人は強いだろうか。逞しいだろうか。
強いなら、逞しいなら、何故恐れというものを持ち、恐怖心というものを抱くのだろう。
いや、強くなろうとするのも逞しくなろうとするのも、それは恐れから逃れようとしているからだといえる。そのために優位に立とうとして評価されようとする。他を蹴落とし、攻め、いじめ、中傷し、偽装し賄賂もして、上位に立とうとする。
それは、受けるものばかりでなく与えるものも、人の弱さからである。
また人は、その弱さのために、そこから逃れようとして「霊」とか「魂」とか「悪魔」の存在を信じようとする。
だが元々こういう「霊、魂、悪魔」などは、存在するともしないとも言えないものである。私達の心に、こういうものを受け入れるような「隙間」があると、「霊、魂、悪魔」などは存在することになるのであって、「隙間」が無ければ存在することは無い。だから「隙間」を作らなければよい訳である。
「心の隙間」というものは、主に「依存心」によるようだ。
人や他の物に「寄りかかる」ことにある。自立心や自主性、独立心が無いということである。
こうした自立心自主性独立心が無いと、取り合いを始め、それによって奪われまいとする恐れを始終持つことになる。この恐れの隙間をぬって「霊、魂、悪魔」などが入り込んでくる。「霊、魂、悪魔」などは、自分で自分が招いたものなのである。
恐れ(恐怖)の克服は、こうした心の隙間をなくすこと、即ち人や物への依存を止める事。そして自立心を持ち自主的になり独立心を養っていくことにある。
しかしだからといって「独善的になれ」というのではない。
日本にも韓国にも限らず、領土問題が出てくるたびに思うことだが、一体何を言いたいのだろうか。
どちらの言い分にしても、国際化だのグローバル化だのと言いながら、領土というものが地球人類の財産という概念を持っていない。そういう概念を持っていないからこそ、取り合いが起こる。
これは何も領土のみに限らず、他の色んなことにも当てはまる。
そういう事を、今の社会は人に教える、教育することが無い。点数さえよければ、評価さえよければ、メダルを取ればというような教育になっていて、人が何のために生き、どのように生き、どうして生きていくかというようなことを教える教育にはなっていない。人や物の役に立つための教育、というものにはなっていない。
だから、この問題にしても、何を問題にしているのか、テンで判らない。
そもそも教員採用汚職事件などといったものや食品偽造事件にしてもそうだが、これらは評価主義に起因している。そして優位性を利用としようとする。
それによって、格差が生じ差別が生じ、不平等となり、それが容疑者のみの問題に止まらず、多くの人々を巻き込むことになる。
今回の事件でも、容疑者の子供には責任は無いかもしれないが、親が得たものによって現在に至っているとするならば、何らかの責任を取らざるを得ないだろう。
そこに評価主義の原罪があり、怖さがある。
「地獄」、そして「極楽」というと、宗教を連想する。
しかしこの「地獄と極楽」は、宗教心を持とうが持つまいが、私達は普通に日常的に使っている言葉である。そして言えることは、私達にとって「好ましい事」とか「欲しい物が得られた」というような場合が「極楽」であり、反対に「好ましくないこと」や「欲しい物が得られない」事とか「失くしてしまった」ことなどが「地獄」ということになっている。
こういう私達が普通に感ずる「地獄と極楽」は、言ってみれば「五官と心」に起因している。「目、耳、鼻、舌、皮膚」の五官に、それを感受する「心」である。
このことを釈尊は説法において、「一切」と語られた。それぞれには、それぞれの対象があって、対を成しているということである。
「地獄と極楽」も、一切である。相対する現象に一喜一憂して、「地獄だ、極楽だ」といっているのである。
それでは「極楽」というところは、無いのだろうか。
宗教では、ことに仏教では「後生の一大事」といって、「極楽」のことを大事にしている。そしてこの「極楽」が存在する所を、一般には死後の事と解釈されている。
だが今生きているのに、死後のことをあれこれ行っても仕方があるまい。そこのところから、宗教離れがあるように思われるのだが・・・・
私は宗教については仏教についてしか良く知らず、又宗旨宗派にもこだわっておらずに釈尊の教えというものを素直なままに見詰めているのだが、そこから見てみると、「極楽」は「五官」に「心」離れた所にあるものだと感じられる。
「目で見るものに迷うことが無く、耳で聞くものに迷うことが無く、香りに迷うことが無く、味に迷うことが無く、肌触りに迷うことも無く、それらを心で感じて迷うことが無い」ならば、精神的に平安安穏としていられるだろう。
それは物質文明に依存し、金銭に依存する現代社会からの逸脱を意味している。
それが「極楽」ということになる。
人が「五官」を離れたなら、そして「五官」を感じ受け止める「心」を離れたなら、人はとっても優しくなるだろう。人の世も平和になるだろう。地球世界も、平和になっていくことだろう・・・・・。
二人でそーっと 2008/7/12
一
人と立ちたい 思いなれど
旅の道のり 果てしなき
思うに任せぬ この想いに
今だつぼみの ひまわりを
二人でそーっと 見詰てた
二
流れゆく人道の 厳しさに
耐えて忍ぶる 胸の内の
いつか語りたい 思いの歌を
しとしとと降る 梅雨小雨の中に
二人でそーっと 歌ってた
三
低く垂れこめる 黒雲の
合間に洩れる 陽の眩しさに
辛い浮世の 習いにも
希望あふれる 光見て
二人でそーっと 祈ってた
四
静かなる部屋に 気高く
優しく匂う 花瓶の花
谷の間にも 見せる姿を
流れゆく時も 所もなさに
二人でそーっと うなずいた
五
窓辺に望む 野の原と
山の緑の 豊かさに
永久に続く 命の芽吹き
世に生きるみな 温かく包まれて
二人でそーっと 手を取った
六
陽は西に 夕凪小凪
黄昏に瞬く 輝く星にも
愛し児の 瞳を思わせて
みんなで寄り添う 明るい明日(あした)を
二人でそーっと 願ってた
食品ばかりではない。ひところ問題になった「建築物耐震偽装」、これもコンクリートにもあったそうで、私達の生活の基盤はグラグラと揺らいでしまう。
それというのも「優位性」の由縁から来ている。別に言えば「評価」というものに捉われているからだと、言えるだろう。
「優位」を求め、「評価」を求めすぎたために、その裏返しとして崩壊することになっている。
それはこうした物によるものばかりでなく、「大分県の教員採用試験を巡る汚職事件」といった情けない事件まで産み出している。
「優位」だけが、「評価」だけが全てであるかのような今日の社会構造から、その是正行為のように崩壊行為が始まっている。それは、私達が生きる所が、人が作った人間社会かどうかを、問うことでもあるだろう。
人は、人が創った人間社会に生きようとする時、人は過保護になってしまう。人に寄りかかって、甘えてしまっている。
その点、ご存知の方もいられると思うが、英国の王子は土方などをして社会体験をしている。我国の一般家庭の子供達のように、勉強さえすれば社会体験どころか、生活態度もお座なりでよいようでは、食品偽装などを行うようになってしまうだろう。
今の若い人達に、自然の中で農林漁業などの体験を通して、社会体験と生活体験をしてほしいと思う。
しかし「社会体験」で習得したものは、「評価」とは違う。
そこのところを、間違えてはならない。
「温暖化排出規制」というにしても、何故「合意」が必要なのだろう。
「人が」とか「相手が」とかではなく、「自ら」が実行することが大事なことであるはずだ。
例えば「禁煙」にしても「禁酒」にしても、人や相手がするとかなどで「合意に至ったからする」のでは、何にもならない。
それは「独断的」かもしれないが、「自主的」なことであり、それぞれがこの「自主的」な行いによってのみ「温暖化排出削滅」が出来る。
それにしても、サミット夕食会は豪華な料理だったみたいだ。
食糧危機に物価高騰時だというのに、こういう時には首脳たるものは粗食をして手本を示すべきだろうに、サミット首脳クラブがこれでは、「合意」も危ういのも仕方があるまい。
それは本人の健康に関連するばかりでなく、周囲の人に迷惑をかけるためでもあるし、吸殻の投げ捨てなど環境、美観なども関連して、喫煙者はここもあそこも禁煙所になって居場所がなくなりつつある。そして更にタバコ税増税、税率アップ議論が巻き上がって、益々肩身の狭い思いをすることになってきた。
ところで同じ嗜好品だが、飲酒の方はどうなのだろうか。
これも自分の健康を害するものだ。そして周囲の人たちに対しては、タバコの被害どころではない。
酩酊して何処にでも寝転ぶのはまだしも、人に絡んだり暴れたり暴力を振るったりするし、更には飲酒運転で事故殺害にひき逃げなんかもする。
こういう飲酒に対して、事故や犯罪を起こすと罰則を強化する処置は講じられるが、それは事後処置で、タバコ税増税みたいな事前処置とも言える酒税アップ議論が、なぜか中々沸きあがってこない。
テレビのコマーシャルでは、アルコール製品の宣伝が堂々と流されているばかりである。ますで飲酒に関する事故や事件が多発するのを当て込むように・・・・
タバコの増税だけではなしに、アルコール税も増税すべきではないのか。
こんなことを書き込むと、ささやかな一服、一杯をたしなむ方々の反発を受けるだろうが、憩いは何もタバコや飲酒に限らない、何かに見出して頂きたいと思う。
今日色々ニュースになっているブランド品の偽装、それは「うなぎ偽装、地鶏偽装、食品偽装」というようなものばかりでなく、「こうするとああするとお金が儲かる」とか「これを飲んだり着けたりすると健康になる」といわれて高額品を売りつけられるとかして、効果が無かったり、それだけでなく副作用に悩まされることになったりする。
そして「訴訟する」と、こう言い出している。
それはそもそも自分がお金に執着しているからなのであって、その自分を省みずに訴訟も何もあったものではないだろうが、お金にまとい付くというのはかわいそうなものである。
その点、貧乏なのは安心なのかもしれない。そのままを、有りのままに受け止めていればいいのだから。
チマチマとしてささやかな生活をして、欲張らず、おごらず、不平不足の思いをすることも無ければ、安心安穏に生活できる。
もっとも、「振り込み詐欺」というのに引っかからないように、家族は家族なりに一人で生きていくものと信頼することも大切なことーーーーー。
しかしこれは、大人の勝手とか政治家の勝手といえる。
ことに政治の世界では、議題に対して時間制限がなされている。
委員会や本会議では、この制限時間が来ると採決が取られる。場合によっては「強行採決」も行われる。
教育現場に対して「ゆとり教育」の撤廃を求めながら、国など国民生活に関わりある議題になると、このように審議時間を増やさないままに、十分審議しないまま採決、強行採決する。
これは矛盾しており、理解が出来ない。官僚や政治家、総理大臣に対して、小学生でも納得し理解しえる説明を求め、してもらいたい。