青山南『アメリカ短編小説興亡史』 「レイモンド・カーヴァーの文体」は誰のもの?

2018年10月20日 | 
 青山南『アメリカ短編小説興亡史』を読む。
 
 日本だと、昨今
 
 「短編集は売れない」
 
 出版業界を悩ませているそうだけど、アメリカでは短編は、
 
 
 「a national art form」
 
 
 であると、大変重んじられていたそうな。
 
 その理由は、まだ映画が生まれる前、アメリカの娯楽の王様といえば雑誌
 
 中でも、そこに掲載されていた短編小説というのが、売上を左右するほど注目されていたからとか。
 
 たしかに、名前くらいは知ってる『ニューヨーカー』などは、かなり色濃く短編のイメージがあり、日本で言うマンガやアニメのような「国民的お家芸」といえる時代が長かった。
 
 で、本書ではその一端を、翻訳家の青山さんが、歴史や裏話などまじえてレクチャーしてくれるのだが、これがおもしろいのなんの。
 
 たとえば、アメリカでは短編が「a national art form」ではあるが、それゆえに原稿料もべらぼうで、ともすると粗製乱造になりやすい。
 
 実際、短編は「のためにを売る」一面もあったらしく、スコットフィッツジェラルドなど、
 
 

 「昨日も、短編という『ショート』で一発やって大金を手に入れました」

 
 
 なかなかに、きわどい表現で、自虐していて笑えたりする。
 
 とはいえ、アメリカの短編、それもシャレた都会派小説というのは傑作も多く、やはり評価も高いことも事実。
 
 それゆえに人気作家といっても簡単に「金のため」に書き飛ばせるわけでもないようで、特にうるさ型の『ニューヨーカー』は編集側もきびしいらしい。
 
 アーウィンショーや、アンビーティといった大御所もボツを食らいまくり、
 
 

 「さすがにうんざりします」

 

 
 手紙でなげいたりしている。
 
 作品は洗練されまくっているが、その内実はなかなかシビアなよう。
 
 シビアといえば、レイモンドカーヴァーと、編集者ゴードンリッシュとの関係も、まさにそう。
 
 カーヴァーといえば村上春樹訳で有名だが、あの独特の無表情な文体は、その無機質ともいえる世界観と実にマッチしている。
 
 読んでいて底知れない空虚感や、ときにホラーめいた恐怖を感じることすらある。
 
 ところがどっこい、実際のカーヴァーの文体は無表情どころか、かなりセンチメンタルなものであったらしく、それをリッシュが、
 
 
 「こんな浪花節でええと思てるんか!」
 
 
 とばかりに叱責し、ガンガンを入れまくっていたそうなのだ。
 
 それでできあがったのが、あのカーヴァー節ともいえるクールな作品群。
 
 でも、ホントはちがうどころか、真逆の作風だった。
 
 そう聞くと、
 
 「え? じゃあもうそれって、レイの小説じゃないじゃん!」
 
 といいたくもなるが、実際にカーヴァーは、
 
 

 「もうこれ以上書き直さないでくれ。僕の好きにやらせてくれ」

 
 
 そうリッシュに懇願し、ついには袂を分かつことに。
 
 文学史的には、後期のカーヴァーは
 
 「ずいぶんとセンチメンタルな作風になった」
 
 とされるそうだが、なんのことはない。
 
 こっちこそが「本物のレイモンド・カーヴァー」だったのだ。
 
 なにやら、「作家と編集」ってなんだろうというか、これ自体が一片の短編小説になりうる、深みと怖さをたたえているではないか。
 
 他にも、「大学の創作教室」に対する作家や読者の反応や、女性先住民黒人ヒスパニックといった、なかなか表に出られなかったマイナー文学の曙、などなど興味深い話題が盛りだくさん。
 
 なにより、青山さんお得意の、サクサク読める軽妙洒脱な文章が、お見事すぎる。
 
 どうやったらこんなに楽しく、それでいて役に立つものが書けるんだろう。あこがれるなあ。
 
 読みやすく、勉強になって、素人でも
 
 「アメ文、ちょっと読んでみっか」
 
 と思わされること間違いなしのオモシロ本。おススメです。
 
 
 (続く→こちら
 
 

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