住民投票は、自分が住居している地域の事でしか、起案して投票してもらうえないらしい。
こうなると、たとえばダム建設によってこちら側の地域に何らかの不具合がもたらされる場合などでは、住民投票要求の起案権利が生じないこととなる。
選挙でも、他県で選挙違反者が多数出ても、その県のみに住民投票権があって、他県住民には口出しできないとなると、この他県の選挙違反に関係を持っていたこちらの選挙当選者は責任を問われず、住民投票の対象にもならないということか。
今の民主党内のごたごたについても、一つの地域、県域だけの住民投票だけでは、リコール権は発動できないらしい。
となると、国民投票という事になる。
そこまでいかなくとも、一つの地域の住民投票権を受け入れなければ、国家は分裂していく。
政治を担当しようということは、「公人」であらねばならない。「公人」と言うことは、「公器をもつ」ということだ。
ところが今日の政治に関わる人たちには、この「公器」が無い。
党首や役職にに選ばれれば「党」を私物化したみたいにし、国家さへ私物化できるものと思っている。
そこには国民の「公人、公器」としての思いはない。
こうした人々が出てくるのは、普遍性の生命性ともいうべき「理、法」の不明(無智)にあるといわなければならなくなる。
釈尊は、開悟の後八万四千の法を説かれたと言われる。
それを後の人々は、分野別に、あるいは種目別にと言うように分別していき、それを多くの経典としてまとめ上げた。
これらの経典は、それぞれに種目別分野別などに分別されてはいるが、いずれも要点として主目は「真理」を知らしめるためのものである。別には「開眼、悟り」に導くためともいえる。
この経典の中に、「維摩経」という経典と、「般若経」という経典がある。
「維摩経」の教えとは、「沈黙の教え」を説こうとしている。
一方の「般若経」では、「空」を教え説こうとしている。
「維摩経」では、教えを説こうとしながら、沈黙を持って「沈黙の教え」を説こうとしていて、沈黙していて内容を語らない。
対して「般若経」では、経数にして六百巻あるという膨大な経典である。この膨大な経典の中で、「空」を説明しようとしている。
この二つの経典の違いは、一方は沈黙して教えを説こうとしているのに対して、他方は多くの言葉を使って教えを説こうとしていることにある。
これはどういう事であろうか。
それを、ちょっとサモシイ見方で考えてみるとしよう。
「般若経」は六百巻と膨大だが、これを要点のみまとめたものが一般になじみの深い「般若心経」である。漢文にして三百字にみたら無い。
「般若経、般若心経」では、これらの中から「真理を見つけ出しなさい」というのが、教えである。
言いかえると、今日のようなまだ間に合うものがゴミとして出されたものの中から、宝物みたいなものを見つけ出すという事でもある。
一方の「維摩経」では、何もないところから「真理を見つけ出しなさい」ということであり、ちょうどそれは今時のこと、夜闇の中に目を凝らしていて、蛍の光が見えたのを見て「それだ」と見付けた感じになるようなものかもしれない。
だが我々は損得勘定でものを見、判断してしまう。そこへ持ってきての「情報過剰」状態の今日、そのために真実の「真理」と見間違えてしまう。
それがために「無心に、無欲に、無我に」なることを求められる。
「維摩経」的に生きるも、「般若経」的に生きるも、要するに欲得ずくめの損得勘定状態では、親が無くなった後の年金まで家族がむしり取るという風習になる。
政治家さへ、誰もこちらが期待していないのに、「国民の期待に応えます」などと名称詐欺みたいなことを言っている。
これは「科学」ではない。
「日本国憲法」は、憲法九条の「戦争放棄」条項を持って世界有数の「平和憲法」を誇っている。
ところが以前の政党政治が、この憲法九条の条項を勝手にご根回しして「自衛権可能、防衛権可能」として自衛隊を組織し、更には「安全保障条約」や「相互条約など」を結び、集団的自衛権を可能にして言って。
そしてどうなったか・・・・。
結果は上記の記事のように、「領空侵犯、領域審判」を可能にさせる方向にも進んでいる。それはとりもなおさず「領空占領、領域占領」ももくろむものでもある。
こうなると、この国の「自立も自主」も無いに等しい。
言わんことじない。
もっともっと「態度、礼儀、礼儀作法」の悪さが、撒き散らされ、撒き散らそうと画策されている。
子供の教育やしつけなどには、困ったことだぞよ。
★ 介護にも 看護するにも 疲れ果て
脳死判定 今かと待つか 2010/8/23
息を引き取る前に「脳死判定」を受けて、「死亡宣告」を受けてしまえば、もう介護することも看護する必要もなくなるといことの、現代版「姥捨て山」考。
この人たちが騒いでいるから、今年はもう五十日近く真夏日が続いている。
こんな人は、さっさと議員辞職し、取り巻きも議員辞職し、先の首相も「次の選挙には出ない」と言った以上大人しくしていてくれないと、まだまだ暑い真夏日が続いて我々はみんな熱中症にやられてしまう。
さーさ、早く辞職して、消えておくれ。
そうすりゃ、処暑らしく涼しくなってくれる。
首相なんかも、夏休みともなると別荘で読書三枚で送っていたという。
せっかくの休み、いつもは家族ともゆっくり語らうことがないだろうに、こんな時くらい家族や孫たちとも語りあって水入らずで過ごせばいいものを、「社会全体がこうあるべし」とでもいう風に手前勝手な手本をしている。
これだから他の者も、「やれ外遊」だの、「付き合いゴルフ、パーテー」だのとかで、社会や家族の絆の希薄化、疎遠化をあおっている。
「まつりごと(政)とは、家族関係の絆をしっかりと営み築くことによって、培われてゆくものである」
それに輪をかけるように、政治体制の政争化が脆弱化を増していくばかりで弱体化している。
これでは「世を救い、世を導き、世を引っ張っていく」ことが出来ようもない。
以前なら、こうした役目や役割を、「老人、年寄り」が人々から尊敬されて担当し担ってきた。
しかしこんにちげんざいにおいては、こうしたろうじん、としよりは除け者にされている。尊敬されたりしない。食事などでも、後回しにされ、お風呂などでも「臭いから、汚いから」と言って後回しにされる。
また何か意見を言おうものなら、「うるさい」と、小さな子供にも煩がられる。
今日の老人、年寄りがこのようになったのは、一つには核家族化にあるようだし、更には老人、年寄り自体が、年を取ったから「楽をしよう」として、老後を「趣味や旅行」などをして楽しく過ごそうなどとしていたことにあると言わなければならない。
こうしたことによって、老人、年寄りは、自分自身の置き所を、自分自身で惨めなところに押し込めてしまっている。それ故に、今の老人は若い者や子供たちに尊敬を受けられなくなっている。
「自縄自縛」にかけてしまったのが、今の老人であり、年寄りなのである。
」そして又、こうした老人、年寄りたちによって「しつけ、教育、育て」を受けた元年代の人たちもまた、自分自身をただ過ごそうとする事ばかりに気にかけていて、では自分自身を含めた世の中をどのようにしてよくしていこうかという事になると、無関心になる。自分がいかに「豊かに、楽しく、楽(快適、便利)」に過ごそうかという事に、忙しいからだ。
この忙しいことから、それが翻って我が身に帰ってくることになり、後で泣くことになる。
今の今日、このように「救世主」はいない。いないし、存在しない。
かっては、優れた「導師」がいられた。宗教家である。
だが現在の宗教家も、たとえば「大川なんとか」と言う人なんかも、「現在の釈尊の降臨」などと言っているが、救世主の道はお金とも選挙とも関係が無い。
現在の今日、救世主はいないが、救世主の種はいつも捲かれている。
その種とは、「貴方であり、私」がそうである。
誰もが知ってのとおり、素晴らしい仕事を成し遂げるには、「姿勢を正し行儀よく」していてこそ、素晴らしい仕事が成し遂げられる。
遊びながら、崩した姿勢で、嫌々と、そんな態度で向かい合うのではなく、仕事だけでなく「行状坐臥」全てにおいて「姿勢よく行儀よく」相対していくならば、自らが世のすべてとの救世主となり花開いていく。
背中に剣を隠し、銃器を構え、ミサイルに核兵器を携えていて、それでどんなに謝罪しても、謝罪した意味がないことがよく解かっているものだから、彼らは謝罪しないわけだ。
これを、物事の「道理」と言う。