イソップ寓話「アリとキリギリス」を考える。
<ウィキペディアから>
夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとするが、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」と断られる。
なお、それでは残酷だというので、アリが食べ物を恵み「私は、夏にせっせと働いていた時、あなたに笑われたアリですよ。あなたは遊び呆けて何のそなえもしなかったから、こうなったのです」とキリギリスに告げる話などに改変される場合もある。このように食べ物を分けてあげるという改変は古くからあるが、最も有名なものは1934年にシリー・シンフォニーシリーズの一つでウォルト・ディズニー制作の短編映画であり、アリが食べ物を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏するという結末になっている。
私が小さかった頃、日本はまさに“アリ”さん目指してまっしぐらに頑張っていた。
いわゆる高度成長期と呼ばれる時代で、まじめにみんなが突っ走っていた。
今は、ずいぶんと難しく、ややこしくなってしまった。
イソップ風にいえば、
キリギリスが冬になっても困らなくなった。
驚いたことに、夏、懸命に働いてきたアリに食べ物が足りなくなることが起こるようになった。
キリギリスは、困り果てるアリに「まあ、僕の歌でも聞いてよ」と自慢の歌を聴かせた。
アリはキリギリスの歌を聴きながら考えた。
「歌って遊んでいたほうが、冬を乗り越えられるのかな」
歌ったことのないアリの歌は幸せを呼ぶものではないだろう。
アリは歌うためにも努力しなければならない。
キリギリスに生まれつかなければ幸せは手に入らないのだろうか。
なぜ、まじめに働くアリが乗り越えられなくて、
歌って遊んでいるキリギリスが楽しく過ごせるのだろう。
アリは考えるだろう「自分はどうしてキリギリスに生まれなかったのか」
答えのない堂々巡りの話は、何の暗示も指標もありません。
就活に苦労する若い人のことを報道で見聞きする。
黒いスーツを着込んで歩きまわる姿がアリさんに見えてくる。
高度成長期の日本を肌で感じたものとして言えるのは、
若い人が「頑張れば、幸せに暮らせる」と感じられる社会が
ものがなくても、貧乏でも、いい社会ではないだろうか。
年長者は大事です。
それはなぜかというと、若い人に希望を持たせる役割を担っているからです。
戦争体験者の方に言わせれば、自分でなんとかしろということなんだろうが、
まじめに働いて、キリギリスの生活を手にしているアリがいることも確かだ。
でも考えなければならないのは、
年長者の、日本中がゼロいやマイナスから上を向いて頑張った時代と、
10、20、50、100とつみあがった上からスタートするのとでは、
状況がまるで違う。
今はどうやら、アリに生まれついたら、
歌をうまく歌えるように努力しならなければならないようだ。
では、努力しても歌えないアリはどうしたらよいのだろう…。
上の世代が下の世代にできることは、
足りないことをあげつらうことでも、非難することでも、
卑屈な態度でもなく、
若い世代が、自分を磨く、見つめる“ゆとり”を
社会のいろいろなことから身を盾にして、作ってあげる
そんなことなのかなと、
何百年も時間を過ごしてきた物語にしてみれば
こんな世の中もあっという間の流れでしかなく…。
それでも、ああでもない、こうでもないと考えています。