいい」
というのは、結構まじめに感じていることであり、前回はスペイン語を勉強中という話をしたが、今回も外国語についての話題を。
日本人には「英語コンプレックス」があるとは、よく言われることである。
そのためわれわれは、やれ小学生から英語学習をとか、TOEICで何点とか、第二公用語にしようとか議論に明け暮れることになる。
こういう劣等感とまではいわないが、引け目のようなものを解消する方法は、大枠で2種類あり、ひとつは「がんばって克服する」。
もうひとつは「あきらめて、それはそれで楽しく生きる」。
太っているなら努力してやせるか、そこは無視して他人になにを言われても、好きなものを食べて生きるか。
勉強が苦手なら学習量を増やすか、偏差値は低いなりにノンキに過ごすのか。
これはどっちが正解とかはないので、各人好みで選ぶとして、他にも変化球的対応もないことはなく、太っているなら「トンガに移住」とか、学業不振には「裏口入学」のようなカラメ手があるように、語学でもそれを考えてみたいわけだ。
それが「英語以外の外国語学習」。
もともと私は、英語コンプレックスのようなものは少ない方ではあり、それは、日本人がウズベク語やアルメニア語をしゃべれないことをなんとも思わないように、
「母国語でなく外国語を話せないという、しごく普通の状態に悩む理由がない」
というだけのことで、そこを悩むのも、ちょっと変だなーとなるわけだ。
それに加えて私の場合、英語以外の言語を学んだことが大きかった。
学生時代、ドイツ文学科に所属し、それなりにドイツ語をマジメに学んだ身には、またバックパッカーとして数多の国を駆け巡り、色々な文化や言語に触れた経験からも、
「英語というのは、数ある外国語のうちのひとつでしかない」
ということが理解できるから。
日本人には何となく、英語に対して正のイメージがあると思われるが、現在のところ世界で英語が「共通語」的なあつかいになっているのは、別に英語がすぐれた言語だとか、果ては「しゃべれるとオシャレ」みたいなものではない。
単に大英帝国が世界に植民地を作りまくり、アメリカが各地で戦争しまくるなど、そういった「帝国主義の成れの果て」。
ソ連があったときは東欧や中央アジアでロシア語が必修だったとか、「大東亜共栄圏」では日本語教育が推奨されたとか、それと同じ。
別に英語や英語人をくさすつもりはないけど、要するに
「ケンカの強いヤツの意見が通っている」
だけの話にしか見えないのだ。
時代の流れだから、それに逆らうつもりもないけど、過剰に崇拝したり「ありがたがる」気も起こらない。
第2外国語をやると、そういうフィルターが、はずれる効果があるわけだ。
つまるところ、英語もドイツ語もビルマ語もアムハラ語も。
ギリシャ語もアラビア語もアゼルバイジャン語もグロンギ語も、そのすべてが等価の存在。
それぞれに等しい価値があり、それぞれに伝達のための1ツールにすぎないという当たり前のことが、本当によくわかる。
日本人の中で、いや今では世界で英語の存在は圧倒的なのは事実だ。
でも、そこだけにとらわれていると、他にもたくさんある「宝の山」に気づかない可能性がある。
映画が好きな人にとって、
「映画が大好きだけど、ハリウッド映画しか観ない」
という人がいたら、「もったいない」と感じるとはず。
ボリウッドや韓国映画、フランス映画にもちろん我らが日本映画など色とりどりの作品について語りたいという気持ちが、わきあがってくるはず。
ハリウッドだけが映画じゃないよという気にもなるわけで、語学もそれと同じことなのだ。
……ということが言いたいんだけど、これは体験してない人に言葉だけでわかってもらうのは、なかなかムズかしいかも。
あ、ちなみに私は「世界共通語はマレー語にすべし派」です、ハイ。
(インド英語編に続く)