岡崎市戸崎町の小豆坂古戦場跡は、尾張の織田信秀と駿河の今川義元が2度にわたり激戦を繰り広げた舞台です。
永禄7年(1564)には土呂・針崎の三河一向一揆と徳川家康との戦場になりました。
槍立松、血洗い池などから当時を偲ぶことができます。
史跡 小豆坂古戦場跡 355平方メートル
徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川氏、西の織田氏にはさまれ、たびたび戦火にみまわれた。
三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出をはかった。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢を生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂七本槍と呼ばれた。彼らが槍を立てて休息した松が槍立松と伝えられる。ただし、この天文11年の戦いはなかったという説もある。
これ以降、今川氏との関係を深めた松平広忠(家康の父)に対して、天文17年(1548)3月、織田信秀は岡崎攻撃の準備をととのえ出陣した。一方、今川義元は広忠救援のため大原雪斎(たいげんせっさい)を大将とする軍勢を送ったため、両軍は小豆坂で出合い合戦におよんだ。この戦いは、松平家臣酒井正親(まさちか)らの活躍により今川・松平連合軍が勝利した。今川・織田両者の争いは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いまで続いた。
桶狭間の戦いの後、独立をはたした徳川家康の最初の難関は一向一揆との対立であった。永禄7年(1564)、土呂(とろ)・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。
小豆坂一帯は数々の合戦の場として、槍立松、血洗池、馬洗池、千人塚など多くの伝承を残したきた。江戸時代から徳川創業史をいろどる出来事として著名で、近代以降も建碑などの顕彰活動が相次いだ。ここに設置してある小豆坂古戦場碑は昭和62年に、槍立松及び血洗池碑は平成5年に、いずれも付近の別のところから移設したものである。
平成11年10月7日指定 岡崎市教育委員会
血洗池
槍立松
徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川、西の織田両氏にはさまれ、たびたび戦禍に見舞われるところとなりました。三河を統一した松平清康(家康の祖父)は、天文4年(1535)、尾張守山で家臣に殺されました。弱体化した松平氏に対して織田信秀(信長の父)は、安城を起点に矢作川東岸部への進出を図りました。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦いました。
この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂の七本槍と呼れています。彼らが槍を立てて休息した松が槍立松だと伝えられています。
これ以降、今川氏との関係をさらに深くした松平広忠(家康の父)に対して、天文17年(1548)、織田信秀は岡崎攻撃の準備を整え、一方、今川義元は広忠救護のため軍勢を送り、両軍は再び小豆坂で合戦におよびました。この戦いは松平家臣酒井正親らの活躍により今川松平連合軍優勢の内に展開しました。
今川-織田両者の争いは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いまで続きました。
桶狭間の戦い以降、独立を果たした徳川家康の最初の難関は一向一揆との戦いでした。永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康側の勝利により一揆は終息を早めることになりました。
このようにして小豆坂は、数々の合戦の場として、槍立松、血洗池(ちあらいいけ)、馬洗池など多くの伝承を残していました。
岡崎市教育委員会
名鉄「東岡崎駅」より名鉄バス竜美丘経由岡崎駅前行「光ヶ丘」下車徒歩10分
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