文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

海水と真水使い発電 「浸透圧」利用、天候関係なく…日経新聞9月4日15面より

2011年09月04日 16時47分06秒 | 日記
海水と真水の塩分濃度の違いから電力を作り出す新エネルギーを実用化しようと日本とノルウェーで研究開発が進んでいる。太陽光や風力のように天候に左右されず、事実上無尽蔵に存在する夢のエネルギーだ。

自然エネルギーはコスト高や効率の低さなどで普及が遅れており、新顔への期待は高い。

漬物で発電?--。
新エネルギーの研究現場に一石を投じた発電法は、キュウリやナスの塩漬けができる仕組みを使う。野菜の水分が抜けて、しわしわになる力を電力に変える。

日本のプロジェクトを主導する東京工業大学の谷岡明彦教授は「浸透圧発電」と呼ぶ。海水と真水の塩分濃度の差に着目した。水は通すのに塩分は通過できない膜で海水と真水を仕切る。塩分の濃い海水側に真水が移動する「浸透」という現象が起きる。

海水と真水を送り続けると、海水側の流量が増えて流れに勢いが増す。タービンが力強く回り、発電する。

水力と言えば水力発電があるが、これは高低差で水に勢いをつける。水に勢いをつけるという意味で原理は一緒だが「浸透圧発電は、高低差のない平地に水力発電所をつくるようなもの」(谷岡教授)という。

東工大と長崎大、水処理メーカーの協和機電工業 (長崎市)の研究グループは、福岡市に実証プラントを建設して実験を進めている。海水から真水を作る施設で出た塩分濃度が約2倍の濃縮海水と下水処理施設で発生した真水を使う。ポンプでプラントの心臓部で

ある直径30センチメートル、長さ1・4メートルの8本の筒に流し込む。内部には浸透膜が組み込まれていて海水の流れに勢いかつく。流量が5~8割は増える。使った海水と真水は海や河川に戻す。

協和機電の坂井秀之社長は「筒1本で300メートルの落差がある水力発電所と同等の発電能力がある」と話す。ポンプの駆動に電力を使うが、それ以上の電力を発生するので発電所として機能する。1~2キロワットの電力を発電することに成功した。

一方、ノルウェーの電力大手、スタットクラフトも実験施設をつくって実用化に向けた研究を進めている。同社と技術提携した日東電工は、厚さがわずか0・1ミリメートルほどの薄い浸透膜がカギを握るとみる。琵琶湖を望む小高い丘の上にある同社滋賀事業所(滋賀県草津市)で研究開発を急いでいる。

浸透圧発電では海水と真水の濃度差を保ち続けることが重要だ。「海水中の塩分が真水に移動するのを防ぎつつ、真水は効率よく海水側に浸透させる技術が必要」と日東電工メンブレン事業部の広瀬雅彦開発部長は説明する。

海水から塩分を取り除いて真水をつくる浸透膜で培った技術をもとに浸透圧発電向けの膜の開発に挑む。広瀬部長は「来年には新しい浸透膜を(ノルウェーの実験施設に)供給して検証したい」と意気込む。

日本とノルウェーのグループが開発を競う浸透圧発電は天候に左右されない。実質稼働率は85%以上と太陽光や風力の4倍以上だ。
 東工大などのグループの試算によると、1キロワット時の発電コストは9~26円で太陽光の同40円を下回り、風力の同14~24円に匹敵する。

海水と真水を同時に調達できる河口付近などへの建設が想定される。谷岡教授は「日本の河川流入量を考えると潜在能力は600万キロワットと原子力発電所5、6基分に相当する」と言う。

とはいえ発電所を造るには課題も多い。膜が実用に耐えるのか、大型のプラントを確実に動かせるのか。さらなる技術革新が必要だ。

東工大などのグループは、東レと東洋紡、山口大学を新たに加えて3年後をメドに商用プラントの建設を目指している。スタットクラフトと日東電工のグループは15年に2000キロワット級の実証プラントを建設する計画を掲げる。

東日本大震災による福島第1原発の事故によって原発の安全神話は崩壊。太陽光など自然エネルギーへの期待は高まる。日本は領海と排他的経済水域(EEZ)を合わせると世界6番目という海洋国家の側面を持つ。海洋資源を活用する浸透圧発電のデビューが待たれる。

(新井重徳、生川暁)

スーパービュー 江戸絵画 視覚の冒険…日経新聞9月4日16面より

2011年09月04日 14時14分50秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

江戸時代中期、日本の絵は大きな変貌を遂げた。風景を見る目も、変化の跡が著しい。東の司馬江漢、西の円山応挙。変革の先端を走った絵師の画業を通して、現代の3Dも顔負けの、視覚の冒険の軌跡をたどってみよう。

不思議な絵かあるものである。右から左へと場面が展開する形式は、日本の絵巻の伝統を踏まえてはいる。しかし、船から見て左手、淀川東岸の風景が、逆さまに描かれているではないか。家々や山並みは、下を向いている。下の岸を見るときは、新聞を逆さにしてご覧いただきたい。

筆を執ったのは円山応挙(1733~95)。18世紀後半の京都を代表する絵師である。さらに目を凝らせば、異様に細密に描かれた家並みが浮かび上がり、周辺の山並みは、山肌から遠近感まで、近代日本画を先取りするようなリアルな景観描写で貫かれている。制作年は1765年(明和2年)。

「こんな絵はかつてなかった。応挙でなければ描けなかったろう」。応挙研究の第一人者である佐々木丞平・京都国立博物館長は話す。応挙は、この16メートルを超える長大な図巻で、何に挑み、何を変えようとしたのだろうか。

その答えを知るために、少し回り道をして、もう一人、江戸中期の絵師に焦点を当てたい。司馬江漢(1747~1818)。江戸に生まれ、江戸に育った江漢こそ、絵の革新に邁進した実験精神の申し子のような男だった。

「三囲景」は日本で初めてつくられた銅版画である。制作年は1783年 (天明3年)。オランダの書物を読み、製版、印刷の技法を習得、自ら機器を製作して銅版画を始めたことを、江漢は著書で明かしている。

反射式のぞき眼鏡というレンズと鏡を使った器具を通して見るので、絵は実際の風景とは、左右が逆に描かれている。江漢は、こののぞき眼鏡自体も、自ら作った。エレキテル(摩擦起電機)を復元製作した師・平賀源内直伝の創意工夫の精神が、この男には脈打っていたのである。

画面は不思議な雰囲気に包まれている。極端に湾曲した岸辺は、湖のようでもあり、手前の船は、西洋の運河にでも浮かんでいるような気配かある。しかし、よくみれば頭が小さい8頭身のすらりとした人物は、着物姿だ。

堤の左側には、神社の鳥居も見える。実は三囲とは、隅田川東岸・向島にある三囲神社のことである。国立歴史民俗博物館の大久保純一教授によれば隅田堤と三囲神社の大鳥居を組み合わせた風景は、浮世絵に繰り返し描かれてきた。

対岸には吉原に繋がる山谷堀の入り口があり、船で吉原に通う男たちは、堤の上にのぞく三囲の大鳥居を船から眺めていたに違いない。桜の名所でもあった向島一帯は、当時の人々にとっては、現代のお台場よりも馴染み深い、近郊のウオーターフロントスポットだったのである。

だからこそ江漢は、銅版画第一作にこの場所を選んだのだろう。鈴木春 信の弟子として、鈴木春重を名乗ったこともある江漢には、新技法と圧倒的なパースペクティブで、誰でも知る名所を、日本離れした風景に変貌させてみせる必要があった。そうでなくては、一介の浮世絵師にとどまることをよしとしない己の自尊心が満たされない。

この後、江漢は両国橋や不忍之池といった江戸の名所を題材にした銅版画を次々制作し、のぞき眼鏡とともにこれらを携え、長崎へ旅に出た。旅先で出会う老若男女に披露したのである。

「両国橋の図、江戸橋のづ(図)あり。之を見せければ、あきれて誠なりとせず」 「尾州の人参る。銅板を見せければ、肝をつぶす」。旅の記録「江漢西遊日記」は、意気揚々、高笑いが聞こえてきそうな書きぶりである。さらに江漢は、浪画、すなわち油彩画による風景画の制作にも乗り出す。相州七里ヶ浜、総州木更津浦、錦帯橋など名山勝景を題材に、西洋式の遠近法を大胆に用いて実景描写を試みた。

その上で、これらの油絵を額にして江戸、京都、大坂、厳島をはじめとする各地の寺社に奉納していった。有名寺社は、当時は最も良く人が訪れる場所である。そこのお堂などに掲げ、新しい風景画を人目にさらそうとした。

やはり江漢、ただ者ではない。
「自分の作品だけで完結するのではなく、庶民の目の働きまで変えよう、としている。先駆者としての誇りと志がなければ、できない事業」と学習院大学の小林忠教授は指摘する。

そんな自己ッん欲とパイオニア精神の塊たった江漢が、強く意識した絵師がいた。円山応挙、その人である。江漢の随筆「春波楼筆記」には、こんな一節がある。

「京師に応挙と云ふ画人あり、生は丹波の笹山の者なり、京に出でゝ一風の画を描出す、唐画にもあらず、和風にもあらず、自己の工夫にて、新意を出だしければ、京中之を妙手として、皆真似をして、甚た流行せり(後略)」 中国風でもなく、和風の絵でもない、自ら創意工夫して新風を打ち出した、とは、自惚れの強いこの毒舌家にしては、随分と言葉を尽くした評価といっていい。

同じ随筆で江漢は、土佐派や狩野派を「富士を写す事をしらず」とこきおろし、富士の絵が多い巨匠、狩野探幽にも「少しも富士に似ず」と、まるで容赦がなかったのだから。

江漢と眼鏡絵に詳しい神戸市立博物館の岡泰正参事・学芸員は語る。「江漢は、写実を究めて一家をなした応挙を、自分と同じような道を行く者と見て、一目置いていたのだろう」。東の代表は自分だが、西には応挙がいる。江漢はそう思っていた。

そのすぐそばで、30歳を過ぎた一人の天才が、目もくらむような視覚の冒険に挑んでいた。

2011年09月04日 13時56分01秒 | 日記
円山応拳「淀川両岸図巻」
江漢が一目置く実権精神 応拳、遠近法超え写生追及
 …日経新聞9月4日17面より

円山応挙は、丹波亀山(現京都府亀岡市)の農家の次男に生まれた。絵師の家ではない。後に応挙は、京都の画壇の頂点に立つが、それも一人の天才が、一代で成し遂げたことだ。狩野派の牙城を脅かしたとして「下克上の絵師」といわれる長谷川等伯も、立身出世では、応挙に到底及ばない。

そのうえ応挙は、絵を見る人々の視覚まで変えてしまった。狩野派をはじめとする従来の絵は、花鳥や中国風景といった定型の素材と構図を代々墨守し、実景に基づかず筆意筆勢で描くことが多かった。

それに対し応挙は、普通の人が日常見る世界を、リアルに写し出そうと試みた。現在、日本人が見慣れている写生に基づく日本画の源をたずねれば、応挙に行き着く。

応挙の天性は、遠近法の活用にも表れている。10代で奉公に出た京の玩具商い尾張屋では、鏡や望遠鏡、そして遠近表現のある浮絵を見る「のぞきからくり(のぞき眼鏡)」を商っていた。応挙は10代後半には眼鏡絵の制作に携わっていたという(佐々木丞平・佐々木正子著「円山応挙研究」)。

浮絵は、レンズ越しに見ると手前の物が浮き上がるほど遠近感が強調される浮世絵だ。江戸では1730年代ごろから奥村政信ら浮世絵師によって盛んに描かれていた。

しかし、伝応挙の 「三十三間堂通し矢図」などに見るすっきりとした幾何学的遠近表現に比べ18世紀中ごろまでの江戸の浮絵の遠近描写は、ちぐはぐで未消化な印象がぬぐえない。「応挙に匹敵するような高精度の遠近表現をする絵師は、18世紀にはほとんど見あたらない」 (大久保純一氏)というほどの先進性があった。

ただ、応挙はこの空間表現の新味を、あからさまに誇示する方向には進まない。むしろ、それを屏風や画幅といった日本伝統の絵画様式の中で消化し、そこに新たなリアリズムを追究した。

中国の「三遠法」による遠近表現も取り入れ、物の立体感、質感を表す描き方も独自に考案した。「自己の工夫にて、新意を出だし」という江漢の評は、その辺を鋭く見抜いた言葉だろう。江漢の絵は、応挙に比べれば、西洋絵画の直訳型(小林忠氏)に近かった。

再び「淀川両岸図巻」に戻ろう。下図制作時、応挙は31歳。それまでの眼鏡絵制作の経験は、川下りを絵画化する壮大な視覚実験に注ぎ込まれた。

伏見を出発した6艘の船団が、大坂城をめざして約45キロの流れを下る。手前の岸が下向きに描かれるのは、「川を下る船の中から、両岸の風景を見るように描いたからではないか」と佐々木丞平氏は語る。

今度は、新聞を90度回転させ、川上、つまり京都側から、川下の大坂方面を、低い位置から、なめるように眺めていただきたい。両岸の風景が、パノラマのように立ち上がってくるのを感じないだろうか。

川の流れに従って視点が移る。この移動の感覚は、視点を固定する西洋発の透視画法だけに頼っては描けない。応挙は、ここでも周到な配慮を施している。船団の先頭は今、天下分け目の天王山付近を過ぎようとしている。

その前方の山が、まさに遠近表現で遠くかすんでいくあたりで、空は、にわかにかき曇り、強い雨が空から降り注いでいる。その向こうには、白い雷雲が、もくもくと湧いている。

応挙は、パノラマのような風景とともに、移り変わる時間の経過をも、丸ごと描き出そうとしているではないか。その証拠に図巻の終盤、大坂に近づくと、川面からは青い色彩が次第に消え、闇が迫るに従って両岸も水墨の表現となる。
川は、遠近感の乏しい、たそがれの空間に変貌してゆくのである。

岸辺は、草、人、牛、家並みまでミリ単位の細密描写で埋め尽くされている。数年前この図巻の解体修理に立ち会った実践女子大学の児島薫教授も指摘するように、顕微鏡的なミクロ描写と、マクロ的な眺望を融合させる実験が、ここで敢行されている。

完成は1765年(明和2年)。ちょろどこのころ江戸では、江漢の師である鈴木春信が、錦絵(多色摺浮世絵版画)を創始し、京都では、50歳になる伊藤若冲が華麗な細密描写による「動植繰絵」を完成させ、相国寺に寄進した。

そのすぐそばで、30歳を過ぎた一人の天才が、目もくらむような視覚の冒険に挑んでいた。

応挙はこの3年後、「七難七福図巻」というこれまた類のない実験的な大作を描く。京の画壇を制覇する「円山応挙の時代」の幕開けであった。


文・宮川匡司

「ガウディ伝」 田澤 耕著…日経新聞9月4日21面より

2011年09月04日 11時56分45秒 | 日記
社会背景入れて見直す人物像  成城大名誉教授 千足伸行

「べルニー二はローマのために生まれ、ローマはべルニ―二よって作られた」というが、同様のことはガウディとバルセロナの関係についても言えそうである。

今日、バルセロナに行くことはガウディを見に行くことに等しい。テレビコマーシャルにまで登場する彼のサグラダ・ファミリア(聖家族)教会は、日本では今やバチカンのサン・ピエトロ寺院よりも有名かもしれない。画家ならともかく、建築家で日本でこれはどの人気と知名度を誇るのは、ガウディしかいないのではないか。

当然ガウディ関係の文献は日本にも少なくないが、本書はガウディを語る際のオーソドックスな視点をあえてずらして書かれた「ガウディ伝」である。「まえがき」によると、「これまでの本の多くは、ガウディとその作品を時代や社会から取り出して扱ってきた。

ならば、ガウディを元の場所に戻してやったらどうだろう?(中略)一見、ガウディとは関係がなさそうなことにもかなりのページを割いている場合があるのはそういう理由による」。

カタルーニャに生まれ、育ったガウディの人と作品はカタルーニャの歴史、文化、風土と切り離しては語れないが、このガウディ伝は「カタルーニャ通」の著者をもって初めて可能であったといえよう。

例えば「インディアノ」と呼ばれる新興成金についての詳しい記述や、大半は奴隷貿易によって財を成した彼らが実はガウディのパトロンであったとの指摘は、考えさせるところ大である。

ほかにも、バルセロナ万博、カタルーニャのナショナリズム、ピカソも根城とした芸術カフェなど、興味深い話題満載である。

本書はいわばガウディをガウディの外堀から、著者の言う「時代の意志」から埋めてゆくという手法を取り、したがって「ガウディとその時代」、しかも「その時代」を太文字にした「ガウディ伝」と言えるかもしれない。

ガウディについてのある程度の予備知識のない読者には、多少もどかしく感じられる点もあるかもしれないので、これと平行して「ガウディ入門」的な本をあわせ読むことをお勧めする次第である。

(中央公論新社・880円)▼たざわ・こう 53年生まれ。法政大教授。専門はカタルーニャ文化。著書に『カタルーニャ語文法入門』など。


これも笑える…池内紀さんと読む 「ファウスト」(下)…朝日新聞9月4日14面より

2011年09月04日 11時13分03秒 | 日記
「経済人」描ききる先見の明
現代見透かす第2部の圧巻


悪魔のメフィストと契約を交わした老学者ファウストは、若返りの薬で青春を取り戻し、絶世の美女マルガレーテと結ばれる。しかし、ファウストとの間に生まれた赤子に困ったマルガレーテは嬰児を手にかけ、死刑を宣告される。

埼玉県の読者藤村敏さん(60)は「学問のすべてを見極めると何の楽しみもない。絶世の美女と結婚もできたが、一子の死と向き合う。尊敬はされたが一瞬に過ぎない」そんなファウストに哀れみを覚え、神奈川県の斎藤俊さん(80)は「乙女を誘惑して捨て去り、嬰児殺しまでさせたファウストが、最後に救済されるのはなぜか。作者は結局自分を救済したかったのか」と書いてきた。


「婚前交渉でできた子を、社会に受け入れる場がなかったために、当時、無数にこうした事件は起きた。女性の置かれた悲惨な運命だが、しかしファウストが救済されたかどうかは不明ですよ」とドイツ文学者の池内紀さんは話す。

「悲劇のラストは穏やかな救いを暗示するとも取れるが、救われない男だったとも読める。解釈は読者に開かれている」一般に抱かれているイメージと違い、ゲーテは、教訓からもっとも遠い人だと池内さんは言う。

「のべつ恋愛して、手は早いが逃げ足も速い。大食らいで飲み助で、はやりものに弱い。それでも、この物語から人生訓を得ようと思えば得られるところが、ゲーテの面白いところではある」

福岡県の二宮正博さん(62)は 「ファウストは地上での幸福を得るために悪魔と契約を交わし、その魔法を利用した。現代では、魔法が原子力にならないだろうか」と感想を寄せた。「多様な読み直しができるのが古典の魅力」と池内さんも認めるが、自身の読みの肝は「経済人=ファウスト」として現れる、第2部の圧巻だ。

第2部冒頭、巨額の財政赤字に悩む王国に現れたファウストとメフィストは、財政難を一挙に解決する妙策を提案して、国王に採用される。国のどこかに埋もれている財宝を担保とし、大量の兌換紙幣を発行するという“魔法”だ。

成功したファウストは、今度は土地ディベロッパー/ゼネコンとして、広大な海岸地帯を“地上げ”し“再開発”する。
「ただの紙切れである紙幣を、国家の信用を担保に大量発行するというフィクションは、ゲーテの時代、ヨーロッパに広まった。完全なる幻想で、しかも現代まで解き明かされていない謎なんです」(池内さん)

サブプライムローンの欺瞞。米、ユーロ圈、日本の財政危機の連鎖。ゲーテの心眼は、遠く現代を見透かしていた……ようにも読める深さが、真の古典にはある。(近藤康太郎)

ゲーテ/集英社文庫全2巻720~980円、岩波文庫同798~903円、ちくま文庫1890円など。

「新藤兼人伝」小野民樹〈著〉 「新藤兼人私の十本」 立花珠樹〈著〉…朝日新聞9月4日12面より

2011年09月04日 10時49分59秒 | 日記
「新藤兼人伝 未完の日本映画史」 小野民樹〈著〉
「新藤兼人私の十本 老いても転がる石のように」 立花珠樹〈著〉

1世紀に及ぶ私史 作品に色濃く投影  〈評〉後藤 正治 ノンフィクション作家

この夏、99歳を数える映画監督新藤兼人の最後の作品「一枚のハガキ」が公開された。『新藤兼人伝』は、白寿にしてなお現役にある監督の評伝であるが、同時に、時代ごとの、映画制作の現場を生き生きと伝える日本映画史ともなっている。

新藤は広島の人。生家が没落し、少年期、一家離散の辛酸をなめる。一本の映画に導かれ、京都にあった新興キネマの現像部に潜り込み、やがてシナリオ書きの才が認められて映画界の階段を上っていく。同世代の黒澤明らとは異なり、まったくのたたき上げであり、目線の低さは一貫している。

評者の記憶する新藤作品は、モスクワ映画祭グランプリを受賞した「裸の島」であるが、前後おびただしい量のシナリオを書いている。時代劇、家庭劇、喜劇、原爆、反戦、犯罪、性……屈指の 「シナリオ職人」であった。

「社会派」 「人生派」 「リアリスト」。レッテルはさまざまあるが、特筆すべきは、常にその時々の「いま」と向き合う人であったことだろう。時代風潮に影響を受けつつ、イデオロギーには染まらない。

芸術至上主義にも商業主義にも陥らない。それでいて独立プロを維持していくタフな映画人だった。それが国内最高齢監督の道を切り開いたものであろう。

著者は長く出版編集にたずさわった人。岩波書店に入社して間もなく、溝口健二の評伝を依頼したのが新藤との出会いで、付き合いは三十数年に及ぶとある。関係者の証言はもとより、古い映画フィルムやシナリオを発掘し、日本映画の現場をたどるなかで老映画人の人生を描いている。

行間に、日本映画への愛情がにじみ出ている。作る、見る、の相違はあるが、映画に魅入られ続けた“2人組”の奏でる二重奏の感もある。

『新藤兼人 私の十本』は、代表的作品をめぐる新藤へのインタビューを軸に構成されている。「裸の島」の舞台は瀬戸内の小島。小船で水を運び、ひたすら段々畑に水をかける一家を描く無言劇である。新藤は家を抵当に入れて映画を完成させたものの、買い手はつかない。誤解され、わずかにヌードを専門とする配給会社から引き合いがあったとか。

「一枚のハガキ」は、戦争期、くじ運で生き残った体験が下地となっている。敗戦の前年、丙種合格の100人が“掃除部隊”として集められた。やがて60人はフィリピンへ、30人は潜水艦へ、4人は海防艦へと配置換えとなったが全員生きて戻ることはなかった。

戦死した1人が持っていた一枚のはがきが映画化の基点となっている。1世紀に及ぶ「私史」が、この映画監督の作品に色濃く投影していたことを改めて知る。

『新藤兼人伝』白水社・2940円/おの・たみき 47年生まれ。著書に『60年代が僕たちをつくった』『撮影監督』
『私の十本』共同通信社・1680円/たちぱな・たまき 49年生まれ。共同通信社編集委員。著書に『「あのころ」の日本映画がみたい!』など。

「わが外交人生」 丹波賓〈著〉…朝日新聞9月4日12面より

2011年09月04日 10時18分49秒 | 日記
歴史的証言に資料的価値高く   評・保阪 正康 ノンフィクション作家

著者は1962年に外務省入省、2002年に退官するまでの40年間、外交畑の第一線に立ち続けた。その間の自らの動きを回顧したのが本書だが、幾つかの歴史的証言もあり、資料的価値も高い。

20世紀後半の日本外交は、米国との同盟を軸に対ソ連・ロシア、中国との関係が模索されたのだが、立場は一貫していて「つねに筆者の動機は『国益』である」という。80年前後のソ連のアフガン侵略など冷戦激化時に、米国は防衛費増大を求めてきた。

その折、著者は「丹波メモ」を作成、関係方面に配布している。日米安保があってこその経済的繁栄だとの内容である。日米安保は「憲法第九条に象徴される平和国家を担保している」との著者独自の見解は、今も不変だと強調する。

圧巻は国連局長時代のPK05原則をまとめる経緯の詳述だ。それ以後の20年間の日本のPKO参加の実績は自らの国会答弁が正しかったと誇る。

さらに米英仏の国連担当幹部と会談して、初めて国連安保理の改革を訴えたのも自慢の一つとする。この辺りの描写は、外交官の回想録にしばしばみられる歴史的自賛の筆調ともいえるが、現実にこうして歴史がつくられてきたと分かれば、首肯できる。

もともと、ソ連・ロシア外交の専門家でもある。すでに著者は『日露外交秘話』で自らの体験を語っているが、あえて後輩の外交官に語っておきたいのか、1章を設けて対口外交の私見をまとめている。ソ連は「遠大かつ悲劇的な実験」のあげくに再びロシアに戻った。

そのロシアも北方四島に関してこのところ変化球を投げているから注意するようにと諭し、自らが橋本龍太郎首相のもとで関わったクラスノヤルスク会談について触れているのがモデルになるという意味なのだろう。

出身地北海道への情感、愛読書がドイッチャーの『トロツキー』という知性。それも外交官の資質なのであろう。

中央公論新社・1890円/たんば・みのる 38年生まれ。外務審議官、駐ロシア大使などを務めた。

「人間と国家(上・下)」 ある政治学徒の回想 坂本義和〈著〉…朝日新聞9月4日12面より

2011年09月04日 10時08分04秒 | 日記
青年期の苦悩 今も抱きしめる 評・中島 岳志 北海道大学准教授・アジア政治

戦後日本の国際政治学を牽引してきた著者の自伝的回想。坂本氏の父は、上海の東亜同文書院の一期生。米国留学   を経て母校に戻り、教鞭をとった。父は上海の邦人社会で孤立を恐れず、中国人と親しく付き合った。

坂本氏の名前は、「義和団」になぞらえてつけられた。父は、中国民衆への愛着と日本軍部に対する嫌悪感を同時に抱いていた。上海で育った坂本氏は、幼少期に病院で命を落とす負傷兵を目の当たりにした。

彼らは死に際に「天皇陛下万歳」とは言わなかった。坂本氏は 「国家権力の脱神話化」を体験する。日本に帰国後、戦中に旧制一高入学。閉塞的な時代の中、煩悶を繰り返した。

終戦後、彼は丸山真男の特別講義を受け、心を動かされる。「今どう生きるか」という問いに苦しんでいた坂本氏にとって、内面的な問題意識と社会科学的分析を不可分のものとする丸山の政治学は輝いていた。彼は、丸山に惹かれ東大法学部に進学する。

坂本氏はマルクス主義に接近しつつ、距離をとっだ。逆に助手時代には近代保守思想の祖エドマンド・バークを研究。「革命の思想」を知るためには「反革命」思想を知る必要があると考えたためだ。

東大助教授に採用されると米国に渡り、モーゲンソウと出会う。帰国後、「世界」に「中立日本の防衛構想」を寄稿、リベラルな国際政治学者として頭角を現す。一方で、年少で京大法学部の高坂正尭は、「中央公論」に「現実主義者の平和論」を書き、坂本氏との対立軸を提示した。坂本氏が高坂をどう見ていたのかも本書には記されている。

坂本氏の学問は、常に「人間」の喜びや悲しみを土台に展開される。それは自己の青年期の苦悩と問いを、今でも抱きしめているからだろう。21世紀の人間が克服すべきは、不当な権力や格差の構造だけでなく「他者への無関心」であるとの指摘は重い。

岩波新書・各840円/さかもと・よしかず 27年生まれ。国際政治学者。『相対化の時代』など。

これは心から笑える…「ナポレオンのエジプト」 ニナ・バーリー〈著〉…朝日新聞9月4日12面より

2011年09月04日 09時46分35秒 | 日記
幻滅の砂漠地帯で置き去りに

評・荒俣 宏 作家 

ナポレオン東方遠征の成果をまとめた『エジプト誌』は出版史上の偉業だが、一方同じ時期に、この遠征隊を海上封鎖したイギリスでも、ナポレオン探検団のバカげた行動を揶揄するジェイムズ・ギルレイの辛辣な漫画が多数出版された。なぜならネルソン率いるイギリス艦隊は、敵側から出る公文書や内密な私信を傍受し、それを逆宣伝のネタに活用したからだった。

本書は、戦争と学術の両面を持つこの遠征に参加した科学者たちの体験を、ギルレイの風刺漫画以上に人間臭く描きだす。目的も行き先も明かされず夢だけ吹き込まれた若い学者が、古代最高の文化都市アレクサンドリアに到着してみれば、有名な図書館や灯台など「古代の驚異」は影も形もない。

おまけに船団はイギリス艦隊に攻撃されて壊滅し、エジプトで孤立してしまう。ひどいのはナポレオンで、ごく親密な3人の学者を除き全員をエジプトに置き去って故国へ脱出してしまうのだ。

それでも若い学者たちは敵のまっただ中で毎日調査や討論をつづけ、約4年間飢餓と疫病の荒れ狂う過酷な砂漠地帯で頑張りぬいた。

成果の中でもっとも有名なのは「ロゼッタストーン」の発見だろう。碑文はすぐさま銅版画にして本国へ送られたが、これがパリに届いた最後の通信となった。しかし、古物収集の大家でナポリ駐在の外交官ウィリアム・ハミルトンに目を付けられ、降伏の際に待ってましたとばかりイギリスに押収されてしまう。

若い学者たち個々の冒険も非常に興味深い。

たとえば地図制作にあたったジョマールはカイロ市内の迷路の中を測量して回り、卑狼極まる踊りを演じるベリーダンサー、奇術師、神秘主義者、ヘビ使いなど奇人の群れに出会い、犬小屋だと思っていた高さ4フィート(約1・2メートル)の小屋がじつは庶民の住居だったことに仰天する。最後まで本を擱くない快著だ。

竹内和世訳、白揚社・2940円/Nina Burleigh ジャーナリスト。米コロンビア大非常勤教授。

梅棹忠夫再読 学者としての業績に目を…朝日新聞9月4日11面より

2011年09月04日 09時40分40秒 | 日記
社会学者 加藤秀俊  ◇かとう・ひでとし 30年生まれ。近著に『メディアの発生』 『常識人の作法』など。

梅棹忠夫さんが亡くなって1年がすぎた。それを追憶する書物がいくつも編纂され、『知的生産の技術』や『文明の生態史観』などの旧著も版を重ねてきたようである。後輩の一人として、まことにうれしいことだ。

だが、わたしからみて、いささか残念なのは梅棹さんへの評価が右にあげた2冊をはじめとするベストセラーに集中する傾向があり、かれの学者としての業績があまり知られてこなかったことだ。梅棹さんは確かにその鋭敏な目で時代を読む稀有の才能で世間をうならせたが、本来の研究者としてのすぐれた著作が忘れられがちなのである。

だから、といって数式だらけの学術論文や調査資料を読むのがいい、というわけではない。まず、「わかりやすさ」を主義とした梅棹さんには、その専門をだれにでもわかるように書いた『生態学入門』という文庫本がある。

これは本人がいう学生時代からの「長年の盟友」吉良竜夫さん(本年7月逝去)との共編。執筆者には中学生のころからの同級生、川喜田二郎さんもいて、交友のこまやかさがよくわかるし、これほど簡潔にわかりやすく「生態学」という学問を紹介してくれる本はめったにない。いまのところ品切れだけれど、古書店でも100円ほどで簡単に手に入る。あまり苦労せずに見つかるだろう。
 
共同作業の名人

梅棹さんは理学部動物学科の出身だったから「理学博士」。だが、かれは実験室的科学でなくフィールドーワークの道をえらび、民族学、人類学にその関心をひろげた。そしてアフガンを舞台に『モゴール族探検記』を書いた。『梅棹忠夫著作集』のなかには600ページにおよぶ「中洋の国ぐに」という一冊があるが、この新書は「東洋」でもなく「西洋」でもない「中洋」の発見につながる重大な記録である。

探検という作業は単独個人のものではない。それは複数の人間の呼吸のあった共同作業である。梅棹さんはそういう共同作業の名人だった。

ずからすすんでチームをつくり、チーム・ワークのなかでみごとに役割をはたした。じっさい、世間のひとは梅棹さんを評して「孤高の天才」などというが、それはマチガイ。かれはけっしてスターではなかった。

梅棹さんはつねに「チームの一員」だったのである。狭義の探検だけではなく共同研究もチームだった。かれのすべての著作はチーム、とりわけ今西錦司先生を中心とするチームによって、そのチームのために生まれたものだった、とわたしはおもっている。

その梅棹さんが突然視力をうしなっだのは86年春のこと。そこから20年以上の闘病生活がはじまるのだが、かれはその前後の事情を『夜はまだあけぬか』に冷徹に記録した。目がみえなくなったうえに、国立民族学博物館の館長職も退職。

ということはチームからの予期せぬ離脱である。そのおおきな衝撃をのりこえるすさまじいエネルギーがこの本には充満している。ほんとうに強いひとだ、とわたしは感嘆した。

虚無主義と通底

生態学という学問は世界の姿をあるがままにみる学問である。そこには分類学も系統論も目的論もない。梅棹さんといっしょに、わたしはしばしば大徳寺の僧房で和尚との問答に参加した。荘子についても語った。

「あるがまま」をうけいれる梅棹生態学は、どうやら東洋の虚無主義と通じるところがあったようなのである。


解答=終に、戦後日本に登場した大論説は、10月には間に合わず。

2011年09月04日 08時42分50秒 | 日記
39.7度の発熱が続いた数日間が、峠を越した朝、目を覚ました芥川の脳裏には、まるで、「イコン」の様に、大英博物館か、ルーブルに在る…古代エジプトからの略奪品の中に、尖塔にビッシリ当時の言葉が書いてある、あれが、現代のPCの中に、勝手に、「イコン」の額縁の中に、びっしりと言葉が書き連ねて在ったのだった。

これが、おかしなことに、新首相が、話した事、これから話す事が、全く抜け落ちが無く、連ねて在ったのだった(笑)

閑話休題。

読者の方の中で、東大、京大、阪大、九大、北大etc、で学者として生活していらっしゃる、芥川の先輩、同級生、後輩にあたる方たや、日本を代表する大企業で働いている同様の方達は、芥川が、既にして、財務省、日銀を超える大戦略を=戦後日本に生まれた知識人ならば、出すべきだった解答…これが、芥川以外には、出せないものであったことも、書き続けてきた通りなのだが。

これを出した事は、皆さんは、もうお分かりだと思う。

つまり、芥川は、未だに、私達の国に在った本質的な病は、とうに糾しただけではなく、
「文明のターンテーブル」で、日本と、世界を、救う事に成る。

願わくば、芥川の誕生月である10月に、…去年7月19日に、ネットの世界に、忽然と姿を現した芥川賢治の本が、出版出来、日本中の人に読んで頂けたら、全ての面に於いて、一番良かったのだが、校正、取次、等のスケジュールで、どうしても12月初旬から前倒しは無理のようで、少しだけ落胆はしたが。

もはや、膨大な量と成っている芥川の、読めば血が出る様な文章の数々(笑)、と格闘を続けてくれたHさんの苦労はいかばかりだった事か!

おまけに、有料メルマガに掲載した文章の数々(かなり、ラフには書いていますが、より、遠慮のないものも有る)も、結構な枚数。

これらの中から、それぞれのテーマごとに、選択するだけでも大変な作業と成って…本当は、余程でない限り、落とす文章は無いのですが…。

芥川は、普通の生活をしている現代人が、見ただけで卒倒する大部の本…今、芥川の手元に在る物で言えば「北京のアダム・スミス」672ページの様な本は、今回の趣旨の範疇外(笑)

皆さまが、電車の中で、或いは、旅の途中に読んで頂ける枚数にしなければなりませんから。

彼は、当然ながら、芥川の指示が欲しかったのは無論な訳ですが、今、芥川は、極めて特殊な状況に在るために、とにかく、全面的に任せた。

数日前、やっと届いた、ピックアップされたタイトルに依る、ラフ構成だけで、芥川は、良しとした。…芥川の文章の全ては、血の出る様な文章なのだから、沢山の文章が抜け落ちても何ら問題は無く(笑)

週明け早々、彼は文字組みに入り出しますが…全ては…後は、芥川が書きあげ、最終章として差し込まれ、掉尾を飾る解答=終に、戦後日本に登場した大論説に在るのですから(呵々大笑)


©芥川賢治