井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。
井伊家は藤原鎌足の後裔で、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。
保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。
室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。
戦国時代になると、24代・直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。
幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。
こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。
境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、井伊家霊屋などの建物が立ち並び、国指定名勝の小堀遠州作「龍潭寺庭園」は、石組みを配した築山と心字池からなる池泉鑑賞式庭園となっています。
山門
井伊家発祥の地の石碑
庫裡
開山堂
井伊家のお籠
左甚五郎の龍の彫刻
井伊家霊屋
元祖・共保公、22代・直盛公、24代・直政公の木像が安置されています。
元祖・井伊共保公像
22代・井伊直盛公像
24代・井伊直政公像
井伊家24代。永禄4年2月9日井伊領内祝田で誕生。15歳の時浜松城で徳川家康公に仕え、関ケ原の戦いでの武勲により、彦根へ。彦根藩江戸時代三百年の基を築き、42歳、慶長7年2月1日逝去。龍潭寺に葬れました。
次は墓地と庭園です。
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井伊家は藤原鎌足の後裔で、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。
保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。
室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。
戦国時代になると、24代・直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。
幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。
こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。
境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、井伊家霊屋などの建物が立ち並び、国指定名勝の小堀遠州作「龍潭寺庭園」は、石組みを配した築山と心字池からなる池泉鑑賞式庭園となっています。
山門
井伊家発祥の地の石碑
庫裡
開山堂
井伊家のお籠
左甚五郎の龍の彫刻
井伊家霊屋
元祖・共保公、22代・直盛公、24代・直政公の木像が安置されています。
元祖・井伊共保公像
22代・井伊直盛公像
24代・井伊直政公像
井伊家24代。永禄4年2月9日井伊領内祝田で誕生。15歳の時浜松城で徳川家康公に仕え、関ケ原の戦いでの武勲により、彦根へ。彦根藩江戸時代三百年の基を築き、42歳、慶長7年2月1日逝去。龍潭寺に葬れました。
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早速訂正致しました。
浜松の龍潭寺には、観光バスで大勢の観光客が訪れます。
ぜひ来年にでもお越しください!
でもカーナビが使えないとなると不便でしょうね。
またお気づきの点がありましたら、ご指摘お願いします。
龍潭寺の創建が天平5年が天正5年となっていますので訂正をお願いします。
ありがとうございました。
ここは来年行く予定で検討中です。車で一人旅!カーナビがついにOutです!
カーナビ無しに初めての所へ行くのは大変時間がかかりますので,いずれにしても簡易ナビゲイションをも考えています。