距離が比較的短い盛夏バージョンが終わり通常モードですが、リハビリを兼ねて今回はちょっと距離短めです。曇っていれば涼しいけれど、日差しがあるとまだ残暑といった日でした。
上目黒氷川神社
階段下の石碑群
神社の階段
上目黒村の鎮守は国道246号玉川通りに面して、大山道の道標がかつてこの道が大山阿夫利神社へ向かう道だったことを表しています。別の石碑をよく見ると「武刕荏原郡古菅刈庄目黒郷」とあります。目黒区のページから引用しましょう。
目黒の地名 菅刈(すげかり)
更新日:2014年2月3日
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。
「刕」という字を始めて見ましたが、「州」の旧字体で「しゅう」と読むとのこと。
神社の急な階段は1905年玉川通りの拡幅でこのようになりました。
上目黒氷川神社
玉電
目黒区みどりの散歩道-西郷山・目黒川コース
玉電-人気を呼んだ路面電車
向こうに見える国道246号。20数年前までこの道を玉電が走っていました。玉電の愛称で親しまれた路面電車が最初に走ったのは明治40年。この年5月、玉川電気鉄道により道玄坂上~三軒茶屋間が開通。夏には玉川~渋谷間が一本につながった。玉電は多摩川の砂利を東京に運ぶ目的で敷設された砂利運搬線だが、ゲタ履きで気軽に乗れるため一般の利用客も多かった。昭和13年東京横浜電鉄が買収、同電鉄の玉川線として再出発したが、車時代の到来で同44年5月お役ご免に。今は三軒茶屋~下高井戸間を結ぶ世田谷線が残されているだけだ。
目黒川開渠の始まり
目黒川を渡り東山貝塚を訪れましたが写真がありません。すこやか歩こう会の活動は久しぶりの大人数で20名を超えていて、人が入らない写真を撮るのが難しかったのです。
竪穴式住居の柱の場所
竪穴式住居跡
東山貝塚公園に竪穴式住居が再現され縄文人が住んでいますが、実際に住居があったのは坂を上った東山街かど公園内です。公園課の方、この植木をどかしてください。
ヤマブキ
オミナエシ
寿福寺
綱差し 川井権兵衛さんのお墓
公務員住宅内を通り寿福寺へ。墓地にある権兵衛さんのお墓で説明します。「綱差し」とは、徳川将軍家の鷹場を管理する役人で駒場のお鷹場を管理した川井家の当主は代々川井権兵衛を名乗りました。
宿山の庚申塔群
ゴルフ練習場脇の道
小川坂へは行かず、細い道を通り蛇崩川へ向かいます。
草に埋もれたベンチ
ススキ
芦毛塚
蛇崩川緑道をさかのぼり、途中源頼朝の芦毛を埋めたと言われる芦毛塚に寄りました。やぶ蚊の餌食になりそうで、この草の中に分け入ってゆく勇気はありません。
謎の航空機
旅客機ではないジェット機が何度も上空を旋回していました。なんだこの飛行機は?
蛇崩川緑道
駒繋神社
ガレージ310跡地
引き続き蛇崩川緑道をさかのぼり、駒繋神社へ。近くに駒繋小学校があるのですがこの学校の小学生は「繋」の字を恨んだだろうと思います。中学校は駒留中学校ですが、環七に架かる駒留橋からはずいぶん遠い。
世田谷観音
感染症対策で入場制限をしていたので、久しぶりに訪れることが出来ました。
学芸大学付属中高の長い壁
野沢龍雲寺の少し色づいた紅葉
さらに環七方面に南下して龍雲寺へ。
アサガオ
中丸園
碑文谷体育館を目指し東へ方向を変えます。野沢には造園業が多く、立派な槇があるお宅など見ているだけで楽しい道です。
碑文谷体育館で場所をお借りしてストレッチをして解散となりました。残暑の日もありますが、ウォーキングに適した日も徐々に増えてきます。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
上目黒氷川神社
階段下の石碑群
神社の階段
上目黒村の鎮守は国道246号玉川通りに面して、大山道の道標がかつてこの道が大山阿夫利神社へ向かう道だったことを表しています。別の石碑をよく見ると「武刕荏原郡古菅刈庄目黒郷」とあります。目黒区のページから引用しましょう。
目黒の地名 菅刈(すげかり)
更新日:2014年2月3日
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。
「刕」という字を始めて見ましたが、「州」の旧字体で「しゅう」と読むとのこと。
神社の急な階段は1905年玉川通りの拡幅でこのようになりました。
上目黒氷川神社
玉電
目黒区みどりの散歩道-西郷山・目黒川コース
玉電-人気を呼んだ路面電車
向こうに見える国道246号。20数年前までこの道を玉電が走っていました。玉電の愛称で親しまれた路面電車が最初に走ったのは明治40年。この年5月、玉川電気鉄道により道玄坂上~三軒茶屋間が開通。夏には玉川~渋谷間が一本につながった。玉電は多摩川の砂利を東京に運ぶ目的で敷設された砂利運搬線だが、ゲタ履きで気軽に乗れるため一般の利用客も多かった。昭和13年東京横浜電鉄が買収、同電鉄の玉川線として再出発したが、車時代の到来で同44年5月お役ご免に。今は三軒茶屋~下高井戸間を結ぶ世田谷線が残されているだけだ。
目黒川開渠の始まり
目黒川を渡り東山貝塚を訪れましたが写真がありません。すこやか歩こう会の活動は久しぶりの大人数で20名を超えていて、人が入らない写真を撮るのが難しかったのです。
竪穴式住居の柱の場所
竪穴式住居跡
東山貝塚公園に竪穴式住居が再現され縄文人が住んでいますが、実際に住居があったのは坂を上った東山街かど公園内です。公園課の方、この植木をどかしてください。
ヤマブキ
オミナエシ
寿福寺
綱差し 川井権兵衛さんのお墓
公務員住宅内を通り寿福寺へ。墓地にある権兵衛さんのお墓で説明します。「綱差し」とは、徳川将軍家の鷹場を管理する役人で駒場のお鷹場を管理した川井家の当主は代々川井権兵衛を名乗りました。
宿山の庚申塔群
ゴルフ練習場脇の道
小川坂へは行かず、細い道を通り蛇崩川へ向かいます。
草に埋もれたベンチ
ススキ
芦毛塚
蛇崩川緑道をさかのぼり、途中源頼朝の芦毛を埋めたと言われる芦毛塚に寄りました。やぶ蚊の餌食になりそうで、この草の中に分け入ってゆく勇気はありません。
謎の航空機
旅客機ではないジェット機が何度も上空を旋回していました。なんだこの飛行機は?
蛇崩川緑道
駒繋神社
ガレージ310跡地
引き続き蛇崩川緑道をさかのぼり、駒繋神社へ。近くに駒繋小学校があるのですがこの学校の小学生は「繋」の字を恨んだだろうと思います。中学校は駒留中学校ですが、環七に架かる駒留橋からはずいぶん遠い。
世田谷観音
感染症対策で入場制限をしていたので、久しぶりに訪れることが出来ました。
学芸大学付属中高の長い壁
野沢龍雲寺の少し色づいた紅葉
さらに環七方面に南下して龍雲寺へ。
アサガオ
中丸園
碑文谷体育館を目指し東へ方向を変えます。野沢には造園業が多く、立派な槇があるお宅など見ているだけで楽しい道です。
碑文谷体育館で場所をお借りしてストレッチをして解散となりました。残暑の日もありますが、ウォーキングに適した日も徐々に増えてきます。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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