「ここで1手、落ち着いた手を指せれば勝てましたね」
というのは、駒落ちの指導対局で負けたときなどに、よく聞く言葉である。
将棋というのは
「優勢なところから勝ち切る」
というのが大変なゲームで、手こずっているうちに、あせりから逆転をゆるしてしまう。
ガックリ肩を落としながら、
「ここで1手、落ち着いた手を指していたら……」
今回は、そういうときに参考になる将棋をご紹介。
2013年、第71期A級順位戦。
佐藤康光王将と、屋敷伸之九段の一戦。
相矢倉から、両者らしい力戦調の将棋になり、難解な戦いに。
図は屋敷が△33歩とキズを消したところだが、次からの佐藤の構想がうまかった。
ヒントは、屋敷が△86歩と突き捨てたのが疑問で……。
▲26歩が、攻めに厚みを増す好着想。
以下△55歩に、またも▲25歩(!)と伸ばしていく。
じっと網をしぼられ、息苦しさの増した後手は△45銀打、▲79馬、△56歩とするが、そこで▲24歩、△同歩、▲25歩、△同歩、▲24歩。
「三歩持ったら、ツギ歩にタレ歩」
格言通りのリズミカルな攻めが、見事に決まっている。
後手からすれば△86歩、▲同歩の突き捨てが、「筋中の筋」という反撃の常套手段だが、ここではその一歩がたたってしまった。
以下、佐藤が玉頭の拠点を生かして勝ち。
ジッと▲26歩。
強い人は急がないのだ。
もうひとつは、1995年の第53期A級順位戦最終局。
谷川浩司王将と、有吉道夫九段の一戦。
この将棋は「将棋界の一番長い日」らしく、谷川は勝てば名人挑戦プレーオフに望みをつなげる。
一方の有吉は、まだ2勝で負ければ即降級。
勝っても競争相手に勝たれると、落ちてしまうという瀬戸際だった。
勢いは谷川だろうが、59歳(!)有吉はここでキャリア後期の名局ともいえる将棋を披露する。
むかえた最終盤。
谷川が△55角と打ったところ。
ここではすでに先手が勝勢だが、放っておくと△88角成からのトン死があるため、気を抜けない。
勝ち方は色々ありそうだが、次の一手が参考になる着想だった。
▲77銀と引くのが、落ち着いた一着。
ここでは先手を取りたくて、私などつい▲66銀打としてしまいそうだが、それでは攻めの戦力がけずられて、もつれてしまうかもしれない。
そこを、働いてない駒をジッと活用しておく。「大人の手」だ。
攻めが封じられ、進退窮まった谷川は、なんと△14玉と前進。
なりふりかまわぬ入玉ねらいで、格調の高さが売りである谷川ほどの男が、こんな泥の中をはい回る手を指す。
これが、順位戦の最終局というものだ。
まさかの手に、一瞬あわてそうなところだが、有吉は冷静に▲34銀とシバる。
谷川も執念2連発で△13角と引く。
ここで▲22銀不成が見えるが、それには△同角右と△55の方で取る罠がある。
将棋の終盤戦は本当に怖いが、有吉はどこまでも動じなかった。
▲66銀引が、腰のすわった決め手。
遊び銀をヒラリ、ヒラリと自陣に投下。パラシュート部隊がピッタリ間に合って、これで先手玉は鉄壁に。
とうとう手段のなくなった後手は、力なく△28角成とするが、そこで今度こそ▲22銀不成で谷川が投了。
この場面で2度の銀引は、その手自体の有効性もさることながら、実際に指せるというのがすさまじい。
なんといっても、A級からの陥落がかかっているのだ。
なら、優勢となれば少しでも早く勝ちたい、この重圧から開放されたい、楽になりたいと思うのが人情である。
それを、静かに2枚の銀を、軽やかに、それでいて慈しむ様に活用してゆっくりと勝つ。
修羅場での戦い方のお手本のような勝ち方で、競争相手の塚田泰明八段が敗れたこともあって、有吉は見事
「60歳A級」
の偉業を成し遂げるのであった。
(1手ゆるめる達人は有吉の師匠であるこの人)
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