長浜駅を降りると、駅前に「秀吉と三成出逢いの像」があります。
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
三成公は、ここから5キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。
また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。(案内板より)
この「三献の茶」は、「武将感状記に載っている逸話です。
「武将感状記」は、熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳6年(1716年)に刊行された、戦国時代から徳川時代初期までの武人について著された行状記です。
ただし、この逸話が載っている史料が、江戸時代のものであること、三成の息子が記した寿聖院「霊牌日鑑」によると、「三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてである。」と記されていることから、創作であるとする説もあります。
長浜駅から、湖国バスで約20分、石田で下車。
石田三成生誕の地・石田町を歩いてみました。
バスを降りたところで、「三献の茶」の三成さまを発見!
ここから南へ50mほど行くと、右手に石田三成出生地があります。
三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館には、三成の生涯を描いた絵巻パネルが展示されています。
「石田治部少輔出生地」と刻まれた石碑や三成の銅像、史料室もあります。
当時の三成の官位「治部少鋪」の名をとった治部池は、三成屋敷の堀の一部ではないかといわれています。
石田氏は、もともと当地に屋敷を構え、京極氏や浅井氏に仕えた土豪であったそうで、この周辺には、治部池をはじめ、的場、番場、御畑などの三成や、中世土豪に関連した小字名が残っています。
(Wikipedia、日本の100人参照)