日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

瀬田城跡

2013-01-07 | 
瀬田城は、瀬田川東側に軍事上の目的で築城された城で、急がば回れ」の語源ともなったという瀬田川に架かる瀬田橋は、戦国時代は交通・軍事上の重要戦略拠点であり、その瀬田橋のたもとにあった瀬田城も重要な位置を占めていました。

瀬田の唐橋


瀬田城は、永享年間(1429~1441年)の山岡資広(すけひろ)から、代々山岡氏が城主を務め、山岡景隆は、瀬田橋を守る城主として織田信長からの信頼が厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていたといいます。

天正10年(1582年)本能寺の変で信長を討った明智光秀は、安土城を占拠するため、瀬田橋に軍を進めていました。架橋を任されていた山岡景隆は、瀬田橋を焼き落として明智軍を阻み、これにより明智光秀はいったん兵を引かざるを得なくなったそうです。
現在は、マンションの前にひっそりと城跡の石碑が立つのみです。









瀬田城跡

壬申の乱以来、源平の戦いなどで重要な地点として瀬田川畔に戦国時代に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房である。
織田信長の命によって、瀬田橋をかけた当時の城主山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と瀬田川で対戦したが力つき自ら城に火を放って甲賀へ引きあげそれ以来廃城となり、今はわずかに石垣を残すばかりである。その後膳所藩の別邸となり禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名づけた。
昭和四十九年 大津市教育委員会
(現地説明板より)

山岡 景隆

大永5年(1525年)、山岡景之の子として誕生。

山岡氏は勢多城を中心とする南近江国を領する豪族。景隆ははじめ六角氏および足利義輝に属していた。なお、浪人していた山内一豊を家臣として召し抱えたこともある。

永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し、近江南部の豪族の旗頭として抵抗した。しかし、永禄12年(1569年)には織田軍の攻撃を受けて大和国柳生氏の領内へ逃亡、一時は松永久秀に人質を差し出しこれに属したが(『柳生文書』)、後に信長に降伏し、その家臣となる。織田家では佐久間信盛隊に配属された。

景隆の信長に対する忠誠心は厚く、また信長も先祖が甲賀出身である景隆の家柄などを顧慮して、甲賀衆の指揮権を与えていたという。元亀4年(1573年)からの信長と足利義昭との戦いでは信長側に付き、槇島城攻めなどで戦功を挙げた。

天正3年(1575年)頃には、上洛の行き帰りに信長・信忠親子が度々、勢多に宿泊するなど、かなりの信用を受けていた様子である(『信長公記』)。天正5年(1577年)の雑賀攻め、天正9年(1581年)の伊賀攻めにも従軍した。

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が死去すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智軍の進軍路を妨害するなど抵抗し、山岡一族は山中へ逃走。羽柴秀吉方に逐一光秀軍の行動を報告し、このために明智軍は安土城に進軍するまでに手痛い被害を受け、また時間的余裕を失ったとまでいわれている。

その後は織田氏擁護の立場から柴田勝家に与して、台頭していた羽柴秀吉と敵対する。
しかし天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると秀吉に降伏。命は助けられたが弟の景佐と共に所領を没収され、以後は甲賀に隠遁した。

天正13年(1585年)正月14日に死去。享年60。墓所は京都市東山智恩寺の養源院。
(Wikipediaより)

この山岡氏が私の母方のご先祖様だということを知り、ブロガーさん仲間に同行していただき、この城跡に辿り着くことができました。その節はありがとうございました。
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鞭崎神社

2013-01-02 | 源頼朝
滋賀県草津市の鞭崎神社の創建は白鳳4年(676)、大中臣清麿が天武天皇の勅命により勧請したのが始まりと伝えられています。



当初は矢橋八幡宮と称していましたが建久元年(1190)、源頼朝が上洛の際、矢橋の浦から鞭にて神社の森を指し、村人に当社の事を尋ねた故事から鞭崎八幡宮と称するようになりました。



以来、頼朝は当社を深く崇敬し建久3年(1192)には社領を寄進し社殿を造営していました。







現在の表門は、元々、膳所城の南大手門として建てられたもので、明治4年(1871)に膳所城が廃城になった際、当社に移されました。





この表門は、高麗門、切妻、本瓦葺、江戸時代初期の城門建築の遺構として大変貴重な存在で、国指定重要文化財に指定されています。

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