目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

古代の歴史、武蔵国府・国分寺コース 約6.9km

2024-05-03 14:52:37 | 東京都府中市、国分寺市
このコースを歩くのは二回目になり、前回は2018年3月でした。武蔵国府とは府中。府中と目黒区は深いつながりがあることを会員に知ってもらうため、このコースに再登場してもらいました。すこやか歩こう会の拠点となる目黒区北部は江戸時代江戸ではありません。武蔵の国荏原郡上目黒村であり、府中は江戸時代の県庁所在地のようなものです。明治時代、下目黒に競馬場が作られ第一回日本ダービーは目黒競馬場で行われました。手狭になり拡張もできなかったので競馬場は府中へ移転となり第三回日本ダービー以降、東京競馬場で開催されるようになりました。千年以上前に律令国家となった歴史ロマンを感じるウォーキングコースとなっています。


馬場東公園

カイドウ
はじめの目的地大國魂神社は府中駅の南にありますが、ストレッチ場所を求め北へ向かいこちらの公園をお借りしてストレッチをします。


さくら通り



大國魂神社欅並木
欅並木は大國魂神社の表参道になります。地図を見て気づいたのですが表参道は北へ向かって伸びています。大國魂神社の拝殿も北向きです。明治神宮など南向きの神社が多い中、北を向いている理由があるようで、奥州征伐(前九年の役)が関係しています。大國魂神社のサイトから引用します。
当社は、永承6年(1051年)に南向きであった社殿を源頼義が北向きに改めました。これは、朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味がありました。
通常、神社は南か東を向いています。古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていました。神様も同じように南を向くのが多いようです。この他、御祭神に関係する方角を向いていたり、太陽の出る方角等各社の由緒によって向きを決めた神社もあります。






大國魂神社
御由緒を神社のサイトから引用します。
当社の御祭神は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は素盞鳴尊[すさのおのみこと]の御子神で昔この国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された。
当社の起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものである。出雲臣天穂日命[いづものおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて武蔵国造[むさしのくにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれる。
その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)ののち、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。
又、国司が国内神社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である。
後に本殿の両側に国内著名の神、六所[ろくしょ](小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して六所宮とも称せられるようになった。
寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、正室政子の安産の祈願が行われた。文治2年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年(1232)2月に将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。
又、天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸へ入城してからは武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、社殿及びその他の造営に心力をつくされた。
正保3年(1646)10月、類焼により社殿は焼失したが、寛文7年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであり、慶応年間に檜皮葺(ひわだぶき)が銅葺に改められた。本殿は都文化財に指定されている。
明治元年(1868)准勅祭社に列せられ、同7年(1874)県社に列し、同18年官幣小社に列せられた。
当社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降武蔵国の総社となり、又国内著名の神六社を配祀したので「武蔵総社六所宮」の社号を用い、 明治4年(1871)にもとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。
当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は武蔵の国はもちろん、関東一円に亘っている。
5月5日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、当夜八基の神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜の中御旅所へ神幸するので、俗に「くらやみ祭」といわれている。昭和36年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。



武蔵国府跡

高札場
国府は現在の県庁でしょうか。大國魂神社と比べるとちょっと目立たない感じです。高札場は甲州街道と府中街道の交差点に設けられています。こちらの高札場は復元では現存、貴重なものです。


シャクナゲ

東芝のエレベーター塔

府中刑務所

ビバーナム・ティヌス
高札場から府中街道を北上します。シャクナゲとクルメツツジの区別がつかなくなっているのですが今回調べてもよくわからず、シャクナゲとしました。






武蔵国分尼寺跡
国分寺市のサイトから引用します。
 西元町四丁目のJR武蔵野線西側に武蔵国分尼寺跡が広がっており、国指定史跡武蔵国分寺跡に一括して指定されています。史跡指定地は、公有地化と整備事業を終え、国分寺市最初の市立歴史公園として平成15年4月に開園しました。
 確認調査の成果に基づき、尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示しています。尼坊は柱位置が判明しましたので、新たに石を配置してあります。
 このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)を表示しています。
 また、金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設があります。
 尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられますが、保存したまま、広場としてご利用いただいています。
 さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが残り、その西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡があります。



ナノハナ





武蔵国分寺跡
国分寺市のサイトから引用します。
 奈良時代の中頃の天平13年(741年)、政治の混乱や社会不安の続く国内を仏の力で国を安定させるために、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺の伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際に焼失したと伝えられていますが、江戸時代には武蔵国分寺跡は江戸近郊の名所として知識人の注目を集め、地誌にも紹介されるようになりました。
 武蔵国分寺跡は、規模やその歴史的価値の高さから、大正11年(1922年)に国史跡に指定され、市ではその一部を市立歴史公園として整備し、保存と活用に取り組んでいます。




国分寺

ウツギ

シャクナゲ

国分寺崖線の湧水

お鷹の道・真姿の池湧水群

台地の上
国分寺崖線の崖をふうふう言いながら登ってきて、台地の上でひと休み。


都立武蔵国分寺公園のユキヤナギ

東山道のソメイヨシノ

東山道武蔵路
国分寺市のサイトから引用します。
東山道は都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つで、武蔵路は武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)で、古代道路跡として学術上価値が高いものです。
 泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は古代の道路遺構です。
 東山道武蔵路は上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)です。発掘調査の結果、幅12mの道路跡が台地上から谷部にかけて490mの長さで確認されました。そこで計画が変更され、地下遺構を保存して、現在の道路が築造されました。
 現在、その道路跡の約300メートルを歩道形式で保存しています。また、谷部へ下る切り通しの部分の遺構平面レプリカを野外展示しています。



見所が多く結構疲れるウォーキングコースではありますが、現在の大河ドラマ光る君へよりさらに時代をさかのぼる、想像を超える古代を想像しながらのウォーキングでした。




すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール




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