琵琶湖・竹生島の唐門、大坂城の極楽橋か
大坂夏の陣(1615年)で焼失した豊臣期大坂城の唯一の建物遺構ではないかと近年、琵琶湖・竹生ちくぶ島(滋賀県長浜市)の宝厳ほうごん寺の唐門(国宝、桃山時代)が、専門家の注目を集めている。オーストリアで7年前に見つかった豊臣期大坂城の屏風絵に描かれた「極楽橋」と似ているためだ。昨年、唐門を調査した関西大・大阪都市遺産研究センターの高橋隆博教授も「極楽橋だった可能性が高い」とみている。
極楽橋は豊臣秀吉が1596年に、本丸北側に架けたと、当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスが書簡に記し、〈黄金で輝く高貴な橋〉と評している。
だが、秀吉没後の1600年、秀吉をまつる豊国廟びょう(京都市東山区)に移築、巨大な門になったことが当時の文献に記される。さらに豊国廟の社僧の日記には、1602年に「極楽門」を竹生島に寄進するため壊し始める、との記述がある。北川央・大阪城天守閣研究主幹は、極楽橋が門に姿を変え、豊国廟を経て、竹生島に移った可能性があるとみていた。
(2013年9月18日 読売新聞より)
記事全文はコチラ
竹生島の宝厳寺は、2010年に参拝したことがあるので、その時の記事を抜粋します。
宝厳寺の観音堂
観音堂は、慶長8年(1603)、豊臣秀頼が秀吉の遺命により、片桐旦元を普請奉行として、京都東山の豊国廟から移築寄進されたとするものです。
宝厳寺の唐門
観音堂の入り口にあたる国宝の唐門は、檜皮葺きで、前後に唐破風を持ち、極彩色の彫刻や飾金具が施され、豪華絢爛な桃山様式の代表的遺構といえます。
観音堂から都久夫須麻神社本殿に続く渡廊は、秀吉の日本丸と名付けられた御座船の材を利用したものとされ、舟廊下とよばれています。
舟廊下
唐門が大阪城の移行なのか・・・さらなる調査に期待しています!
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大坂夏の陣(1615年)で焼失した豊臣期大坂城の唯一の建物遺構ではないかと近年、琵琶湖・竹生ちくぶ島(滋賀県長浜市)の宝厳ほうごん寺の唐門(国宝、桃山時代)が、専門家の注目を集めている。オーストリアで7年前に見つかった豊臣期大坂城の屏風絵に描かれた「極楽橋」と似ているためだ。昨年、唐門を調査した関西大・大阪都市遺産研究センターの高橋隆博教授も「極楽橋だった可能性が高い」とみている。
極楽橋は豊臣秀吉が1596年に、本丸北側に架けたと、当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスが書簡に記し、〈黄金で輝く高貴な橋〉と評している。
だが、秀吉没後の1600年、秀吉をまつる豊国廟びょう(京都市東山区)に移築、巨大な門になったことが当時の文献に記される。さらに豊国廟の社僧の日記には、1602年に「極楽門」を竹生島に寄進するため壊し始める、との記述がある。北川央・大阪城天守閣研究主幹は、極楽橋が門に姿を変え、豊国廟を経て、竹生島に移った可能性があるとみていた。
(2013年9月18日 読売新聞より)
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竹生島の宝厳寺は、2010年に参拝したことがあるので、その時の記事を抜粋します。
宝厳寺の観音堂
観音堂は、慶長8年(1603)、豊臣秀頼が秀吉の遺命により、片桐旦元を普請奉行として、京都東山の豊国廟から移築寄進されたとするものです。
宝厳寺の唐門
観音堂の入り口にあたる国宝の唐門は、檜皮葺きで、前後に唐破風を持ち、極彩色の彫刻や飾金具が施され、豪華絢爛な桃山様式の代表的遺構といえます。
観音堂から都久夫須麻神社本殿に続く渡廊は、秀吉の日本丸と名付けられた御座船の材を利用したものとされ、舟廊下とよばれています。
舟廊下
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もう一度見たいですね!
近江今津から船でした。
この時は、30分しか時間がなくて、バタバタしていました(^_^;)