私達は、ともすれば「欠点、短所、弱点」を補うために、涙ぐましい努力をする。しかしそうは言っても、人間である以上、限界がある。
だがこの「欠点、短所、弱点」は、何かと比べたものであり、比べるものが無い時には、私達は「欠点、短所、弱点」と感じない。
それはそうと、この「欠点、短所、弱点」は、他の何かと比べると感じるものなのだが、それは「目線」を上にしたから感ずるものなのであって、もし「目線」を下にして感じたならば、この「欠点、短所、弱点」は「長所」として感じてしまう事になる。
それは何故かと言うと、他のものにはこの「欠点、短所、弱点」の状態が判らないからである。判るのは、「欠点、短所、弱点」を感じているものだけだから、それが「長所」になる。
こうした事は、「ある」とか「持っている」という事が「有意義」な事で、「無い」とか「持っていない」事が「無意義」な事として扱われているが、これも間違っている。
「ある、持っている」という事のほうが「無意義」で、「ない、持っていない」という事のほうが「有意義」な事でもある。
この事は人生観にも当てはまり、ネットで巡って見ると、体に欠陥を持っていられる障害者の方々が、「障害を持つ」という「短所」を、その「短所」を「長所」に持ち替えて生きていられる様が伺われる。
「欠点、短所、弱点」を持っているからといって、嘆く事はない。かと言って「おごる」のも間違っているが、「誇り」として持っても良い事でもある。
それは、そのままが「長所」なのだからである。