鞆の浦の太田家住宅は、元は福山藩の御用名酒屋を務めた保命酒の蔵元「中村家」の屋敷で、明治時代に太田家の所有となりました。瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物で、1991年に国の重要文化財指定を受けました。
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建物は、主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなり、見事に保存されています。
これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承されています。
1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。
「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛を極めました。
1863年8月23日、都落ちした尊王攘夷派の公卿・三条実美ら7人が、長州に下る途中、鞆の浦に寄港し、この太田家住宅(旧保命酒屋)の主屋と朝宗亭を宿泊所としました。
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中に入ると、案内の方が建物について説明をしてくれ、最後に三条実美が宿泊した部屋に案内されます。
本来は、館内の撮影はNGなのですが、
今回の旅の目的がまさにこの部屋を見るためだったこと、また各地の七卿落ちの史跡を訪ねてきたことを話すと、
特別に数枚のみ部屋の写真撮影の許可をいただきました。
三条実美らが宿泊した部屋
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公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。
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世にならす 鞆の港の竹の葉を かくて誉むるも めづらしの世や
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三条実美の歌で、保命酒を”竹の葉”と表現しています。激動の時代にあって、世に名高い保命酒を、ゆったりと味わえるこの時を、特別な思いで詠んだものと思われます。
尊王攘夷を唱える三条実美ら七卿は、1863(文久3)年8月18日の政変後、公武合体派によって長州藩とともに京都を追われ、8月22日午後4時頃、兵庫の港から長州に向けて出航します。実美の総督船を1番船とし、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、壬生基修(みぶもとのぶ)、四条隆謌(しじょうたかうた)、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)の2番船、東久世通禧(ひがしくせみちとみ)、沢宣嘉(さわのぶよし)の3番船など20数隻、総勢4百余人の大船団でした。
鞆ノ津には、23日午後8時頃錨をおろしました。「土方久元講話」には、「下船し上陸、すぐさま出航するよう催促するが、折から風雨穏やかならず、船頭どもは容易に承知しない。血気の士はやにわ刀を抜き船頭どもを脅迫した」とあり、その結果「同夜半、強風をおして出航した」と記されています。幕末の緊迫した空気が伝わってくるようです。その後、沢宣嘉は生野の変に加わり、錦小路頼徳は病死します。
五卿が再び鞆ノ津に立ち寄ったのは、京へ上る途中の翌1864(元治元)年7月18日でした。19日と20日には保命酒屋中村家(現大田家住宅)で憩い、20日の午後多度津へ向けて出航しました。実美らの保命酒賛歌は、この時詠まれたものと思われます。 ところが、21日に多度津へ入港するや、7月19日の蛤御門の変の悲報に接し、22日早朝に鞆ノ津へ集結、再度長州へ下ることになります。
こうした歴史的経過により、1940(昭和15)年2月23日に広島県史跡に指定されました。
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建物は、主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなり、見事に保存されています。
これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承されています。
1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。
「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛を極めました。
1863年8月23日、都落ちした尊王攘夷派の公卿・三条実美ら7人が、長州に下る途中、鞆の浦に寄港し、この太田家住宅(旧保命酒屋)の主屋と朝宗亭を宿泊所としました。
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中に入ると、案内の方が建物について説明をしてくれ、最後に三条実美が宿泊した部屋に案内されます。
本来は、館内の撮影はNGなのですが、
今回の旅の目的がまさにこの部屋を見るためだったこと、また各地の七卿落ちの史跡を訪ねてきたことを話すと、
特別に数枚のみ部屋の写真撮影の許可をいただきました。
三条実美らが宿泊した部屋
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公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。
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世にならす 鞆の港の竹の葉を かくて誉むるも めづらしの世や
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三条実美の歌で、保命酒を”竹の葉”と表現しています。激動の時代にあって、世に名高い保命酒を、ゆったりと味わえるこの時を、特別な思いで詠んだものと思われます。
尊王攘夷を唱える三条実美ら七卿は、1863(文久3)年8月18日の政変後、公武合体派によって長州藩とともに京都を追われ、8月22日午後4時頃、兵庫の港から長州に向けて出航します。実美の総督船を1番船とし、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、壬生基修(みぶもとのぶ)、四条隆謌(しじょうたかうた)、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)の2番船、東久世通禧(ひがしくせみちとみ)、沢宣嘉(さわのぶよし)の3番船など20数隻、総勢4百余人の大船団でした。
鞆ノ津には、23日午後8時頃錨をおろしました。「土方久元講話」には、「下船し上陸、すぐさま出航するよう催促するが、折から風雨穏やかならず、船頭どもは容易に承知しない。血気の士はやにわ刀を抜き船頭どもを脅迫した」とあり、その結果「同夜半、強風をおして出航した」と記されています。幕末の緊迫した空気が伝わってくるようです。その後、沢宣嘉は生野の変に加わり、錦小路頼徳は病死します。
五卿が再び鞆ノ津に立ち寄ったのは、京へ上る途中の翌1864(元治元)年7月18日でした。19日と20日には保命酒屋中村家(現大田家住宅)で憩い、20日の午後多度津へ向けて出航しました。実美らの保命酒賛歌は、この時詠まれたものと思われます。 ところが、21日に多度津へ入港するや、7月19日の蛤御門の変の悲報に接し、22日早朝に鞆ノ津へ集結、再度長州へ下ることになります。
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太田住宅は素晴らしいですね!
七卿が滞在した間を見られて満足です。