サッカーもずいぶんと様変わりしたものである。
という出だしから、ここ数回(→こちら)「センターフォワード」が死語になったとか、あのファーンと呑気に鳴っていたチャルメラホーンはどこに行ったのか。
など、ノスタルジックな話で私だけ盛り上がっていたが、サッカー用語今昔といえば、雑誌など読んでいるときに、
「たまにおるなあ、こういう人」
と思う記事を見かける。
それは、「サッカーを《フットボール》と呼びたがる人」。
蹴球というと、我々は特に疑問にも思わず「サッカー」と呼んでいるが、正式なというか、本場での呼び方は「フットボール」である。
日本人のイメージではそういわれると、あのヘルメットや肩当てで武装して、たいていはチアガールとつきあっている(勝手な妄想)アメフトを想像するが、そうではない。
サッカーの母国であるイギリス英語では、フットボールは断じてサッカーのこと。
「サッカー」というのは、基本的にはアメリカ英語なんですね。
これが、一部硬派なサッカーファンやライターの中には、ゆるせないという人がいるのだ。
まあ、いいたいことはわからなくもない。アメリカといえばサッカー不毛の地といわれているのに、なんでそんな国の言葉で呼んでいるのか。
本当のサッカー、じゃなかったフットボール好きなら「フットボール」と呼ばんかい!
実際、他の国でもドイツ語では「フースバル」ポルトガル語では「フチボウ」、トルコ語では「フトボル」。
など、まんま「フットボール」を現地語に、まんま訳して使っているところがほとんど。
だったら、日本でもフットボールといってもいいではないか。
という魂の訴えなのであるが、けどまあ、そうおっしゃる方々にはもうしわけないが、それは無理というもんであろう。
サッカーはサッカーだ。
今さらフットボールといわれても、「なにそれ?」「だからアメフトでしょ」なんていわれるのが関の山。
サッカーファンからも「なに気取ってるんだよ」とか鼻で笑われるのではないか。
かくいう私も、「フットボールねえ」という、むずかゆい感がぬぐえない。
それは「フットボール推し」派の人もけっこう自覚しているらしく、スポーツライターさんなどでは、かたくなに「フットボール」で押す人もいるが、たいていは
「長年のバルセロナファンのホアンさんは熱狂的に語った、『やっぱり、フットボールは最高だよ!』と」
とか、外国人の著作に『欧州フットボール戦記』みたいなタイトルをつけたりして、そこでアピールしている。
「オレは使ってないよ、でもホアンとか本のタイトルでそうつけてる外国人が言ってるんだから、それはフットボールで仕方ないじゃん! 彼らはサッカーって言ってないもん」
という、一種のエクスキューズつきの「フットボール」なのである。
そこまでして使いたいかという気もするが、やっぱ本場のサッカー、じゃなかったフットボールを見ていると、そういいたくなるんだろうか。
偏見かもしれないが、どうもそこには
「本当はフットボールであると知らないやつはド素人」
なニュアンスが感じられて、しゃらくさい。
今回このことをネタにするために、いったい「フットボール」って使ってる記事は実際にはどれくらいあるんだろうと、ちょっと本屋でスポーツ誌を立ち読みしてみることにした。
サッカー本をパラパラとめくっていたら、ある本の第一行目からどーんと、
「私はこのスポーツを、サッカーではなくフットボールと呼ぶ国に生まれたかった」
とあって、思わず笑ってしまった。ど真ん中直球である。
「フットボールと呼ぶ国に生まれたかった」。
アハハハハ、そうなんやー。熱いなあ。
このフレーズからも「フットボール」という言葉に内包された「選民意識」があらわになっている気もして、現にその中身も
「いかに日本のサッカーファンがミーハーで、オレ様がどれだけ、海外のフットボールに淫しているか」
という自慢、もとい熱い主張がこれでもかと並べてあった。
まあ、どっちでもいいといえばいいけど、とりあえずフットボール派の人とサッカーについて語るのは、なんともめんどくさそうだなとは思ったものであった。