「わたしの将棋は逆転負けが多いんですよ」
インタビューなどでよくそう言うのは、「ひふみん」こと加藤一二三九段である。
将棋は終盤のドラマが多く、「逆転のゲーム」と呼ばれるほどだが、時間の使い方が独特で、常に秒読みに追われて戦っていた加藤九段は、どうしてもそのリスクが高くなってしまう。
もっとも、加藤一二三といえば「1分将棋の神様」の異名を持つ人なので(クリスチャンの加藤はこのネーミングを気に入っていないそうだが)、そのピンチを見事に全クリしてしまい、
「やはり、加藤一二三は天才だ」
と感嘆さしめるが(昔の観戦記にはこのフレーズがよく出てきます)、さすが「神武以来の天才」も100%というわけにはいかず、ときには木から落ちてしまうこともあるのだ。
1991年の、第50期B級1組順位戦。
加藤一二三九段と島朗七段の一戦。
相矢倉から後手の島が、相手の駒を呼びこむ強気な指し方で加藤を迎え撃つ。
中央で駒がぶつかり合って、むかえたこの局面。
後手玉はかなり危ないが、まだ一撃で決まることはない。
一方、先手玉は次に、△67成桂と寄られると受けがむずかしいし、なにかのときに千日手に逃げられそうな恐れもあるが、ここで手筋がある。
一回、▲49歩と打診するのが、ぜひ覚えておきたい感覚。
△同飛成は、手順に△67成桂とする筋が消えて、先手陣がかなり楽になる。
そうはさせじと、島は△58飛成とひっくり返って、なんとか△67成桂を実現させようとするが、さらに▲59歩の追い打ちが好手。
やはり、△同竜とは取れないから、△69竜ともぐって、三度△67成桂をねらうが、ここが先手にとっての分岐点であった。
後手の攻めが緩和されたこの一瞬で、寄せに出るか、それとももう少し受けにまわるか。
手堅くいくなら、▲79金打と先手で固めて、△59竜に▲11金と取っておく。
次に、▲75香から、押しつぶしにかかるわけだ。
これだと安全ではあるが、金を一枚手放してしまっているのが問題点。
後手玉を寄せるときに、戦力がやや頼りないかもしれず、ここは迷いどころ。
時間のない中での決断は、読み切れないとなれば、自らの棋風にしたがうことが多いのではないか。
「負けない将棋」の永瀬拓矢九段なら、ガッチリ▲79金打としそうだし、終盤の切れ味で勝負する斎藤慎太郎八段なら、かまわず踏みこんでいきそう。
加藤一二三は、踏みこむほうを選んだ。▲52と。
だがこれは危険な手だった。
正解は▲79金打で、ここで今度は島にチャンスボールが来た。
△86歩と突くのが、「筋中の筋」。
▲同歩は、△87歩が一発効くから▲同銀だが、先手陣はこれで相当に薄くなった。
すかさず△68成桂。
かなりせまられているが、▲同金と取って、△同竜に▲78金としかりつける。
この合駒を先手で打てるのが、加藤の自慢だ。
ななめ駒があれば、ここで△79角や銀で簡単に詰みだが、駒台にあるのはあいにくの金。
△69竜とゆるんだところに、▲11金。
今度こそ、▲75香や▲51馬がきびしいが、ここで島がねらっていた強烈な一打がある。
△77歩が、またも指におぼえさせておきたい、筋中の筋という軽打。
ここでは△86飛、▲同歩、△87歩という攻め方もあるが、▲77玉と逃げたとき、飛車を渡してしまっているため、寄らないとヒドイことになる。
歩で攻められるときは、それを通すに越したことはない。
この「焦点の歩」に先手も取る形がなく、▲同桂は△89金で詰むし、▲同金は重く△79金で、ほとんど受けなし。
▲同玉も△89竜と取られて、次に△86飛と切る筋があり、▲同歩は△85桂から詰むから、これまた受ける形がない。
消去法で▲同銀だが、すかさず△87飛成(!)と飛びこんで、先手陣は危なすぎるどころか、詰んでいてもおかしくない。
▲同玉の一手に、△89竜と底をさらって、▲88銀に△86歩とタタく。
▲77玉に△87金と打ちこんで、▲同銀は簡単に詰みだから、▲同金で△同歩成に▲同銀、△67金、▲同玉に△87竜。
クライマックスは、この場面だった。
攻め方、受け方、双方が最善を尽くしての追跡劇は、この次の手で決着がついたのだ。
先手は王手に合駒するしかないが、みなさまも考えてみてください。
飛車、金、桂、香のどれが最善か……。
加藤は▲77桂と打ったが、これが敗着になった。
ここは▲77金が正解で、これなら先手が勝ちだったのだ。
▲77桂には△75桂と打って、▲同歩に△76銀。
▲58玉に△78竜と入る筋がある。
合駒が金なら、この手はなかった。
以下、▲68桂の合駒に△67銀不成と追って、▲47玉に△36金と出る手がピッタリ。
これまで、僻地でまったく働いていなかった△25の金と△17の馬が、ここへきてまさか千金の輝きを見せようとは。
これぞまさに、「勝ち将棋、鬼のごとし」で、▲36同玉に△26馬以下、簡単な詰みになる。
この将棋のさらにおもしろいところは、終局後のやり取り。
投了してすぐ、加藤は「トン死したな」とつぶやき、島は「え?」となったそうだ。
こういう最終盤の、詰むや詰まざるやで気になるのは、対局者がどこで読み切っていたかということ。
追う方は詰みを確信していたのか、それとも、あやふやなまま追っていたのか。
それとも、詰みはないとわかっていながら「間違えてくれ」と祈りながら指していたか。
逃げるほうも、鼻歌を歌いながらの逃避行だったか、それとも詰みはわかっていて、万一の僥倖にかけて罠をはっていたか。
この場合、島は「詰みあり」と確信していたのだろう。
だとしたら、もし▲77金とされていたら、その瞬間に真っ青になったことになる。
一方の加藤は「詰みなし」と見切っており、その判断は正しかったが、最後の最後で指が、悪い方へ行ってしまった。
時間もないし、運が悪かったとしか言いようがないが、なら時間を残しておけばいいのにというのは、加藤一二三には野暮なアドバイスというものだろうなあ。
(「さわやか流」米長邦雄の実戦詰将棋はこちら)
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