★ 雲の間に 現れ光る 丸ろい月
人世治める 月はいずこに 2011/11/8
今日の月齢は、12らしい。
でも、雲の間から時々覗かせる月は、丸まって見える。
今日の荒廃した人の世を、この月のように世を治め、正せしく導いて下さる救世主は、いずこにおわします。
戦車など52両、フェリーで北海道から大分へ(読売新聞) - goo ニュース
憲法では、その第9条において、「有事意識」を持つことも禁止している。
それは、「有事に対処しない」という高尚文により、「有事対応」を持たない。
よってこうした「演習」自体にしてからが、憲法違反となる。
次の画像の記事は、家で取っている地方紙に載せられた投稿文で、中学2年生のものです。
ここ何年も、いや何十年も前からと言わなければなりませんが、政治家ばかりでなく企業の首脳も、またマスコミからして、結果論ばかり述べている。それは目標を挙げたものであるにしても、国民や世間から認知され、実績の上に立ったものではなく、自分の都合のいいようにならせようという、口だけが先に出たものでしかない。
「消費税増税」を当てにした来年度予算編成にしても、まるで「借金、ローン」をしただけで、後は「俺は知らん」といったもの言いであるし、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)にしても、後のことには責任を持とうとした素振りもない。
第一、「物がなければ、輸入すればよい」という短慮的なやり方が故に、こういうことになる。
元々は、そこで生産された分に見合った消費をしていくのが、賢い生活であったものだ。それが他を当てにしているから、地方の過疎化が進み、一方では都市化した所は、地方の生産が得られなければ立往生してしまう。
「消費税増税」はまた、それによって「災害被災地復興」なども狙っているが、とどの詰まりで言えば「景気拡大、経済成長」をもくろんでいる。
これはどういうことであるかというと、子供たちが自然の中で健やかに育つ場所を取り上げようということを意味する。
今の子供たちは、家の中でテレビを見るとかゲームをするとか、または親たちが子供をスターにさせようとかしていて、自然の中で伸び伸びと自然とのかかわりを身につける機会が奪われてしまっている。
こういう境遇の中に追いやられた子供たちは、精神的に軟弱化し、胸の中にストレスを抱き込んでしまっている。
今日の新聞の投稿記事は、「大黒柱不在」となっている世情を指摘している。
首相、10日にもTPP交渉参加表明(読売新聞) - goo ニュース
「太平洋経済連携協定(TPP)」というものも、原子力発電問題と同じ。
「原発立地、発電事業者、需要者」の三者が絡み合う。
「太平洋経済連携協定(TPP)」も、「農業生産者、外国、需要者」の三者が絡み合い、「東日本大震災」のような「想定外」な出来事に会うと、身竦みになってしまう。
そして、同じ道をたどる。
これというのも、「他を頼らず、自力で生きて行こう」という気概がないことにある。
駒大、3年ぶり9度目の優勝…全日本大学駅伝(読売新聞) - goo ニュース
一体どうなっている ????
「東日本大震災」の瓦礫処理に、その処理の分別手分け作業が厄介なのに、スポーツしている者も見物している者も、こんなことしている暇があるなら、この「分別手分け」作業に加わったら、瓦礫処理もはかどる。
もっとも「放射能汚染が怖い」といって、逃げ腰にばかりになっているから、いくら「がんばろう日本」と言っていたって、災害地復興が進まない。
いくら消費税上げたりしても、無理ですな。
この事から人間は、自然との「平等的対等性の中の対称性」が整わず、整わないから人間と自然との「平等的対等性の中の対称性」から離れた存在になってしまい、人間が人間としてこの世に生きて行く進路を見いだせなくなっている。
前述で上記のように述べたきた。
このことは、我々人間は「自然の摂理」から遊離してしまっていることを述べている。
この乖離した様は、言ってみれば「人間崇拝」から起きていると言える。
「この世は人間だけのもの」といった、自らの事を「万物の霊長類」ということにも、現われている。
だが我々人間としても、自然の中にしか生けるところはない。自然の中の「水に生き、土に生き、山野に生きる」ことにこそ、我々人間の生きる場がある。
ところが我々人間は、「美」にこそ生きる場があるとして、この「美」を我が物にしようと切磋琢磨している。
「美」とは、文化文明のことであり、且つ我々の欲する「豊かさ、楽しさ、楽(快適、便利)さ」の事でもある。
こうした「文化文明」や「豊かさ、楽しさ、楽(快適、便利)さ」は、自然中に、自然の摂理の中での生きるということとは馴染まない。
何故なら、「美」では、自然や自然の持つ摂理には歯が立たないからである。
自然や自然の持つ摂理の中で生きていくためには、どうしても「汗まみれ、泥まみれ」になっていかなければならず、こうした「汗まみれ、泥まみれ」になれないならば、自然の厳しさをもろに受けると、「泣きごとや弱音」を吐いてしまうものである。
正しく「平等的対等性の中の対称性」として我々人間が、自然と自然の摂理とに相対する時、我々も自然と平和をものにできる。
原子力関係予算、復旧対策などで来年度は倍増(読売新聞) - goo ニュース
゜社会保障、復興財源、財政再建」として消費税増税を上げようとしながら、こっちの方へと、引っ手繰ってしまおうとしている。
「国際公約」は、そういうための公約だったらしい。
支給開始年齢引き上げ案の先送りは泥沼化の序章?年金の「100年安心」と引き換えに国民が覚悟すべきこと(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
今日の我々人間は、「独立心、自立心」が無くなっている。
「独立心、自立心」が無くなっているから、他のものを頼り依存してしまう。
「年金制度」とは、本来は「共助」に基づく制度だったはずだ。
しかしこうした「共助」の精神が、「国民同士の共助」であるべきはずのものが、それを運営し立案する「政治」という者が、この「共助」自体を、我がもののように取り扱っている。
即ち、政治」というものが、この「共助」と乖離していて、一体化していない。
これは国民の立場、目線に立っていないからで、その反対の「政治家、官僚」などの都合の目線におもねっている。
だから年金制度を「支給年齢の引き上げ、保険料の引き上げ、年金額の減額」などという方策をとり、その上に「消費税増税」を打ち出して、つじつまを合わせようとしている。
このつじつまを合わせようというのは、「政治家、官僚」などの国家公務員の年金には、少しも影響を受けないように配慮しての方策で、国民に負担の全部を負わせてしまういうやり方になっている。
これは政治家や官僚が、国民を頼りにしていることを意味する。しかし頼りっぱなしで、国民に辛苦ばかりを押し付けるのを頼りにしていながら、自分たちは親方日の丸暮らしに夢中になる。
原発問題も、都市部が辺地に「頼る」ことで大都市とて繁栄できた。
ところがこうして辺地の過疎地のおかげで繁栄させてもらっているのに、過疎地や辺地の人たちの事を「ダサい、田舎っぺ」と言って蔑む。
この「田舎っぺ、ダサい」人たちを頼らずして、自分たちは「安心安全」な生活もできない。
そんなに過疎地や辺地の人々を「田舎っぺ、ダサイ」というなら、「電気、水道、」などのライフラインは、地だけに限定消費とし、他地区への配電はしない方が良い。
金融危機も、相手国に頼るがあまり、国債償還ができなくなって現れたれ現象といえる。
企業同士、政府の中央銀行が他国の債券を購入したりして「頼り」に答えられにも、現界があることを示しいる。