下町の男子はわかってくれない、あるいは「ダイヤモンドの功罪」

2024年12月24日 | 若気の至り

 前回の続き。

 小4のころ、クリスマス会で披露するという、自作のゲームを見せてくれたクラスメートのサイデラ君に、

 

 「ダメだこりゃ」

 

 ドリフのごときズッコケ感を味わった少年時代の記憶。

 といっても、彼の持ってきたゲームがショボかったからではなく、これがまったくの理由。

 当時10歳の私は、しみじみ思ったものだ。

 いや、たしかにサイデラ君、このゲームはすばらしいものがあるよ。

 でもね、これはワシらにはレベルが高すぎると思うんだよ。

 言うたらなんだが、私らの通っているのは、そこいらにある、ただの小学校。
 
 でもって、そのほとんどが、まあ「一山いくら」な平凡な児童たちなのである。

 ましてや、下町育ちのわれわれは、ふつうよりも、さらに能天気なところすらあるわけなのだ。

 そこに、この高度なルールと思想は通じないよ。
 
 そうアドバイスしたのだが、サイデラ君はキョトンとするだけ。

 

 「なにが、いけないのかなあ?」

 

 どうやら、かしこいだけでなく、人間的にもスレてない彼には、

 

 「見た目の美醜経済力と同様、頭脳においても人間には格差というものが存在する」

 

 という冷徹な事実に、まったく無頓着なのだった。

 「できる」人にありがちな、カン違いとも言えるかもしれない。

 


 「彼女ができない? そんなの、積極的にどんどん声かけていけば、すぐできるじゃん」

 「バッティングのコツ教えてだって? そんなの、来たタマをカーンて打ち返せばいいんだよ」

 「ドイツ語ができないという人の気持ちが、わからない。あんなものはギリシャ語ラテン語ができれば、すぐに使えるようになるというのに」


 

 最後のは森鴎外の、世界中の外国語学習者をイラッとさせる有名なセリフだが(森は始終こんなことばっかり言ってるイヤなヤツです)、とにかく能力値に恵まれた人は、悪意はなくとも、こういうスタンスになりがちだ。

 サイデラ君も、その「当然わかるでしょ」という罠におちいっていた。

 どうにも通じなさそうなところと、なにより、これが「スベる」ことを瞬時に察した私は、なんのかのと理屈をつけて、サイデラ君から距離を置くこととなった。

 果たして、クリスマス会本番

 私の予想はものの見事に当たり、サイデラ君がその叡智をそそぎこんで制作したゲームも、

 

 「ルールがおぼえられへん」

 「自分がかしこいって自慢か。キショいな」

 「てゆうか、キックベースやろうぜ!」


 
 ガサツな下町少年たちの声にかき消されてしまう。

 あからさまに、めんどくさそうなゲームのルールは女子にも敬遠され、サイデラ君は居心地悪そうに苦笑して、だまって壇上から降りて行った。

 かける言葉もない私は、

 

 「まあ、むずかしすぎたかな。ほら、オレらはみんな、キミとくらべて阿呆やから。悪いのはこっちやから、気にせんとってな」

 

 一応、フォローを入れておくとサイデラ君は、

 


 「シャロン君だったら、いいチームが組めると思ったんだけどね」


 

 そう、つぶやくと、

 


 「ボクのやりたかったことは、わかってくれたでしょ?」



 
 わかるよ。

 私も休み時間は友達とグリコやタカオニをしながら、やはり彼と同じく図書館に通う子供でもあった。

 将棋推理小説のような「ゲームのおもしろさ」にも興味はあったから、そこは通じるものはあったのだろう。

 でも、わかったから、はなれちゃったんだよなあ。

 今思うと、彼のような優秀な男子が、私をパートナーに選んでくれたというのは光栄なことである。

 彼の理想も理解できた。その意味では、そのチョイスも間違ってなかったと思う。

 それは私が、彼のように優秀だからというわけではなく、

 

 「自分とちがう人をおもしろがれる」

 

 という好奇心のようなもの搭載されたから。

 そう、私の能力自体はサイデラ君に遠くおよばないけど、それとは別に、

 

 「天才シャーロック・ホームズをリスペクトし、よしんば記録もしてくれる【ジョンワトソン】」

 

 この資質を持っていることなのであろう。

 自分が世の「変わった人」とか「浮いている人」と仲良くなりがちなのは、その雰囲気をむこうが感じ取ってくる(あっちはあっちで、そういう「受け入れてくれる人」を熱望しているから)からではあるまいか。

 だから私はよくある

 

 「自分はふつうとは違う

 「よく周囲から変わってるといわれる」

 

 などという変人(特別な人間)志願の人を見ると、ときおり切ない気分にさせられる。

 彼ら彼女らはきっと自分が「ふつう」であることに不満があるのだろうが、逆に言うと本心から、仮に発言者に悪気はなくとも、

 

 「アナタって、だよね」

 

 と言われる人が、ひそかにさいなまれている孤独感警戒心、ときに屈辱感を理解してないからだ。

 「志願」の人にそれは「誉れ」かもしれないが、「本物」の人に、それは世界からの「拒絶」の言葉で耐えがたい。

 サイデラ君は変人ではないが、その魅力を感じ取るには、やや「予備知識」が必要になる。

  また一回、本当に仲の良い友達とのバカ話や、ファミスタでの対戦の誘いをスキップして、むずかしげな話につきあう「遊び心」のようなものも発揮しないといけない。
 
 一応、私はそれができたのだろう。少なくともサイデラ君にはそう見えた。

 でもたぶん、彼と決定的にちがっていたのはこっちは結局、根が抜け作だから、

 

 「平凡な男の子が、自分より優れた者に対して見せる、無理解な反応」

 

 これもまた、見えてしまったわけなのだ。

 そして私は明らかに凡夫側の男の子で、とかボードゲームが好きとか、そういうのはあんまし関係ないんだ。

 「人種」が違うというか、要するにキミはまっすぐなエリートで、

 

 「立派だが、やや退屈」

 

 であり、私の好みはもう少しレベルが低いというとアレだけど、庶民的というかB級好みで、その分、クラスメートには親しみやすさはあったのだろう。

 そこが、かみ合わなかったんだよ。

 なら彼のために、もう少しうまく振る舞えるとは思うけど、いかんせん小学生には限界があった。

 サイデラ君は、その後も地味な優等生生活を続け、私の周囲でも話題になることは、ほとんどなかった。

 その後、公立のトップ高校から優秀な国公立大学に進学したらしいが、きっとそこでは彼にふさわしい、本当に頭のいい友人ができたんじゃないかと思う。

 よく『ドラえもん』の話をするときに、

 

 出木杉くんは、いつも劇場版に呼ばれなくてかわいそう」

 「だって、出木杉が出たら能力高すぎて、他のキャラが活躍できないじゃん」

 

 なんてネタにされることがあるけど、そういうとき私はいつも、サイデラ君のさみしそうな顔を少しだけ思い出すのだ。

 

 

コメント
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