寛永2年(1625年)、天海僧正により東叡山寛永寺が開山され、天海の命を受けた開基生順によって、東叡山寛永寺最初の子院として護国院が建立されました。
寛永7年(1630年)、天海により境内に一堂が建立され、古仏師春日の作といわれる釈迦、文珠、普賢の三尊像を安置、本尊としたことから釈迦堂と名づけられ、護国院は別当寺(管理寺院)となりました。
寛永16年(1639年)、釈迦堂で豊臣・徳川両軍の霊を弔う大念仏法要が執り行われ、徳川家光より藤原信実筆と伝えられる大黒天の画像が奉納されました。以来この像は護国院大黒天として信仰を集め、谷中七福神のひとつとして信仰されています。
寛永16年(1639年)、釈迦堂で豊臣・徳川両軍の霊を弔う大念仏法要が執り行われ、徳川家光より藤原信実筆と伝えられる大黒天の画像が奉納されました。以来この像は護国院大黒天として信仰を集め、谷中七福神のひとつとして信仰されています。
護国院は当初、寛永寺本坊裏手(現在の東京国立博物館北の寛永寺墓地の位置)にありましたが、徳川家霊廟建設のため幕府の命により移転。慶安4年(1651年)、4代将軍家綱の霊廟建立のため、北寄りに移築。さらに宝永6年(1709年)、5代将軍綱吉の霊廟建立にあたり清水門の傍ら(現在地)に。享保2年(1717年)に本堂(釈迦堂)は焼失し、同7年(1722年)に再建されました。
昭和2年(1927年)、東京市立二中(現在の上野高校)の創立にあたり境内地の大半を譲渡し、本堂を現在の位置に移動しました。
昭和2年(1927年)、東京市立二中(現在の上野高校)の創立にあたり境内地の大半を譲渡し、本堂を現在の位置に移動しました。
護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創した。承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)現在地に移った。延宝8年・宝永6年の移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の建立にともなうものである。また、昭和2年、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。 現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722)3月の再建。間口7間(18.2メートル)、奥行5間(13.6メートル)。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦三尊坐像を安置する。また、大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。 庫裡の一階部分は、昭和2年の新築。東京美術学校(現、東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、各間取りは機能的に配置されている。昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年国登録有形文化財に指定された。 岡田は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山市郎邸(大正13年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。(台東区教育委員会)
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