また、宝台院は、江戸開城後に、徳川慶喜が1年間近くを謹慎した場所としても知られます。
江戸城は、慶応4年(1868)4月11日に新政府軍に明け渡され、彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は、11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かいました。
水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、7月23日、慶喜も駿河の宝台院に移って、明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で謹慎されました。
これにより、徳川家による政権は幕を閉じ、以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となりました。
徳川慶喜公謹慎之地
石碑には、当時の緊迫した状況が記載されています。
宝台院と徳川慶喜公
明治元年7月、第15代将軍慶喜公、御謹慎の身となり、同月19日水戸を出発して銚子港に到着し、同月21日蟠龍艦に乗船し、同月23日に清水港に到着しました。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが、極めて危険な事だったからでしょう。この時、目付の中台信太郎(のち駿河藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下50名の厳重な護衛がついて駿府に向かいました。慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警戒体制を必要としていました。
一行は当日夕刻には宝台院に入りましたが、慶喜公の駿府移住は秘密裏に行われ、町民には一切知らされていませんでした。慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その5日後の28日のことでした。
尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に選んだのは元若年寄大久保一翁でした。彼は駿府町奉行の経験もあって、この町を熟知しており、徳川第2代将軍秀忠公の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜公が落ち着いて過ごせる場所と考えたのでしょう。以来、誠心誠意謹慎をされ、翌明治2年9月28日、謹慎が解け10月5日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約1年余りを当山で起居されました。この謹慎の部屋は10畳と6畳の2室で、10畳の間を居間、6畳の間を次の間として使用し、当時、渋沢栄一や勝海舟と面会されたのもこの6畳間でした。
明治元年8月15日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し、御霊屋に参礼の後、やはりこの部屋で対面したという事です。家達公は七間町3丁目を曲がり、御輿で大手門より入城されましたが、当時まだ7才というお年でした、
現在の宝台院には、慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っております。
静岡市
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終え、帰国した渋沢栄一は、明治元年(1868)12月20日、静岡に向かいました。
徳川家は静岡藩に移され、藩主は田安家の当主・徳川家達でした。
藩政の実権は、大久保一翁が握っており、栄一は、慶喜に拝謁し、昭武から預かってきた書状を慶喜へ渡すように依頼しました。
23日の夕方になり、栄一は、宝台院の慶喜を訪ねます。二年ぶりに目にした慶喜は、痩せ細った変わり果てた姿で、栄一は思わず涙したといいます。栄一は、フランスでの昭武の活躍ぶりを話すと、慶喜は栄一の労をねぎらい、「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受します。
しかし、昭武への手紙の返事はもらえず、慶喜と拝謁してから4日目に藩庁から呼び出され、静岡藩の勘定組頭に任命されました。すると、栄一は、昭武への返事を水戸に届ける役目があると、これを固辞します。その後、大久保一翁から、「渋沢を水戸へやると、民部公子が重用するであろう。そうなると、水戸藩士が栄一を嫉妬し、危害を加えるかもしれぬ。水戸には、渋沢は当藩に必要と伝え、藩庁の仕事をさせよ。」との慶喜の言葉を聞きます。
栄一は、慶喜の思いやりを知り、自らを恥じ、慶喜への恩に報いるため、静岡に留まり、静岡藩に出仕しました。
藩政の実権は、大久保一翁が握っており、栄一は、慶喜に拝謁し、昭武から預かってきた書状を慶喜へ渡すように依頼しました。
23日の夕方になり、栄一は、宝台院の慶喜を訪ねます。二年ぶりに目にした慶喜は、痩せ細った変わり果てた姿で、栄一は思わず涙したといいます。栄一は、フランスでの昭武の活躍ぶりを話すと、慶喜は栄一の労をねぎらい、「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受します。
しかし、昭武への手紙の返事はもらえず、慶喜と拝謁してから4日目に藩庁から呼び出され、静岡藩の勘定組頭に任命されました。すると、栄一は、昭武への返事を水戸に届ける役目があると、これを固辞します。その後、大久保一翁から、「渋沢を水戸へやると、民部公子が重用するであろう。そうなると、水戸藩士が栄一を嫉妬し、危害を加えるかもしれぬ。水戸には、渋沢は当藩に必要と伝え、藩庁の仕事をさせよ。」との慶喜の言葉を聞きます。
栄一は、慶喜の思いやりを知り、自らを恥じ、慶喜への恩に報いるため、静岡に留まり、静岡藩に出仕しました。
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