奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。
井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。
井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・直弼を輩出した家として知られています。
遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「共保出生の井戸」です。

白壁の塀に囲まれているので、車に乗っていてもすぐにわかります。
共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた井伊氏の元祖です。共保は、藤原冬嗣6世孫で、遠江国主・藤原共資の子に当たりますが、この地には、次のような伝説が残されています。
井伊氏祖 共保公出生の井
この井戸は井伊家の始祖井伊共保公出生の井戸として往古から伝承されています。一條天皇の寛弘年間藤原鎌足十二代の子孫 備中守共資公が遠江介として村櫛へ下向、元旦 領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し当地方の宰主となり家紋をこの聖井を型取り、井桁に橘を以ってし、名門井伊氏の基を開いたと謂われます。
又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります。
(浜松市教育委員会)


碑文は、第39代当主・井伊直愛氏(井伊直弼の曾孫)の撰述。

共保公出生の井戸

周りはこんなのどかな風景です。

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井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。
井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・直弼を輩出した家として知られています。
遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「共保出生の井戸」です。

白壁の塀に囲まれているので、車に乗っていてもすぐにわかります。
共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた井伊氏の元祖です。共保は、藤原冬嗣6世孫で、遠江国主・藤原共資の子に当たりますが、この地には、次のような伝説が残されています。
井伊氏祖 共保公出生の井
この井戸は井伊家の始祖井伊共保公出生の井戸として往古から伝承されています。一條天皇の寛弘年間藤原鎌足十二代の子孫 備中守共資公が遠江介として村櫛へ下向、元旦 領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し当地方の宰主となり家紋をこの聖井を型取り、井桁に橘を以ってし、名門井伊氏の基を開いたと謂われます。
又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります。
(浜松市教育委員会)


碑文は、第39代当主・井伊直愛氏(井伊直弼の曾孫)の撰述。

共保公出生の井戸

周りはこんなのどかな風景です。

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当然、京都・滋賀県のロータリークラブの会員皆様を案内してジュネーブ大会とヨーロッパを旅しました。
ありがとうございました。
井伊直愛氏とお会いになったころがあるんですか!
どこで話が繋がるかわからないものですね。
続けて井伊氏の史跡の記事を掲載します。