ラテン語をはじめてみた。
これまでチョコザップならぬ「チョコ語学」でフランス語やイタリア語をやったとなれば、今度はもう「親玉」であるこれをやらぬばなるまい。
このオペレーション「ファランクス」により、さっそく大西英文『はじめてのラテン語』など手に取ってみたが、前回も言ったよう格変化とかが激ヤバで、すでに笑うしかない。
と、ここで素朴な疑問が思い浮かぶ方もおられよう。
「そもそもさー、なんでラテン語なんてやってんの?」
ヨーロッパでは第二外国語として学ばれているところもあり、実際ドイツなどは65万人もの人が勉強しているというラテン語だが、日本ではただただマイナーな言語である。
こんな、読めても話せても(話すことはまずないが)使いどころのない古語を、なんで今さらやってるのか。
これに対しては多くのラテン語学習者が、各所で説明しており、たとえばこんなの。
1・教養が身に付く。
ラテン語は古代ローマ帝国の公用語で、中世ヨーロッパではカトリック教会を中心としてインテリ間での共通語であった。
つまり存在そのものが「教養」と同義であり、それだけで身につける価値があるのだ。
2・ヨーロッパの歴史を学べる。
1で述べたように、ラテン語はヨーロッパを通じて1000年以上通用していた言葉。
なので、ラテン語をマスターすれば、それらの歴史的に貴重な文献の数々を読むことができ、その人類の叡智に触れることができる。
このことは、どんな金銭的利得より、われわれを豊かにしてくれるかは、言うまでもないだろう。
3・論理的思考が身につく。
ラテン語は難解であるが、非常に論理的な構造を持った言語である。
なので、ロジカル・シンキングを身につけるのにこれ以上のアイテムはない。
論理学はビジネスや学問など、あらゆる人類の営みの源泉。
これを学ばないなど、もはやヒトであることを自ら放棄するようなものではないか。
などなど、いくつか見てきて、なるほどラテン語をやるとこんなにいいことがあるのかと感動した方は、きっとたくさんいるのであろうといえば、絶対にそんなことは無かろう。
いや、これはやらねーよ、ふつうラテン語。
教養が身につくって、それ全然実社会で使えないし、古代ヨーロッパの文献とか、読まないし。
そもそもどこに、そんな本あるの? ブックオフで売ってる?
論理的思考とか、それこそ数学でもやれやって話で、なにもわざわざ「難解で使えない」ラテン語で鍛えるのはコスパ悪すぎや!
お説ごもっとも。まったく反論の余地はない。
だいたいが、男子がなにか新しいことをはじめるとき、その効用として求めるのが
「モテる」
「金になる」
このどちらかである。
おそらくラテン語は、この2つと無縁というか、わりと真反対の位置にある存在ではあるまいか。
マッチングアプリで、
「趣味・ラテン語学習」
合コンの自己紹介で
「最近はタキトゥスの『ゲルマニア』を原語で読んでます」
就職試験で
「Cōgitō ergo sum.(我思う、ゆえに我あり)」
もう結果は見え見えであろう。Omnia vānitās.Mementō morī.
ではそんな、不毛の結末しかないラテン語学習の道を我なぜ歩くのかと問うならば、この世にある、あらゆる価値を反転させるつんくさんの魔法の言葉を借りて、
「それ、逆にロックやで」
もはや、世界が「英語一色」な中、あえてラテン語をやるというのは、これはもう我ながら頭おかしくて楽しい。
意味などない。これはもう完全に「酔狂」である。
山田五郎さんもよく言う、
「芸術はあれこれあると、どこかでかならず、《これ逆にオモロくね?》という時代が来るんだよ」
まさにこれです。逆に。
マジで「ちょっとウケる」のだ。
私も周囲で、
「最近、ジムに通っている」
「健康のためジョギングをはじめた」
「キャンプにハマってるんだ。自然はいいぞ」
なんて友人がいたりするが、そこに堂々
「こないだから、ラテン語をはじめてね」
と言うと、とりあえずウケる。
「なんでやねん!」
「どんな高等遊民や」
「ヒマか!」
などなど、鋭くつっこんでいただけて、軽くひと盛り上がりあったりする。
これこそが、ラテン語学習の意義である。
「ラテン語やっててね」のあとの「なんでやねん」。
これで確実に「ひと笑い」とれるのが、今のところ最大の収穫だ。
そう、私にとって古代の英知に触れるということは、教養を身につけるのでもなく、古典文献をたしなむことでもなく、
「完全無欠のウケねらい」
まさに最強の出オチであり、今のところ地元で「すべり知らず」と鳴らしているのだった。