武器輸出緩和へ新基準 人道目的や共同開発は「例外」(朝日新聞) - goo ニュース
一般人が、理由も無しに「ナイフ、短刀」や、押し入り用のパールなどとかを所持していると、「危険物所持」などで連行される。
ところが自衛隊ではそれが許されるし、またそうした「危険」な「武器輸出」は許されるという、可笑しく変な法律がまかり通っている。
まこれは、兵器産業に「尻を叩かれ」ているばかりでなく、それで「景気拡大、経済成長」をもくろんでいる。
この輸出された平気で、どれほどの犠牲者が出ようと、お構いなし。
これが「民主国家」の姿である。
我々が「人生」というものに思いをやる時、つい身構えてしまう。
「どう生きるべきか、何をなすべきか」というように、ちょっとした緊張感で応じてしまう。
それは「信仰を持つ」という事でも、つい身構え緊張してしまうものだ。
このように「身構え、緊張」してしまうのは、「自分は生きている」という思いからなされている。しかし我々は「ただ息をしていて、したい事をする」ままに生きているものではない。
「息をしている」という事は、「命」があるということである。この命は、独りでに生まれたものではなく、「戴いた」ものである。
「親から」であり、それは「神仏」から授けられたものである。
しからばこの「戴き、授けられた」命の生き方は、必然的に「神仏」に相通じるものでなければならなくなる。
この「必然的に神仏と相通じる」生き方になっていくことを、「信仰」といい、この「信仰」に導く教えが「宗教」となる。
「信仰」に生きるためには、我々の思いと、「神仏」の思いとは、かけ離れている溝を埋める必要がある。
この溝を埋めるために「信仰、宗教」があるわけだが、その初めに、「神仏の思い」に近付くには、「したいのにしてはならない。したくないのにしなければならない」という、態度に立たなければならない。「したい事」をいつまでもしていてはならず、「したくない」と我儘言っている訳にはいかないのが、「信仰、宗教」の初歩であり出発点になる。
この「したいのにしてはならない。したくないのにしなければならない」という、態度に立たなければならない事は忍耐を必要としているものだが、そうした緊張感や身構えを持たないで、気楽にやれる方法がある。
キリスト教の聖書に、こんな記述がある。
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(「コリントの信徒への手紙一」10章31節)
ここで言っている事は、「我々のすべての行いを、神仏が行う如くしなさい」ということである。言わば我々がすでに「神仏」になったつもりで生活をしなさいということである。いや生活だけでなく、「行い、言動」も、「神仏」が如き「良き行いと良き言葉」で行って行くことが、「信仰であり宗教」であるということである。
首相肝いり法案、軒並み先送り…国会きょう閉会(読売新聞) - goo ニュース
何にも成果を上げないまま、国会は閉じる。
税金だけは、たんと使った。
こんな結果になるなら、もっと国民の方に回してくれればいいのに・・・・・
首相「職務遂行に全力を」2閣僚続投させる考え(読売新聞) - goo ニュース
身内には甘く、国民にと冷たい。
冷たいだけでなく、重圧をかけようとしている。
自分自身に冷たく、重圧をかけ、国民の立場を重んじるのが勤めなのに・・・・・
国「地方の試算は過大」主張へ 消費増税配分巡り対立(朝日新聞) - goo ニュース
まだだよ・・・・。
誰も「消費税増税」に賛同していると言っていない。
それぞれが、それぞれに「捕らぬ狸の皮算用」していてる。
こういうのが「政治」なら、御用じゃないね。
★ 戦の日 欲に快楽に 明け暮れる
再び襲う 悲劇の前夜 2011/12/8
太平洋戦争の開始日、そして真珠湾攻撃の日から70年。
しかしこの戦争で300万人もの犠牲者を出して敗戦しながら、ちょっと豊かになったのをいいことに「欲に快楽に」明け暮れる今日の姿。
だがこれは、再度の悲劇となる、前夜になる。
我々人間が「知恵を持った」ということは、その「知恵」によって「物事」を解明した事にはならない。むしろその「知恵」によって、「物事」に枠づけてしまい、真の事実を知ろうとはしなくなってしまっている。
「真の事実」は、広大であり万象性を持つ。故に一つの枠に、はめ込んで解明した事が、「真実の事実」とはならなくなる。
我々が心の安らぎ、精神の安らぎのために信仰を持とうとする事実も、自分の持つ知恵の枠内で、それを誰かに「求める」ものではない。言ってみれば、それは信仰を捕らえようとしているものである。
それに対して真実の信仰とは、「こちらが信仰に捕らえられる」ことを言う。
これは、「神仏」から捕らえられるように、自分自身が捕らえられるように自分が持つ知恵を投げ捨てて「身を投げ出す、正す」必要がある。
即ちこちらが「何もない」ままならば、信仰の心は我々の胸に沁みとおるように入ってくる。
それは我々が信仰を求めようと網を張っても、その信仰を捕えられる網でなければならない。
この信仰を捕える網になるには、自分自身がそれに適した網になる必要がある。
という事は、こちらが信仰の網に、捕らえられてしまわなければならないこととなる。
相対するものと対立しているような、「我と彼」とであってはならず、我は「貧しく、無知で、無欲」になる事によってのみ、信仰を得られる。
信仰とは故に、「願いや祈り」で「得てやろう、ものにしてやろう」と思っても得られずに、こちらが「受け入れる」体制になれた時に得られることとなる。
「受け入れる」体制となれば、今の現実の事象に対して、「素直なまま」に受け入れられるだろう。
「今の現象」に対する「文句、不平不満、愚痴、喜怒哀楽」も無くなる。無くなれば、どんな喜怒哀楽を感じるものでも、素直に受け入れられて「ありがたい」と戴く他はなくなる。
「素直に受け入れ、有り難い」と戴く時、我々は神仏の網に捕らえられ、信仰の大船の上に引き上げられる。
★ 師走の日 二胡蝶奏でる ディルーム
静かに静かに 胸に沁み入る 2011/14/7
今日のディサービスに、「野澤香苗」さんが、二胡蝶演奏にお越し下さいました。
「致命的なことしてない」 一川防衛相、改めて辞任否定(朝日新聞) - goo ニュース
何か悶着が起こると、政治家や企業の首脳は「襟を正して続投します」と言う。
となると、これまでは任命された職務に「襟を正して」取り組んでいなかったという事になる。
こういう事が、延々とここ何年間続いている。
これでは世界各国から、それで仲間外しにされがちになり、信用を失う。
こういう事は自民党時代からあり、そのため政治離れが進んで無関心派が増えている。
今はもはや、仲間意識で議員、地方の首脳に議会議員、閣僚や首相を選んでも、それは弊害にしかならない。事にタレント議員なんかは、真面目な政治活動をしている風には見えず、単なる飾りものの議員になっているに過ぎない。