日々史跡めぐり

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数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

2023-11-16 | 史跡

京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻り橋は、数々の残酷な歴史の舞台にとなってきました。

戦国時代には、細川晴元により三好長慶の家臣・和田新五郎が鋸挽きにされました。

和田 新五郎(わだ しんごろう、生年不明 - 天文13年8月11日(1544年8月29日))は、戦国時代の武士。三好長慶の被官。

新五郎は室町幕府12代将軍である足利義晴の嫡男・足利菊童丸の侍女と「不義密通」していたことを咎められ、天文13年(1544年)、一条戻橋で「鋸引き」の刑で処刑された。最初の鋸で両腕を切り落とされ、その後頸を斬り落とされたという。

山科言継曰く、「前代未聞」の残忍な処刑方法だったという。また侍女の方も洛中を裸体で引き廻された後六条河原で処刑された。

処刑は足利義晴及び細川晴元による主導で行われた。この事件は長慶の面目を丸潰しにしたと言われ、晴元と長慶の関係悪化を助長したと考えられる。(Wikipediaより)


安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首され、また秀吉のキリスト教禁教令のもと、1597年には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、京都の市中を引き回され、堀川にかかる一条戻橋で、耳削ぎの刑を受けました。

秀吉は両耳と鼻をを落とすようにと指示しましたが、キリシタンに理解があった石田三成の取りなしによって、左の耳だけにとどめられといわれます。

大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された際も、三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたのですが、果たせなかったそうです。



1597年1月10日、長崎で処刑されることになった一行は、歩いて長崎へ向かうことになりました。そして、道中でイエズス会員の世話のために付き添っていたペトロ助四郎、フランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも自らの意志で捕まり、6人の外国人、日本人キリシタン20人、合わせて26人の聖人が弾圧されました。



一条戻橋には、こんな伝説も残されています。



「戻橋」という名前の由来については『撰集抄』巻七で、延喜18年(918年)12月に漢学者三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。

『平家物語』剣巻には次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる。

戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。(Wikipediaより)

 
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