日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

セミナリオ史跡公園

2014-10-21 | 史跡
安土城南西麓の百々橋口から下街道を越え、南に数分行くと、セミナリオ史跡公園があります。






この地の小字名「大臼」(だいうす)は、ラテン語で神を意味するデウス(Devs)の転訛と考えられ、セミナリオ跡は、織田信長の庇護を受けたイタリア人宣教師オルガンチノによって天正9年(1581年)に創建された目本最初のキリシタン神学校の跡とされています。





現在は 安土城の外濠沿いに公園として整備されています。







ここは、安土城天主から直線約700mのところにあり、城からよく目立ったと思われています。
(向こうに見えるのは、「信長の館」です。)

天正8年(1580)織田信長より教会用地を受けたオルガンチノが、高山右近らたちの援助を受け、純和風3階建ての豪壮な建物を完成させました。
一階は玄関と茶室つのついた座敷、二階は宣教師の居室、三階は大広間で教室を学生の寝室を兼ねていたそうです。
学生は、高山右近の家臣の子息8人を含めて25~30人。
教育内容は、キリスト教理、ラテン語古典、修辞学、西洋音楽に加え、「平家物語」などの日本文学も含まれていたといいます。

セミナリヨには多くの訪問者があり、1581年には信長も立ち寄り、クラヴォとヴィオラの演奏を聴いたという記録が残っています。
この頃から、西洋音楽を聴いていたとは、またまた時代の先端を行っていますね!

本能寺の変で信長が死去すると事態は一変。
セミナリヨは安土城炎上の際に焼失。
オルガンチノと学生は、琵琶湖の沖島から京都の南蛮寺に避難します。
後に、セミナリヨは高山右近の援助で、大阪高槻で再建されることになりますが、豊臣秀吉のキリシタン弾圧により、長崎の有馬セミナリオと合併、九州を転々とした後、徳川家康の禁教令で閉鎖に至りました。

安土セミナリヨの神学生であった三木パウロは、阿波(徳島県)の出身で、1586年にイエズス会入りし、布教活動に献身しますが、慶長元(1596)年、豊臣秀吉の禁教令によって大坂で捕らえられ、翌年、25人の信者とともに長崎西坂の丘で殉教してしまいます。
(「滋賀県の歴史散歩」参照)


三木パウロの顕彰碑



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6 コメント

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セミナリオ史跡公園 (willy_tsuguo_shikata)
2014-10-21 05:56:33
安土城跡の近辺に「セミナリオ史跡公園」があるなんて全然知りませんでした。
中々良く整備されているようですね!
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Unknown (YUMI)
2014-10-21 09:48:12
「大臼」という地名は、デウスの転訛ですね。
そういうところにもこの時代の息吹が感じられるのですね。
キリシタンたちも為政者の思いに振り回された時代ですね。
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四方さんへ (しずか)
2014-10-21 11:16:22
安土城は有名でも、ここはあまり知られていないのかもしれませんね。
細い道から入るので、自転車で行くのが最適のように思います。
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YUMIさんへ (しずか)
2014-10-21 11:18:23
はじめは庇護を受けたいたのに、後には弾圧とは、この時代の宣教師、キリシタンたちは大変な思いをしたのですね。
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Unknown (そば打ちおじさん)
2014-10-24 01:56:43
私も何回も安土にいっているのに、いったのは2回だけです。草津南歴史会でいったときは、案内人だったので、いいところかなとおもっていきました。でもいいところでした、何で建物までつぶしたんでしょうね。
三木パウロの顕彰碑はしりませんでしたわ。
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そば打ちおじさんへ (しずか)
2014-10-25 01:57:06
コメントありがとうございます!

さきほど京都から戻って来ました。

滋賀県も歴史の宝庫ですから、何度足を運んでも
すべては回り切れませんね。
またそば打ちおじさんのお奨めを教えてくださいね。
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