常光寺は、奈良時代に僧行基が創建したと伝えられています。
当初は「新堂寺」と呼ばれていました。
南北朝期に戦乱で寺は焼かれ、荒廃しますが、至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建されました。
室町時代に足利義満から、自筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められ、常光寺と呼ぶようになりました。
1615年の大坂夏の陣では、当寺を中心に藤堂高虎(徳川方)と長曽我部盛親(豊臣方)との決戦が行われましたが、この寺を以心崇伝が抱え寺としていてため、徳川家康が「寺を荒らすな」との制札を発して、心無い雑兵の乱暴を厳重に戒めたため、寺は被害も受けなかったそうです。
高虎は本堂の北の方丈の縁側に敵方の首級を並べて長曽我部方戦死者の首を廊下に並べ、首実検をしたといいます。後にその縁板を方丈の西廊下の天井として貼り替えたため、血天井と称されています。
そのとき討死した藤堂家家臣七一士の墓も、本堂後ろに並んでいるそうです。
本堂
ちょうどこの時、本堂の改修工事が行われていたため、見学はできませんでした。
鐘楼
にほんブログ村
神社・仏閣 ブログランキングへ
当初は「新堂寺」と呼ばれていました。
南北朝期に戦乱で寺は焼かれ、荒廃しますが、至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建されました。
室町時代に足利義満から、自筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められ、常光寺と呼ぶようになりました。
1615年の大坂夏の陣では、当寺を中心に藤堂高虎(徳川方)と長曽我部盛親(豊臣方)との決戦が行われましたが、この寺を以心崇伝が抱え寺としていてため、徳川家康が「寺を荒らすな」との制札を発して、心無い雑兵の乱暴を厳重に戒めたため、寺は被害も受けなかったそうです。
高虎は本堂の北の方丈の縁側に敵方の首級を並べて長曽我部方戦死者の首を廊下に並べ、首実検をしたといいます。後にその縁板を方丈の西廊下の天井として貼り替えたため、血天井と称されています。
そのとき討死した藤堂家家臣七一士の墓も、本堂後ろに並んでいるそうです。
本堂
ちょうどこの時、本堂の改修工事が行われていたため、見学はできませんでした。
鐘楼
にほんブログ村
神社・仏閣 ブログランキングへ