11月3日に実施予定の第19回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークの実行委員によるコース確認を行いました。写真と、参加者に配布予定の見所を交えてご紹介します。なお、この大会については目黒区報9月15日版にて募集の案内があります。
ロングコース・ショートコースに分かれてのコース確認でしたが、私が参加したロングコースをご紹介。
環状一号線
“東京都市計画道路幹線街路環状第1号線は、東京都千代田区丸の内から皇居外周を周り同地点に至る環状の都市計画道路である。皇居の西側部分は内堀通りと呼ばれている。
都市計画道路の環状線としては皇居を中心として最も内側に位置するが、さらに内側には都市計画道路として東京都市計画道路幹線街路放射第27号線と首都高速4号新宿線が、主要地方道として内堀通り(東京都道301号白山祝田田町線)が走っている。
出典:Wikipedia”
日比谷公園
“幕末までは松平肥前守などの大名屋敷地でしたが、明治時代に陸軍練兵場となりました。 その後「都市の公園」として計画、設計、造成し、日本初の近代的な洋風公園が誕生し、平成25年に開園110年を迎えました。 文化の先駆者として公園設計者の意気込みは、小音楽堂や第一花壇、イチョウ並木の園路などに見ることができます。 また、公会堂や大音楽堂も現在でも広く利用されています。
花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、ビジネス街に勤める人達のいこいの場になっています。
自由の鐘:昭和27(1952)年10月24日、日本新聞協会から寄贈されました。アメリカ独立宣言の際打ち鳴らされた自由の鐘の同寸大のレプリカです。自由の鐘修復募金委員会により改修され、平成23(2011)年10月1日から、毎日正午の時報を告げています。
出典:日比谷公園ウェッブサイト”
ヒマワリの小径からスタート
霞門近くのトイレ
集合場所は日比谷公園健康広場。こちらのトイレGoogleマップは休業中となっていますが、使用可能なようです。
市政会館
市政会館
“東京・日比谷公園内、日比谷通りと外堀通りが交差するそばに、高さ42mの時計塔が威容を誇る「日比谷公会堂・市政会館」がある。2つの名称を持つが、建物は1つ。公園側の日比谷公会堂、外堀通りに面した側の市政会館が一体になったユニークな造りだ。
垂直のラインを強調したデザインはネオ・ゴシック様式。外壁を覆うスクラッチタイルの茶色が重厚感を醸しながらも周囲の緑と穏やかに調和する。竣工は昭和4(1929)年10月。公会堂では戦前から数多くの政治演説会や大会が開かれ、また当時の東京で唯一のコンサートホールとして多くの演奏会が催行された。一方、市政会館には、つくられた当初から東京市政調査会(2012年度より「後藤・安田記念東京都市研究所」に名称変更)や地方自治体、公共性の高い団体の事務所、市政専門図書館が置かれている。
これは安田善次郎翁が、当時の東京市長であった後藤新平が提唱する都市計画に共感し、支援したことから生まれた建物だ。建築に要した費用350万円は善次郎翁の寄付による。公務員平均給与が50~60円の時代、大変な巨額である。
大正9(1920)年12月に市長に就任した後藤は「市政の科学的究明」を理念とし、近代国家日本の首都にふさわしい都市づくりをめざす中で、ニューヨーク市政調査会に範を求めた中立の調査機関と言論・文化の拠点となる多目的ホールの必要性を訴えていた。後藤の講演会を訪ねて以来、彼の考え方に深く共鳴していた善次郎翁は、自ら資金提供を申し出た。匿名で、というのが条件だったという。
しかし大正10(1921)年9月、翁は凶刃に遭って没する。書類箱の中にあった覚え書が発見され、その遺志は没後3年目に二代目善次郎によって実行に移された。後藤個人に350万円ならびに本所横網町の安田本邸不動産一切を寄付し、それをもって東京市政調査会館と東京市公会堂を後藤の責任下において建設するというものだった。
設計はコンペで一等になった佐藤功一による。早稲田大学工学部教授であり大隈講堂でも知られる建築家だ。着工は大正14(1925)年。
関東大震災の教訓から耐震性・耐火性は初期の計画以上に強化された。一帯は地盤が軟弱なため基礎部の底には約18mの松の杭を2200本も打ち込み、鉄筋で組んだ基礎にコンクリートを流しこんであるという。その効果は大きく、建物は現在も地盤沈下の影響はほとんどない。
出典:安田不動産株式会社”
THE BLOSSOM HIBIYA
日比谷公園を出て日比谷通りを南へ進みます。こちらはJRグループのホテルだそうです。
虎ノ門ヒルズ
環状二号線沿いのビル
環状二号線
“東京都市計画道路幹線街路環状第2号線は、東京都江東区有明2丁目から港区新橋、新宿区四谷を経由し千代田区神田佐久間町1丁目に至る都市計画道路である。
江東区有明2丁目から築地5丁目までの区間、港区新橋4丁目から虎ノ門2丁目までの地下トンネル区間、新橋4丁目から虎ノ門1丁目までの地上街路(愛称:新虎通り)区間、虎ノ門2丁目の特許庁前から終点の千代田区神田佐久間町1丁目までの外堀通りが供用中である。ただしこのうち中央区晴海5丁目から築地5丁目までの区間は暫定開通区間である。また中央区築地から港区新橋までの区間が事業中である。中央区築地から虎ノ門までの地下トンネルの名称は「築地虎ノ門トンネル」である。2014年4月1日、築地虎ノ門トンネルを含む有明-虎ノ門間の通称が「環二通り」と定められた。
出典:Wikipedia”
虎ノ門ヒルズ
“虎ノ門ヒルズの中核となる森タワーはその区間の西端部分に建設され、1階を道路が貫通する構造になっている地上52階・地下5階建てで高さ247mの超高層ビルである。
出典:Wikipedia”
愛宕神社出世の石段
“愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。
その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。
なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、
「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」
と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。
出典:愛宕神社”
環状二号線を西へ進み、愛宕通りへ左折し愛宕神社前を通過。
虎ノ門三丁目の公衆トイレ
愛宕山のトンネルを抜けてすぐトイレがあります。コースは桜田通りに出て南へ。
虎ノ門・麻布台プロジェクト
“虎ノ門・麻布台プロジェクトは、東京都港区虎ノ門五丁目、麻布台一丁目、六本木三丁目に跨る大規模な再開発計画である。区域面積は約8.1 ha 、敷地面積は約63,900 m2 、延床面積は約861,500 m2。デベロッパーは森ビル。
同じく森ビルが主導した六本木ヒルズと似通い、地権が非常に複雑で着工までに長い年月を費やした。1989年(平成元年)に「街づくり協議会」を設立し、2017年(平成29年)に都市計画決定され、2019年(令和元年)8月5日に着工した。
プロジェクトはA街区、B-1街区、B-2街区、C街区に分けられている。A街区のメインタワーの高さは325.19 m(地上64階、地下5階)で、オフィスのほか、住宅、医療施設、商業施設、インターナショナル・スクールも併設される。B-1街区とB-2街区は住宅主体の高層ビルで、西棟のB-1街区の高さは262.83 m 、東棟のB-2街区の高さは237.20 m となる。C街区には3~8階建ての建物4棟を建設する。また、A街区とC街区に面積約6,000 m2 の中央広場を設置する。
出典:Wikipedia”
六本木通りにかかる歩道橋
この先アークヒルズにトイレがありますが、建物の中で難しいかな。
檜町公園
檜町公園
“当地は江戸時代は長州藩・松平大膳大夫(毛利家)の下屋敷があったところで庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていた。また周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名の由来にもなった(公園の名もこれに由来する)。
明治時代になり毛利家の屋敷一帯は国の管轄に移り、第1師団歩兵第1連隊の駐屯地となった。第二次大戦後の一時期に米軍の接収を受け、その後敷地の大部分に防衛庁が設置される。残りの部分が檜町公園として整備され1963年に都立公園として開園。1968年に港区に管轄が移された。かつてはデモの集会などにも使われた。当公園は池を中心に遊具などが整った公園であったが、2000年に隣接する防衛庁(現:防衛省)が市谷に転出。その跡地に2007年に東京ミッドタウンが開発されたのを受け、当公園も再整備され景観が大きく変わった。隣のミッドタウン・ガーデン(東京ミッドタウンに付属している芝生広場)との調和が取れた開放的な造りとなった。
出典:Wikipedia”
東京ミッドタウン
環状三号線
【協会メモ】東京ミッドタウンから国立新美術館へ向かう途中横断するのが都道319号通称外苑東通りが環状三号線です。また国立新美術館西門から出た通りは外苑東通りと呼ばれる環状三号線のバイパスです。
国立新美術館
“文化庁国立新美術館設立準備室と独立行政法人国立美術館が主体となって東京大学生産技術研究所跡地に建設された美術館である。
国立の美術館としては1977年(昭和52年)に開館した国立国際美術館以来、30年ぶりに新設された。
地下1階、地上4階、敷地面積30,000平方メートル、延床面積約49,830平方メートルは日本最大で、これまで最大とされていた大塚国際美術館の約1.5倍に及ぶ。
独立行政法人国立美術館に所属している中で唯一コレクションを持たない為、英語名は収蔵品を持つのが通常であるミュージーアムではなくアートセンターを用い、「ナショナルアートセンター・トウキョウ THE NATIONAL ART CENTER-TOKYO」を名乗っている。
コンセプトを「森の中の美術館」としており、設立目的を展覧会の開催・情報収集およびその公開・教育普及としている。また、館内にはミュージアムショップ・レストラン・カフェなどが併設されている。
黒川紀章設計の美術館としては最後のものとなった。
出典:Wikipedia”
西麻布交差点
環状四号線
【協会メモ】西麻布交差点で六本木通りと交差する外苑西通りが環状四号線です。西麻布交差点で六本木通りが大きな谷になっているのは、外苑西通りがかつての笄川の谷筋に作られているため。笄川は天現寺で渋谷川と合流していました。この合流点を境に渋谷川下流は古川と名称を変えるます。
祭礼が行われているようです。目黒区内では神輿渡御を中止する話をよく聞きますが、ここは神輿が出るのかな?飾っているだけ?
六本木通りをちょっとだけ西へ行って左折し、牛坂の上に出ます。
牛坂
“牛坂の坂下の小さな十字路付近には、かつて笄川(こうがいがわ)が流れ、橋梁「笄橋(こうがいばし)」があった。坂下の川は竜川(広尾川)とも呼ばれた。牛坂は源経基や白金長者の伝説もあるこの笄橋に下る古道で、牛車が往来したことからこの名が付いたと考えられている。また「牛坂」は略称であり、本来の名称「牛鳴坂」は、坂が険しく悪路であったために、荷牛が難渋していたことを現しているとも言われる。
出典:Wikipedia”
日赤通りへ
日本赤十字社医療センター(日赤医療センター)の前身である日本赤十字社病院が現在地に移転開院したのは1891年(明治24年)のことで、病院前には全長数百メートルに及ぶ煉瓦(赤れんが)塀が設置された。また、バス停留所の前には推定樹齢500年、周囲が4.7メートル以上で区内最大となる大銀杏があり、渋谷区の天然記念物に指定された。
1949年(昭和24年)以降、皇后が名誉総裁に就任されていることでも知られる。
出典:Wikipedia”
聖心女子大学
“開校は1916年である。私立聖心女子学院高等専門学校を前身とし、1948年、新学制により聖心女子大学として発足した。日本最初の女子大学の一つで、初代学長はエリザベス・ブリッドである。
1800年、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とし、世界42カ国に170校の姉妹校を持つ。現在の聖心会総本部はイタリア・ローマにある。広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。
同大学のキャンパスはもとの久邇宮邸であり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごした地、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されている。上皇后美智子の出身大学でもある。
江戸時代には、幕末の安政の五カ国条約締結時など重要な時期に、幕府の老中首座を務めた下総佐倉藩主、堀田正睦を出した堀田家の下屋敷だった。日本赤十字医療センター、日本赤十字看護大学、広尾ガーデンヒルズの敷地に跨っていた、今でも西麻布方面からの上り坂を堀田坂と称するなど、名残がある。
出典:Wikipedia”
明治通りを横断し、新橋で渋谷川を越えます。
明治通り(環状五号線)
“1923年(大正12年)の関東大震災後の復興のため、1927年(昭和2年)の都市計画に基づき、東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備された。明治通りの山の手を走る区間のうち、渋谷駅付近から現在の神宮前交差点(渋谷区神宮前)に至る部分は、渋谷川に沿う古道を整備するかたちで1928年(昭和3年)に完成、また、神宮前交差点から新宿に至る部分の完成は1930年(昭和5年)であった。東京の環状道路として最初に整備された明治通り(環状5号線)は、都市計画に基づく道路整備中に太平洋戦争が始まったため、整備が一時棚上げ状態となったが、終戦後は復興のため区画整備と一体となって再開された。
出典:Wikipedia”
ビール坂商店会をのぼりサッポロビール本社前からくすの木通りへ。
恵比寿ガーデンプレイス
“1887年(明治20年)9月6日、日本麦酒醸造(のちの日本麦酒→サッポロビール、現:サッポロホールディングス)が目黒村三田(現在の目黒区)および渋谷村(現在の渋谷区)にまたがる場所に創設した工場で「ヱビスビール」の製造を開始。ビールを運び出すために場内に敷かれた引込線の日本鉄道の小さな貨物駅は「恵比寿荷扱停車場」から「恵比寿駅」となり、周辺の地名も「恵比寿」となった。
1987年(昭和62年)、都は「恵比寿地区整備計画素案」を発表し、それに則りサッポロビールでは、「恵比寿工場跡地再開発計画 - 水と緑と山の手情報文化都市構想」を明らかにし、開発を自社の手で行い、本社も銀座からこの地へ移す決定がなされ、翌年、恵比寿工場は千葉県船橋市の京葉食品コンビナートに移転。千葉工場として操業を始める。同年、「恵比寿地区整備計画素案」は「特定住宅市街地綜合整備促進事業(特住総)」として建設大臣の承認を受け、工場跡地はその「主要な街区」に位置づけられ、住戸約1000戸を含む複合都市として開発を進めることになった。
出典:Wikipedia”
アメリカ橋(恵比寿南橋)で山手線を越え、茶屋坂へ。
茶屋坂
“江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋があった。徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。あるとき、家光は「いつもお前の世話になっている。何か欲しいものがあったら取らせるからいってみよ」との仰せ。彦四郎は恐縮しながら、自分の屋敷の周囲を1町ほど拝領したいむね申して、これをいただいた。
そのほか、鷹狩りの折り、団子150串、田楽100串というような注文が出ていること、その代金が支払われていることなどが記録として残されている。
やがて、今日のマンション時代を迎えることになるが、そうなると、このあたりは高台で展望がきくうえ目黒というイメージがマンションにぴったり合って、高層建物が建ち並ぶようになり、まちの景観を変えてしまった。
昔から湧いていた清水も、マンション建設のつち音が響き始めると、水脈が変わってか、パッタリ止まってしまったという。将軍も食べたという目黒のさんま。今では秋に催される「目黒のさんま」祭りで、その味を楽しむことができる。
出典:月刊めぐろ”
ゴールは恒例の田道広場公園、約10キロのコースでした。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
ロングコース・ショートコースに分かれてのコース確認でしたが、私が参加したロングコースをご紹介。
環状一号線
“東京都市計画道路幹線街路環状第1号線は、東京都千代田区丸の内から皇居外周を周り同地点に至る環状の都市計画道路である。皇居の西側部分は内堀通りと呼ばれている。
都市計画道路の環状線としては皇居を中心として最も内側に位置するが、さらに内側には都市計画道路として東京都市計画道路幹線街路放射第27号線と首都高速4号新宿線が、主要地方道として内堀通り(東京都道301号白山祝田田町線)が走っている。
出典:Wikipedia”
日比谷公園
“幕末までは松平肥前守などの大名屋敷地でしたが、明治時代に陸軍練兵場となりました。 その後「都市の公園」として計画、設計、造成し、日本初の近代的な洋風公園が誕生し、平成25年に開園110年を迎えました。 文化の先駆者として公園設計者の意気込みは、小音楽堂や第一花壇、イチョウ並木の園路などに見ることができます。 また、公会堂や大音楽堂も現在でも広く利用されています。
花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、ビジネス街に勤める人達のいこいの場になっています。
自由の鐘:昭和27(1952)年10月24日、日本新聞協会から寄贈されました。アメリカ独立宣言の際打ち鳴らされた自由の鐘の同寸大のレプリカです。自由の鐘修復募金委員会により改修され、平成23(2011)年10月1日から、毎日正午の時報を告げています。
出典:日比谷公園ウェッブサイト”
ヒマワリの小径からスタート
霞門近くのトイレ
集合場所は日比谷公園健康広場。こちらのトイレGoogleマップは休業中となっていますが、使用可能なようです。
市政会館
市政会館
“東京・日比谷公園内、日比谷通りと外堀通りが交差するそばに、高さ42mの時計塔が威容を誇る「日比谷公会堂・市政会館」がある。2つの名称を持つが、建物は1つ。公園側の日比谷公会堂、外堀通りに面した側の市政会館が一体になったユニークな造りだ。
垂直のラインを強調したデザインはネオ・ゴシック様式。外壁を覆うスクラッチタイルの茶色が重厚感を醸しながらも周囲の緑と穏やかに調和する。竣工は昭和4(1929)年10月。公会堂では戦前から数多くの政治演説会や大会が開かれ、また当時の東京で唯一のコンサートホールとして多くの演奏会が催行された。一方、市政会館には、つくられた当初から東京市政調査会(2012年度より「後藤・安田記念東京都市研究所」に名称変更)や地方自治体、公共性の高い団体の事務所、市政専門図書館が置かれている。
これは安田善次郎翁が、当時の東京市長であった後藤新平が提唱する都市計画に共感し、支援したことから生まれた建物だ。建築に要した費用350万円は善次郎翁の寄付による。公務員平均給与が50~60円の時代、大変な巨額である。
大正9(1920)年12月に市長に就任した後藤は「市政の科学的究明」を理念とし、近代国家日本の首都にふさわしい都市づくりをめざす中で、ニューヨーク市政調査会に範を求めた中立の調査機関と言論・文化の拠点となる多目的ホールの必要性を訴えていた。後藤の講演会を訪ねて以来、彼の考え方に深く共鳴していた善次郎翁は、自ら資金提供を申し出た。匿名で、というのが条件だったという。
しかし大正10(1921)年9月、翁は凶刃に遭って没する。書類箱の中にあった覚え書が発見され、その遺志は没後3年目に二代目善次郎によって実行に移された。後藤個人に350万円ならびに本所横網町の安田本邸不動産一切を寄付し、それをもって東京市政調査会館と東京市公会堂を後藤の責任下において建設するというものだった。
設計はコンペで一等になった佐藤功一による。早稲田大学工学部教授であり大隈講堂でも知られる建築家だ。着工は大正14(1925)年。
関東大震災の教訓から耐震性・耐火性は初期の計画以上に強化された。一帯は地盤が軟弱なため基礎部の底には約18mの松の杭を2200本も打ち込み、鉄筋で組んだ基礎にコンクリートを流しこんであるという。その効果は大きく、建物は現在も地盤沈下の影響はほとんどない。
出典:安田不動産株式会社”
THE BLOSSOM HIBIYA
日比谷公園を出て日比谷通りを南へ進みます。こちらはJRグループのホテルだそうです。
虎ノ門ヒルズ
環状二号線沿いのビル
環状二号線
“東京都市計画道路幹線街路環状第2号線は、東京都江東区有明2丁目から港区新橋、新宿区四谷を経由し千代田区神田佐久間町1丁目に至る都市計画道路である。
江東区有明2丁目から築地5丁目までの区間、港区新橋4丁目から虎ノ門2丁目までの地下トンネル区間、新橋4丁目から虎ノ門1丁目までの地上街路(愛称:新虎通り)区間、虎ノ門2丁目の特許庁前から終点の千代田区神田佐久間町1丁目までの外堀通りが供用中である。ただしこのうち中央区晴海5丁目から築地5丁目までの区間は暫定開通区間である。また中央区築地から港区新橋までの区間が事業中である。中央区築地から虎ノ門までの地下トンネルの名称は「築地虎ノ門トンネル」である。2014年4月1日、築地虎ノ門トンネルを含む有明-虎ノ門間の通称が「環二通り」と定められた。
出典:Wikipedia”
虎ノ門ヒルズ
“虎ノ門ヒルズの中核となる森タワーはその区間の西端部分に建設され、1階を道路が貫通する構造になっている地上52階・地下5階建てで高さ247mの超高層ビルである。
出典:Wikipedia”
愛宕神社出世の石段
“愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。
その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。
なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、
「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」
と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。
出典:愛宕神社”
環状二号線を西へ進み、愛宕通りへ左折し愛宕神社前を通過。
虎ノ門三丁目の公衆トイレ
愛宕山のトンネルを抜けてすぐトイレがあります。コースは桜田通りに出て南へ。
虎ノ門・麻布台プロジェクト
“虎ノ門・麻布台プロジェクトは、東京都港区虎ノ門五丁目、麻布台一丁目、六本木三丁目に跨る大規模な再開発計画である。区域面積は約8.1 ha 、敷地面積は約63,900 m2 、延床面積は約861,500 m2。デベロッパーは森ビル。
同じく森ビルが主導した六本木ヒルズと似通い、地権が非常に複雑で着工までに長い年月を費やした。1989年(平成元年)に「街づくり協議会」を設立し、2017年(平成29年)に都市計画決定され、2019年(令和元年)8月5日に着工した。
プロジェクトはA街区、B-1街区、B-2街区、C街区に分けられている。A街区のメインタワーの高さは325.19 m(地上64階、地下5階)で、オフィスのほか、住宅、医療施設、商業施設、インターナショナル・スクールも併設される。B-1街区とB-2街区は住宅主体の高層ビルで、西棟のB-1街区の高さは262.83 m 、東棟のB-2街区の高さは237.20 m となる。C街区には3~8階建ての建物4棟を建設する。また、A街区とC街区に面積約6,000 m2 の中央広場を設置する。
出典:Wikipedia”
六本木通りにかかる歩道橋
この先アークヒルズにトイレがありますが、建物の中で難しいかな。
檜町公園
檜町公園
“当地は江戸時代は長州藩・松平大膳大夫(毛利家)の下屋敷があったところで庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていた。また周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名の由来にもなった(公園の名もこれに由来する)。
明治時代になり毛利家の屋敷一帯は国の管轄に移り、第1師団歩兵第1連隊の駐屯地となった。第二次大戦後の一時期に米軍の接収を受け、その後敷地の大部分に防衛庁が設置される。残りの部分が檜町公園として整備され1963年に都立公園として開園。1968年に港区に管轄が移された。かつてはデモの集会などにも使われた。当公園は池を中心に遊具などが整った公園であったが、2000年に隣接する防衛庁(現:防衛省)が市谷に転出。その跡地に2007年に東京ミッドタウンが開発されたのを受け、当公園も再整備され景観が大きく変わった。隣のミッドタウン・ガーデン(東京ミッドタウンに付属している芝生広場)との調和が取れた開放的な造りとなった。
出典:Wikipedia”
東京ミッドタウン
環状三号線
【協会メモ】東京ミッドタウンから国立新美術館へ向かう途中横断するのが都道319号通称外苑東通りが環状三号線です。また国立新美術館西門から出た通りは外苑東通りと呼ばれる環状三号線のバイパスです。
国立新美術館
“文化庁国立新美術館設立準備室と独立行政法人国立美術館が主体となって東京大学生産技術研究所跡地に建設された美術館である。
国立の美術館としては1977年(昭和52年)に開館した国立国際美術館以来、30年ぶりに新設された。
地下1階、地上4階、敷地面積30,000平方メートル、延床面積約49,830平方メートルは日本最大で、これまで最大とされていた大塚国際美術館の約1.5倍に及ぶ。
独立行政法人国立美術館に所属している中で唯一コレクションを持たない為、英語名は収蔵品を持つのが通常であるミュージーアムではなくアートセンターを用い、「ナショナルアートセンター・トウキョウ THE NATIONAL ART CENTER-TOKYO」を名乗っている。
コンセプトを「森の中の美術館」としており、設立目的を展覧会の開催・情報収集およびその公開・教育普及としている。また、館内にはミュージアムショップ・レストラン・カフェなどが併設されている。
黒川紀章設計の美術館としては最後のものとなった。
出典:Wikipedia”
西麻布交差点
環状四号線
【協会メモ】西麻布交差点で六本木通りと交差する外苑西通りが環状四号線です。西麻布交差点で六本木通りが大きな谷になっているのは、外苑西通りがかつての笄川の谷筋に作られているため。笄川は天現寺で渋谷川と合流していました。この合流点を境に渋谷川下流は古川と名称を変えるます。
祭礼が行われているようです。目黒区内では神輿渡御を中止する話をよく聞きますが、ここは神輿が出るのかな?飾っているだけ?
六本木通りをちょっとだけ西へ行って左折し、牛坂の上に出ます。
牛坂
“牛坂の坂下の小さな十字路付近には、かつて笄川(こうがいがわ)が流れ、橋梁「笄橋(こうがいばし)」があった。坂下の川は竜川(広尾川)とも呼ばれた。牛坂は源経基や白金長者の伝説もあるこの笄橋に下る古道で、牛車が往来したことからこの名が付いたと考えられている。また「牛坂」は略称であり、本来の名称「牛鳴坂」は、坂が険しく悪路であったために、荷牛が難渋していたことを現しているとも言われる。
出典:Wikipedia”
日赤通りへ
日本赤十字社医療センター(日赤医療センター)の前身である日本赤十字社病院が現在地に移転開院したのは1891年(明治24年)のことで、病院前には全長数百メートルに及ぶ煉瓦(赤れんが)塀が設置された。また、バス停留所の前には推定樹齢500年、周囲が4.7メートル以上で区内最大となる大銀杏があり、渋谷区の天然記念物に指定された。
1949年(昭和24年)以降、皇后が名誉総裁に就任されていることでも知られる。
出典:Wikipedia”
聖心女子大学
“開校は1916年である。私立聖心女子学院高等専門学校を前身とし、1948年、新学制により聖心女子大学として発足した。日本最初の女子大学の一つで、初代学長はエリザベス・ブリッドである。
1800年、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とし、世界42カ国に170校の姉妹校を持つ。現在の聖心会総本部はイタリア・ローマにある。広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。
同大学のキャンパスはもとの久邇宮邸であり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごした地、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されている。上皇后美智子の出身大学でもある。
江戸時代には、幕末の安政の五カ国条約締結時など重要な時期に、幕府の老中首座を務めた下総佐倉藩主、堀田正睦を出した堀田家の下屋敷だった。日本赤十字医療センター、日本赤十字看護大学、広尾ガーデンヒルズの敷地に跨っていた、今でも西麻布方面からの上り坂を堀田坂と称するなど、名残がある。
出典:Wikipedia”
明治通りを横断し、新橋で渋谷川を越えます。
明治通り(環状五号線)
“1923年(大正12年)の関東大震災後の復興のため、1927年(昭和2年)の都市計画に基づき、東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備された。明治通りの山の手を走る区間のうち、渋谷駅付近から現在の神宮前交差点(渋谷区神宮前)に至る部分は、渋谷川に沿う古道を整備するかたちで1928年(昭和3年)に完成、また、神宮前交差点から新宿に至る部分の完成は1930年(昭和5年)であった。東京の環状道路として最初に整備された明治通り(環状5号線)は、都市計画に基づく道路整備中に太平洋戦争が始まったため、整備が一時棚上げ状態となったが、終戦後は復興のため区画整備と一体となって再開された。
出典:Wikipedia”
ビール坂商店会をのぼりサッポロビール本社前からくすの木通りへ。
恵比寿ガーデンプレイス
“1887年(明治20年)9月6日、日本麦酒醸造(のちの日本麦酒→サッポロビール、現:サッポロホールディングス)が目黒村三田(現在の目黒区)および渋谷村(現在の渋谷区)にまたがる場所に創設した工場で「ヱビスビール」の製造を開始。ビールを運び出すために場内に敷かれた引込線の日本鉄道の小さな貨物駅は「恵比寿荷扱停車場」から「恵比寿駅」となり、周辺の地名も「恵比寿」となった。
1987年(昭和62年)、都は「恵比寿地区整備計画素案」を発表し、それに則りサッポロビールでは、「恵比寿工場跡地再開発計画 - 水と緑と山の手情報文化都市構想」を明らかにし、開発を自社の手で行い、本社も銀座からこの地へ移す決定がなされ、翌年、恵比寿工場は千葉県船橋市の京葉食品コンビナートに移転。千葉工場として操業を始める。同年、「恵比寿地区整備計画素案」は「特定住宅市街地綜合整備促進事業(特住総)」として建設大臣の承認を受け、工場跡地はその「主要な街区」に位置づけられ、住戸約1000戸を含む複合都市として開発を進めることになった。
出典:Wikipedia”
アメリカ橋(恵比寿南橋)で山手線を越え、茶屋坂へ。
茶屋坂
“江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋があった。徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。あるとき、家光は「いつもお前の世話になっている。何か欲しいものがあったら取らせるからいってみよ」との仰せ。彦四郎は恐縮しながら、自分の屋敷の周囲を1町ほど拝領したいむね申して、これをいただいた。
そのほか、鷹狩りの折り、団子150串、田楽100串というような注文が出ていること、その代金が支払われていることなどが記録として残されている。
やがて、今日のマンション時代を迎えることになるが、そうなると、このあたりは高台で展望がきくうえ目黒というイメージがマンションにぴったり合って、高層建物が建ち並ぶようになり、まちの景観を変えてしまった。
昔から湧いていた清水も、マンション建設のつち音が響き始めると、水脈が変わってか、パッタリ止まってしまったという。将軍も食べたという目黒のさんま。今では秋に催される「目黒のさんま」祭りで、その味を楽しむことができる。
出典:月刊めぐろ”
ゴールは恒例の田道広場公園、約10キロのコースでした。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます