文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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小型車「100万円」攻防 欧州市場で販売競争…日経新聞9月18日7面より

2011年09月18日 14時29分27秒 | 日記
VW 車台・部品を共通化 現代自 FTA追い風に攻勢

【フランクフルト=下田英一郎、古谷茂久、ソウル=尾島島雄】
欧州自動車市場で、小型乗用車を巡る世界大手の販売競争が激しくなりそうだ。攻防ラインは販売価格1万ユーロ(約106万円)。

韓国・現代自動車傘下の起亜自動車が来年初頭に9990ユーロの小型車「リオ」を発売。独フォルクスワーゲン(VW)は先手を打ち、今年末にリオよりさらに安い小型車「アップ」を投入する。日本車メーカーは円高克服などが課題だ。

VWは開催中の「フランクフルト国際自動車ショー」で、アップ(9850ユーロ)を発表した。背景には、欧州で急速にシェアを拡大する韓国車メーカーの脅威がある。

2011年1~8月の現代自と起亜の欧州25カ国での販売シェアは4・9%で、前年同期比O・4ポイント上昇。独ダイムラーと並ぶ8位だ。

一方、トヨタ自動車など日本車メーカー6社合計のシェアはO・5ポイント低下し、11・3%。欧州最大手のVWは23%と韓国勢を引き離しているが、低価格を武器に日本車のシェアを奪いながら追い上げる韓国勢は不気味な存在だ。

起亜自動車は新型リオを韓国から輸出し、欧州で年8万台以上を販売する計画。リオより小型の 「ピカント」は8990ユーロとより安い。従来のVWの最安値モデルは「ポロ」の1万2450ユーロ。現代自の主力小型車「i10」(1万209ユーロ)より2干ユーロ以上高い。

韓国車メーカーには7月に欧州連合(EU)との間で発効した自由貿易協定(FTA)も追い風。現代自が欧州で来月発売する中型ワゴン「i40」は10%の関税が段階的に廃止されるFTAを活用。

値ごろな小型車「i30」はチェコエ場で生産するなど柔軟な戦略を取れる。梁承錫(ヤン・スンソク)社長は「i40の投入を足掛かりに12年は50万台(10年比4割増)を目指す」と意気込む。

VWも傘下のシュコダ(チェコ)やセアト(スペイン)などとアップの車台や部品を共通化しコスト競争力を高める。アップの低コスト化は19・9%を出資するスズキに協力してもらう予定だったがスズキが提携解消を申し入れ困難な情勢だ。

日本勢、円高克服課題に

円高や自由貿易協定(FTA)での出遅れなど、逆境下での挑戦となるのが日本車メーカーだ。マツダはハイブリッド車並みに燃費を改善したディーゼルエンジンなどを積む小型多目的スポーツ車(SUV)「CX-5」を国際自動車ショーで発表。

来年初頭にも欧州で発売する。ホンダも新型「シビック」、トヨタは新型「ヤリス(日本名ヴィッツ)」など主力モデルを相次ぎ投入し欧州市場をテコ入れする。

マツダの山内孝社長はCX-5の欧州販売を年5万台と見込むが、採算上は「現在の円高水準で厳しい戦いが続く」。同社は世界販売に占める輸出比率が7割超で円高のマイナス影響を受けやすい。

2011年3月期までの3年間で為替などによる減益要因は3千億円を超えたという。
日産自動車は提携する独ダイムラーから小型高級車の車台を供与してもらい、高級車「インフィニティ」のテコ入れを急ぐ。

高級車も今後の競争は小型車が焦点で、独アウディや独BMWも強化する方針。日産はダイムラーから技術供与を受け、競争に出遅れないようにする。

生産拠点などは未定だが、カルロス・ゴーン社長は「今の円高では日本の外で作らざるを得ない」と話す。
日本自動車工業会の志賀俊之会長は9月中旬、欧州連合(EU)高官や欧州議員と会談し、日本との経済連携協定(EPA)の早期締結を訴えた。

だが伊フィアットのセルジオ・マルキオーネ最高経営責任者など一部欧州車メーカーに反対の声もある。日本車メーカーは 「欧州勢や韓国勢と同じ競争の土俵に上がるまで課題が山積み」(マツダの山内社長)だ。


日本勢進出 東南ア、産業集積の好機…日経新聞9月18日7面より

2011年09月18日 14時19分48秒 | 日記
円高にらみ支援策拡充

【ハノイ=岩本陽一】東南アジア各国政府が日本企業の呼び込みに躍起になっている。円高で日本企業が海外進出に意欲的な今は、自国の産業集積を高める好機。

2015年の東南アジア諸国連合(ASEAN)統合を前に資機材・部品の自給率を高め、自国で操業中の組み立て加工型大手メ-カーの競争力を高める狙いがある。(1面参照)

タイ投資委員会(BOI)はこのほど国際協力銀行(JBIC)と業務協力協定を結んだ。資金支援策などに関する情報提供を円滑化。日本の中堅・中小企業にタイ進出を促す狙いがある。

高付加価値産業へのシフトを目指すインラック新政権にとって、高度な技術を持つ日本の中堅・中小企業は魅力的だ。商業銀行最大手のバンコク銀行が今月、山梨中央銀行、近畿大阪銀行と業務提携するなど、金融機関もタイに進出する中小企業などへの情報提供や融資で協力する。

ベトナムも裾野産業の集積へ向け、「オンリーワン」と呼ばれる高度な特殊技術を持つ日本の中小企業の進出を支援する。政府は日本企業専用の工業団地を整備する案も検討中。候補地の1つである北部の港湾都市ハイフォンでは、高規格道路を建設して首都ハノイまでの移動時間を現在の3分の1程度に短縮する案が浮上している。

インドネシア政府は8月、外国などからの投資を誘致するため、新規投資額が1兆ルピア(約90億円)を超える企業に対して、法人税を5~10年間免除する優遇策を決めた。対象は金属や機械などの各産業。内需が好調なインドネシア市場への関心を高める日本企業を取り込む狙いもありそうだ。

「ぼくは上陸している(上・下)」スティーヴン・ジェイ・グールド著…日経新聞9月18日21面より

2011年09月18日 14時15分56秒 | 日記
「進化」を伝える楽しく深い考察   評・総合研究大学院大学教授 長谷川眞理子

スティーヴン・ジェイ・グールドは、アメリカの進化生物学者だった。

「ナチュラル・ヒストリー・マガジン」という雑誌に掲載したエッセーを通じて、アメリカ中に名前を知られた。さらに、そのエッセー集は世界各国で翻訳され、多くの人々が、次のエッセー集を心待ちにしていた。

本書は、その最後である。彼は2002年にガンでなくなった。享年61歳。その早すぎる死に誰もが驚いた。アメリカは科学技術先進国であるが、こと進化に関する限り、科学者と国民のギャップは大きい。国民の半分以上が進化を否定している。

その中で、彼のエッセーは、つねに進化の考えを啓蒙する強力なメッセージを運んでいた。それと同時に、進化学の専門家もおおいに楽しめる、底の深い考察でもあった。

彼の訃報に接して、ファンは、もうあの「グールド節」が聞けなくなるのかとおおいにがっかりしたものである。
この上下2巻の中身をいちいち紹介することは無理だが、最後のエッセー集である本書も、おさめられたすべての章が実に含蓄深く、発見に満ちておもしろいと言っておこう。

彼は、なんと25年間もエッセーを連載し続けたのだ。25年間、一度も色あせず、マンネリに陥ることもなく書き続けたことに、まずは敬意を表したい。

進化とは何か? それは、私たち自身を含めて生物全体の由来である。親がいて、その親がいて、と、ずっとずっとさかのぼっていけば、私も、スズメも、道ばたのタンポポも、みんな38億年前の一つの生命にたどりつく。

一度も途切れずに続いた生命の鎖かあるからこそ、今いるすべてのいのちが存在するのだ。タイトルである『ぼくは上陸している』は、グールド自身の祖父が移民として初めてアメリカの地を踏んだときの日記の言葉だ。

彼の家系のつながりと、地球の生命が海から陸へ上陸したときとを思わせて絶妙である。今の若い人たちはどのくらい彼を知っているだろうか? 少し心もとない気がするものの、彼の書いたものは、優れた科学読み物のお手本の一つとして末永く読まれて欲しいと願う。


代表選直前、会談で 細川元首相明かす…朝日新聞9月18日5面より

2011年09月18日 14時04分27秒 | 日記
野田氏、小沢氏に「増税時期慎重に」

細川護煕元首相(73)が17日、朝日新聞のインタビューに応じた。細川氏は野田佳彦首相の「指南役」で、民主党代表選を控えた8月下旬、野田首相と小沢一郎元代表の会談を仲介。

細川氏は、野田氏が小沢氏に対し、復興増税や消費増税の時期について「慎重に進める」と語ったことを明らかにした。

細川氏によると、3者会談は約40分間。小沢氏が増税を掲げる野田氏に対し。「増税か反増税かと短絡的に決めつけられて、難しい。よほどうまくやらないといけない」と指摘。野田氏は「すぐにやる話じゃない。
手順があるし、まず歳出カットをやる」と語り、徹底した行財政改革を進めたうえで、増税時期を慎重に見極める考えを示した。

また、細川氏は3者会談の2週間ほど前に小沢氏と会談、代表選の候補者のうち「野田氏が一番しっかりしている」と評し、仲介役を買って出たという。

細川氏は野田首相に対し、党役員人事や閣僚人事について「老人シフトでやったほうがいい」と進言。首相が輿石東氏を幹事長に起用した後、小沢氏は細川氏への電話で「よかった」と評価したという。

また、20日からの首相訪米についても「信頼できるりーダーということを印象づけることに専念してほしい」と伝えたという。細川氏は、人事や政策面で首相に様々なアドバイスをしていることを明かした。

ただ、自身の政界復帰は「そういう気持ちはない」と否定した。

細川元首相インタビュー 2人の会談を仲介・私は泥の中のフナ

-民主党代表選では野田首相を推していました。
「日本新党の仲間だったこともありますが、野田さんが首相にふさわしい『最後の砦』と思っていたからです。実直だし、バランス感覚もいい。昔から言葉数の少ない人でね。そういう所を買っているんです」

―よく会うのですか。
「首相になってからはお会いしてませんが、電話では何回か。折に触れて気がついたことを老婆心ながら言っています。例えば、外国の首脳との会談では個々のテーマより信頼できるリーダーだと印象づけることが大事だ、というようなことです」

-民主党の小沢一郎元代表との関係についても助言しているのですか。
「2人とも話されたことがほとんどないと言うので、まずいと思って、8月下旬ごろに会談を仲立ちしました。小沢さんは『増税の話は、増税か反増税かと短絡的に決めつけられてしまうし、国民もそう受け止めるから難しい』と。

野田さんは『すぐに増税するという話じゃない。いろいろ手順があるし、まず歳出カットをしなくてはいけない。慎重に考えなければならない話だ』と言ってました。それだけですね、政策的な話は。40分程度の和やかな会談でした」

-別の機会にも3人で会われましたか。
「1回だけです。でも、野田さんが代表になって、輿石東さんが幹事長に決まった時、小沢さんから『良かった』と電話があった。人事には納得されていると思いましたね」

-野田首相は小沢氏に気を使っているのですか。
「そうだと思います。百何十人ものグループに気を使わなかったら動くものも動かなくなりますから。ただ野田さんに言っているが、小沢さんにも率直にものを言ったほうがいい。折り合わない所は誠心誠意説明して理解してもらうことに尽きると思う」

-昨年の代表選では小沢氏を支持しました。
「菅直人さんはなかなか素晴らしいタレントだと思うが、あの時点では剛腕の方がいいと思った。例えは悪いが、毒をもって毒を制すという気持ちでしたね」

-小沢氏との関係はいつ修復されたのですか。
「特に近いわけでもないし、疎遠だったわけでもない。同じようにずっと続いてます。春ごろにも会いましたし、時々会っています」

-そうした小沢さんとの距離感が首相の政権運営にも重要でしょうか。
「野田さんは距離感をちゃんと保てる人だと思う。前の方がちょっと挑戦的でしたからね、距離感が(笑い)。だめだと言って敵対してしまうと政治はうまく転がらない。

いつ味方が敵になり、敵が味方になるかわからない世界で、人間関係に腐心するのは基本中の基本でしょう。それができなければ政治的な能力を問われる」

-今後も首相の相談役・後見人を務めますか。
「私は相談役でも後見人でもありません。野田さんがどじょうなら私はフナみたいに泥の中に潜って、波を立てず、川の底で泥をかき回すくらいのお手伝いなら出来るかもしれませんね。だけど、それ以上は勘弁して下さい、ということです」

中国 出稼ぎ迷える新世代…朝日新聞9月18日1面より

2011年09月18日 13時48分46秒 | 日記
仕送り無縁 目標持てず

むっとする夏の暑さが残る夕方、中国広東省深洲。「世界の工場」として知られる街の屋台は、若い労働者でにぎわっていた。
浹西省の農村から出稼ぎに来た王波さん(22)は、水ギョーザをつまみに、青島ビールをラッパ飲みしながら上機嫌で言った。

「150時間近く残業した月、給料はこれくらいあるよ」。顔を赤らめ、片手でパアを作った。5千元 (1元=約12円)。「農民工」と呼ばれる出稼ぎ労働者の平均賃金の倍以上だ。

でも、お金は全く残らない。「俺みたいなのを。『月光族』と言うんだ」。月給を使い切ってしまう人たちのことだ。
職場は、台湾の大手電子機器メーカー「富士康」。米アップル社のiPhone(アイフォーン)などを請負製造する中国最大級の製造業だ。深訓だけで四十数万人、中国全土で100万人以上の従業員を抱える。

トウモロコシ畑が広がる農村に生まれた王さんは、高校を中退し、富士康にやって来た。電子機器用の鉄板を切断する仕事で、当初の給料は2千元弱だったが、深 では4月、最低賃金が20%引き上げられた。会社の昇級試験にも合格、基本給は7割増えた。

出稼ぎ労働者の例に漏れず、最初は会社の寮に住み込んだ。エアコンなしの16人部屋。「同僚の出入りがうっとうしくて」。工場の外に月500元で部屋を借りた。数年前は1日20元だった食費は今は50元に。ビトルも一番安い3元から6元の「青島」が好みになった。

仕送りには無縁だ。「両親にも収入がある。妹の大学の学費も親が出す」。だから、好きなようにお金を使う。昨年末、4980元のパソコンを買った。月に数回はカラオケに行く。

ぜいたくしているつもりはないが、「お金がどこへ行ったか本当に分からない」。それなりに満たされた生活の中で、何をしたかったのか分からなくなってきた。年末には田舎に帰ろうかと考え始めている。
 
耐える旧世代

地上121階建て、632メートル。上海の金融街で、中国一の高さになる「上海中心」の建築が進む。現場で働く約1600人の大半が40歳前後かそれ以上、「旧世代」の出稼ぎ労働者だ。

河北省から来た聾学海さん(38)もその一人。仕送りのため生活を切り詰め、3500元の月給のうち、自分で使うのは食費などの1千元程度だ。今年の春節 (旧正月)前には2万5千元を家に送った。

現場には20代以下の働き手は1割強しかいない。「自分たちの子どもの頃はみんな貧しかった。つらい仕事には慣れてるよ。今の若者は苦労も辛抱も知らないから肉体労働は無理だろうな」。

日勤を終え、30個25元の水ギョーザをほおばった。飲み物は頼まない。上海は物価が高いので「1、2ヵ月に1度のごちそう」だ。
    
実家に仕送りするため、自分を犠牲にして寸暇を惜しんで働くー。中国の成長を底辺で支えてきた農民工の姿が急速に変わっている。移り気で目標も定まらず、都市と農村の間を漂流する「新世代農民工」が増えている。

(上海=奥寺淳)

近代日本の中国認識 徳川期儒学から東亜協同体論まで 松本三之介〈著〉…朝日14面から。

2011年09月18日 10時33分55秒 | 日記
以文社・3675円/まっもと・さんのすけ 26年生まれ。東京大学名誉教授(政治思想史)。『明治精神の構造』など。

日清戦争が分岐点的確に通観

本書は、徳川時代から日中戦争にいたるまでの日本人の中国認識を的確に通観した好著である。日本人の中国への評価が極端に変わるのは、日清戦争後である。それまで抱いていた敬意、あるいは両義的な見方が消えてしまった。日本人は西洋列強に伍して、中国を見下すようになった。もちろん、中国やアジア諸国と連帯して西洋列強と対決しようとする考えも強くあったが、「東亜協同体論」がそうであるように、あくまで日本を「盟主」とするものであった。
 
ただ、この時期に関してはよく論じられてきた。あまり論じられないのは、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れてから(1842年)日清戦争(1894年)にいたるまでの時期である。それは中国がまだ超大国として存在していた時代である。本書で私が特に興味を覚えたのは、この時代である。なぜなら、それはある意味で現在に類似するからだ。
 
アヘン戦争後、日本人は中国の「中華」思想に対して批判的になるが、他方で、尭舜孔子によって開かれた「道」に対する敬意を失わなかった。その一例は、「東洋道徳、西洋芸術」を唱えた佐久間象山である。そのような流れの中で、特筆すべきなのは、「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民である。彼はルソーの「社会契約論」を翻訳紹介したが、その根底に儒教の道徳をおいたのである。
 
重要なのは、アヘン戦争以後、清国がその反省から、軍事面における近代化を急激に推進したことである。それとともに周辺諸国への政治的影響力を強めた。それが日本にとって脅威となった。日清戦争後には忘れられたが、それまでの日本は中国の軍事力を非常に恐れたのである。新聞「日本」を創刊した陸羯南は、安直な西洋化に溺れた日本に比べて、清国が自国伝統の文化を保持し、西洋化を軍事力強化のためだけに集中したことを称賛した。
 
評・柄谷 行人 評論家
 

決断できない日本 ケビン・メア〈著〉…朝日13面から。

2011年09月18日 10時23分58秒 | 日記
生々しい日米交渉の舞台裏
 
日本人は「自分たちが海外からどう見られているか」を異常なまでに気にする民族だ。だから外国人視点の日本論は定期的にベストセラー入りしてくる。
 
本書もその一類型だ。「沖縄はゆすりの名人」と発言したと報じられ、米国務省の役職を更迭されたケビン・メア氏が、取材は「反基地運動と組んだ私へのトラップだった」と大反論を展開するとともに、沖縄の普天間基地問題から東日本大震災での米軍の被災地支援「トモダチ作戦」にいたるまでの日米交渉の舞台裏を生々しく暴露している。

例えば米国が原発事故処理で提供できる品目リストを送ったところ、日本政府は「放射能で汚染されたら補償はどうなるのか」「性能は」といった長々とした質問ばかりを送ってきた話。
 
日本の官僚は細かいことばかり気にし、政治家は現実を直視せず、決断できない。その半面、米政府に対しては「自分たちを見捨てないで」という片思いの気持ちばかりを寄せてくる。メア氏が同僚だちと冗談で言っていたという言葉が強烈だ。
 
「われわれの仕事の半分は日本政府に対して『まだ愛しているよ』と言い続けることだね」 

そういう事例がいやというほど陥かれている。昭和の昔だったら「いや本当に日本人はだめだよねえ」と自ら苦笑し、それでもまだ明日の成長を信じることができた。日本人論はそうやって読まれていたのだ。つまりは日本人のいっぷう変わった独自性を自嘲的に確認するためのツールだったのである。
 
しかし時代は変わり、いまや日本は政治も産業も崖っぷちに立だされ、どこかで打開しなければ未来はない。自嘲の時代は終わったのだ。

そういう状況下では日本論も読まれ方は決定的に変わらざるを得ないだろう。ベストセラーとなった本書がいま、人々にどう読まれているのかが非常に気になる。(文春新書・819円=3刷10万部) 佐々木俊尚(ジャーナリスト)

彼女はなぜ「それ」を選ぶのか?パコ・アンダーヒル〈著〉…朝日16面から。

2011年09月18日 10時17分55秒 | 日記
仕様や性能ではなく物語性
 

モノが売れない、という嘆きをひんぱんに聞く。しかし本当だろうか。周囲の女性たちの旺盛な消費行動を目の当たりにしていると、従来の男性目線の売り方が機能しなくなっているだけでは?と思う。

博報堂のアドバイザーも務めるアメリカ人マーケッターの著者も「日本人女性に購買力があることは十分に裏づけられている」。

だったら嘆くよりも、どうしたら彼女たちに売れるのかを考えた方がいい。この本には家電、ギャンブル、ダイエット、オーガニック食品、SNS(ソーシャルーネットワークーサービス)と、あらゆる現場で著者が見聞きしだ女性の消費っぷりが満載だ。
 
その中でひとつ、女性消費者に絶対的に共通しているものがある。「物語性」だ。たとえばテレビを買う時、男性はスペックに目を奪われるが、女性はひたすら”そのテレビを置いた居間にいるアタシ”を想像する。

仕様、性能ではなく、それがいかに自分を快適にしてくれるかが、至上の判断ポイントなのだ。
 
著者が抽出する女性消費のキーワードは「清潔」「安全」「思いやり」「調節」。

調節とは、自分で思い通りにコントロールできること。そして重要なのは、それらが達成されると、男性にも売れるようになる、ということ。ああ、女性を大切にしなければ。

(福井昌子訳、早川書房・1890円)  評者:清野由美(ジャーナリスト)

たった10分で伝わる真実…。

2011年09月18日 09時05分42秒 | 日記
一昨日、自宅のウォーキング・マシーンで歩きながら、NHKBS1のニュース番組を観ていた時だった。

ジャクリーヌ・ケネディが大統領夫人だった時の事を放映していたのである。時間にして10分ほどだっただろうか。

芥川は、彼女に関心がなかったのだろうな、この10分間を観るまで、彼女が、極めて、真面目にと言うか、真剣に、…大統領夫人にはなりたくなかった、普通に、ケネディと家族を愛する主婦でいたかったのも、真面目に本気だったが…大統領に成ったからは、そうしようと、覚悟が備わっていた人だった事を初めて知った。

芥川にして、こうなのだから、20年超も、痴呆テレビを見続けた、日本国民の99%も同様であろうと芥川は確信する。

それが問題なんだと、再認識した次第…たった10分で分かる事…知っておいた方がい良い事すら伝えずに、延々と、芥川が指摘し続けて来た、一部芸能事務所に依る、一部芸能人のためのテレビ、及び、そこに従事する、何ちゅう仕事か、という有り様ながら、日本最高給を取り続け、日本をこんな状態にして、世界を不安定にして来た、手前だけ良ければ、それで良かった連中の20年超。

たった10分で伝わる真実…ケネディ大統領夫人の事だから、知らないよりは知っていた方が良かったのは無論…を伝えずに、じゃがたら顔や、ひしゃげ顔の、幼稚なレベルの、笑いや、話を流し続けた20年超、それが全ての問題…教育レベルの低下云々と言うなら、橋下徹よ、それが、本当の原因だ。

君は、その世界で、億を超える収入を得て、6人か7人か知らないが、この少子高齢化の状況=若者が搾取され続け、30歳に成っても定職もなく、年収200万円以下が、1,000万人超…結婚して、子供を作れる訳もなく…結婚して子供を作っても、劣悪な家庭環境にしかならず、果ては、虐待死の連発…貴方が大家族を作ったからと言って、そんな事で、貴方が、教育を語る資格があるなんて事には全くならない。

大阪再生とは、経済再生に尽きるのであり、それを為すのは、極言すれば、北ヤード=梅田の地力。

その北ヤードに、20年も掛けて、大阪の叡智を集めて、作った計画を、一瞬で反故にした、君と一緒で、痴呆テレビでアナウンサーをしていた市長が、サッカー協会の恣意的な話しに、貴方がたの習性として、ダボハゼの様に飛びついた。

君も賛同して、名前を連ねていた。そんな君が、教育を語ったり、君が代がどうこうと言いだしたりした事に、芥川は、明瞭に、橋下よ、好漢自重せよ、と、きちんと言う。

君が為すべきは、大阪を、元の大阪に戻す、豊かにすると言う事であって、それ以外の事ではないはずだ。


今日の、日経に於けるピカ一…23面、「奇縁まんだら」から。

2011年09月18日 07時19分01秒 | 日記
天才、勅使河原蒼風氏の孤独  瀬戸内 寂聴 
 
勅使河原蒼風氏と小原豊雲氏の日本の前衛華道を代表する二人の家元に初めて会ったのは、私の四十過ぎであった。世にでて間もない私は青臭いくせに気負っており、お二人に向って。

「先生方は前衛の華道を打ちあげた革命家でいらっしやるのに、どうして家元制度などという旧いしきたりに固執なさるのですか」
などという無礼極まる質問をしてしまった。その時、蒼風氏は面白そうにちょっと肩を前に進め、私の顔を真直ぐ見つめ。

「おっしやる通りです。でも物事をすすめるにはすべて段階を通らないと成立しません。前衛華道はまだ生れて日も浅く、人の理解も浅い。人々に馴れてもらうためには旧い家元制度に依った方が理解を得やすいのですよ」

とおっしやった。だだっ子をなだめるような優しい口調と温顔であった。恐れ入って私はその場に平伏した。 その後私はひそかに草月流の花展を覗くようになっていた。蒼風氏の作品はいつでも力強いデモンストレーションで、おっと人を驚かすような派手なものであった。それはいけ花というより、絵や彫刻と同じ一種の強烈な芸術作品であった。

ある日、突然蒼風氏からのお手紙が届いた。独特の一目見たら忘れられない雄渾な墨字が由緒ありげな和紙一杯に躍っていた。
「今朝テレビで着ていたあなたの赤い着物は実によかった。似合ってもいた。話の中で、あなたが無礼な質問者を一喝したのはさらによかった。人間はいやな時はいやと、はっきり言った方がいい。今はみんなが利口になりおとなしく収っていてつまらない」

というようなことが書かれていた。何を叱ったのか、全く忘れているが、蒼風氏の文字と墨の色だけはありありと覚えている。それから何年か経ち、御縁を得て、私は草月流の月刊出版誌 「草月」に短篇小説の連載を依頼された。さし絵は私の大好きな加山又造画伯だった。

熟慮の末、私は大人の花物語を書くことにした。総題は「花情」とした。毎回力をこめた。蒼風氏がこの連載を殊の外愛読して下さり、励ましのお手紙を戴いた。迫力ある仏手柑の絵に添えて、余白にことばが散らし書きされていた。

それから程なく霞さんとご一緒に寂庵へご来駕になった。愛用されている白いキャデラックは大きすぎ、嵯峨野の鳥居本の古道には入れないので、五百メートル前の清滝道で車を止め、そこからハイヤーに乗りかえて来られた。寂庵のたたずまいがお気に召したようで、こんな所で僧形で暮す私を、実に羨ましいと、くり返し言われた。

それ以来、御長女の霞さんとも、御長男の宏さんとも親しくなった。お二人とも個性的な強い志を受けついだ秀れた芸術家だった。
蒼風氏の強烈な個性と前衛思想は、日本では異端視されがちだったが、世界の前衛芸術家たちや評論家たちからは早くから絶讃され、サルバドール・ダリなどは感激して自宅に招いたりしている。

フランスでは一九六〇年に芸術文化勲章、六一年にはレジオン・ドヌール勲章を受章している。
生きている時から蒼風氏は天才の栄誉と、孤独を、全身からにじませていた。いつでも一分のすきもないおしゃれをして、大きなキャデラックに収っていたが、あまり長身ではない小肥りのその背はなぜか淋しそうだった。

その死は唐突な感がした。一九七九年九月五日、七八歳で他界している。
密葬の夜、草月会館には遺影が飾られていて、多数の参列者が合掌していた。華やかな女弟子たちは、誰も目に涙を浮べていた。

葬儀の終った後、私はひとりで、会館の七階に上ってみた。そこは蒼風氏の花以外の様々な作品が集められている場所であった。何度か観た作品群に、どうしてもまた逢いたいと思った。真暗な会場に残っていた会館の人が、あわてて灯を灯してくれた。

なつかしい絵や字が、どの壁をも埋めていた。雄渾な、自由な魂が、いきいきとそこに生きて躍っていた。蒼風氏が愛され、私も好きな「寒山」の詩の前に立って、はじめて押えていた涙があふれでてきた。

「人生百に満たざるに、常に千載の憂いを懐く」に始まり、「秤鎚、東海に落つ、底に到って始めて休むことを知る」で終る漢詩であった。蒼い深い海の底に、静かに身を沈め、はじめて休む時を与えられた天才の孤高な寂しい姿が見えるようであった。

激動の時代、空に舞う貞秀 世相・地理 執念の細密描写…日経17面から。

2011年09月18日 06時41分12秒 | 日記
五雲亭貞秀「浪花大湊一覧」
(1863年一文久3年、大判錦絵3枚続き、36.7×75.4センチ、神戸市立博物館蔵)
14代将軍、徳川家茂は文久3年、将軍として229年ぶりの上洛を果たした。京都から大坂にも入り、各地を視察した。将軍上洛は大きな話題となり、貞秀は「源頼朝公上洛」などと題して、各地の名所を大行列が通る3枚続きの大作を続々と描いた。本図にも、天満橋を渡り大坂城に向かう行列が見える

この日経の大特集を見て驚いたね。リフレッシュ休暇中の芥川は、1週間の内、4日、体力増強を兼ねて、淀屋橋からロイヤルホテルまで歩いて行き、昼食を摂って、また、歩いて帰って来ると言う事を繰り返していたのだが、肥後橋の直ぐ手前の、錦橋に、この、
「浪花大湊一覧」が、銅版画の様にして、橋の上に、鎮座しているのである。

その他の、数枚の絵を見た印象が、芥川が以前から考えていた、土建国家論を、サラリとメルマガに書かせる契機と成ったのだから。


五雲亭貞秀の生涯は、多くの浮世絵師と同様、謎に包まれている。しかし、その少ない資料を発掘した先駆的な研究からは、激動の時代の世相と全国の地理を克明に描き続けた、硬骨の絵師の肖像が浮かび上がる。
 
貞秀は、1807年(文化4年)、利根川沿いの下総国布佐に生まれた。広重よりも10歳年下である。本名は橋本兼次郎。人気絶頂だった歌川国貞(後の三代歌川豊国)の門に入り、歌川貞秀を名乗り、やがて五雲亭貞秀、玉蘭斎などの号を持った。
 
読本、合巻など版本の挿画から花鳥、武者絵の錦絵まで幅広く手掛けたが、貞秀の真骨頂は、何と言っても上空高く舞い上がって描いたようなスーパーワイドの鳥瞰図にある。昨年末から今年2月にかけて貞秀展を開いた神戸市立博物館によれば、転機は、貞秀40歳ごろとみられる富士山初登頂だ。赤黒い溶岩に覆われたごつごつとした岩肌を描いた初登頂の絵は、従来の浮世絵からは想像もできない荒々しい富士の姿を伝えている。貞秀は、嘉永年間(1848~54)に数度にわたり富士登頂を果たし、遠くまで見わたす大パノラマにみせられたようだ。

匠秀夫氏の「横浜錦絵と五雲亭貞秀」によれば、1852年(嘉永5年)ごろ、亀戸の家を訪れた後の漢学者、依田学海に、秘蔵の西洋画を見せながら貞秀はこう語つたという。百本や中国の風俗画は、絵を見る人のために、前面の人物や景色を描くだけで、その背後の情景に注意を払つていない」
 
なるほど、前面だけでなく後ろにも筆をさけ、とはいかにも貞秀らしい。上の「浪花大湊一覧」は、大坂の天満橋の北東側上空から、大坂の湊方面を一望した3枚続きの大作だが、橋の精密な遠近描写に、息をのむ。さらに中景の蔵屋敷が立ち並ぶ大坂の町から、天保山の見える湾内、そしてはるか遠く紀州・加太や淡路島の島影までを、びっしりと描き込んでいる。近景と遠景の絶妙な取り合わせと省略が光る広重の作品とは対照的で、背景描写への愚直なまでのこだわりが感じられる。

…降略。

アジアのシャイニング・スター。(Shining Stars in Asia)

2011年09月18日 01時04分22秒 | 日記
GOI(ゴイさん)、今日、弊社専務と会っていた時に、もう20年近くに成りますか、貴方を紹介してくれたAさんから、連絡が在り、FAXが入った、と。

そう言えば、12日に、治療中の芥川の所に、Aさんから電話が入っていたのでしたが。

貴方が2011年9月12日号の、フォーブス、Asiaの表紙を飾っていると。

相変わらずのPOPIAH KING(春巻き大王)の尊称の元(笑)

おまけに、シンガポールの40人の大富豪の一人であるとの紹介文と共に。

いつもと、全く変わらない貴方独特の風貌と、常に絶やさない独特のsmileで。

総量規制で、徒に傷つけられた僕は、もう貴方に、経済的なパワーでは、伍する術もないが、別な、ブレインパワーで、貴方に伍して行く事になる、と、最初の出会いで感じた通りの今です。

伸びてゆくスピードが速すぎないかと、A氏に言ったという、貴方に、貴方のご長男に、芥川が、全くの同年代として伝えた事は、「貴方は何処までも、無限に伸びて行くべきだ、東南アジアのシャイニング・スターに成るべきだ」、と、言うものでした。

貴方は、あれから快進撃を続けて、終に、フォーブスの表紙を飾った訳ですが、芥川も、自分の使命は果たしました。

思索の領域で、芥川は、東南アジアのシャイニング・スターに成ったのです。

12月の初めには、その事が、事実で在る事が、黙って判明します。

貴方は、実業界の、アジアのシャイニング・スターとして、更に、邁進されるでしょう。

芥川も、思索と言う領域、言葉と言う領域に於いて、東南アジアの、否、世界のシャイニング・スターとして、邁進し続けます。

貴方と芥川の共通項は、紹介者のAさんが言った様に、裸一貫から始めたと言う所と、もう一つ…それは、いずれ、メルマガにでも書きましょう。

「柳田国男と梅棹忠夫」自前の学問を求めて 伊藤幹治 岩波書店 ¥2,600円について。

2011年09月18日 00時30分00秒 | 日記
前章は、「「遠い夜明け」については、芥川は、言わば「食わず嫌い」になっていて、一度も観た事は無かったのだったが、と書き出して…昨日を持って、或る面で、ピカ一の本「日本人は何を捨てて来たのか」を読了し、本日から、折角、弊社専務からプレゼントされたにも関わらず、少し、食わず嫌いで、置いていた本「柳田国男と梅棹忠夫」…芥川は、何故か知らぬが、柳田国男と聞くと、食わず嫌いに成る様な、感じを、持っていた(笑)

が、読むべき時だぞ、との思いが有って、今日から読み出す事にしたのだったが、筆者に依る最初の「まえがき」で、食わず嫌いは、一瞬で、吹き飛んだ。…今日は、体力増強と食事を優先したので、その部分だけで止めたが、明日から、一気に読んで行くでしょう。

今頃に成って、柳田国男について読み出すのも、また、楽しからずや、でしょう(笑)


先日、「遠い夜明け」を偶々観た事を書いたが…。

2011年09月18日 00時10分00秒 | 日記
先日、「遠い夜明け」を偶々観た事を書いたが、あれは、全く偶然、CS、シネフィル・イマジカで放映中だったものを、丁度、真中頃から観たのだった。

あらゆる名画、傑作が、そうであるように、どこから観ても、見た瞬間のカメラアングル、或いは、パースぺクティブ、画面の奥行き感というか、そういう何かで、一瞬にして、「やっぱり、この映画は良いぞ」と思わせるものが在るのである。

一昔前の、日本のテレビドラマの様な、アップの連続の韓国製ドラマが、ブーム(本当のものかどうかは芥川は全く検証はしていない)だというが、単に、買い付け価格が安いだけだと言うのが、各社が、やたらに、所謂、韓流(アエラに、韓国の関係者が、韓流なんてものは無いと、インタビューに答えて言っていたが)ドラマを流している真相なのだろう。

この事を持ってして、日韓関係が、真に友好的な物に成っているとは、芥川には、とても思えない。例えば、向こうで、有名な日本人タレントと言えば、誰も知らない女優が一人と、なんかの拍子にテレビに出て、有名に成った男性、一人位のはずだと芥川は、思っている。

日本の様に、各界で、バリバリ働き、活躍している在日の人たちや、まるで日本の代表的な知性の様な扱われ方をしている大学教授等は、韓国には一人も居ないはずだ。

いつ何時、しょうもない事で、自分達の国の生き難さを、相手にぶつける、下らないナショナリズムの大声が、出てこない保証は、まだまだ、思いを遠山の夕べの雲にはす、と言った所だろう。

以前よりは、ずっと、自然に成り、遥かに多く、偏見等は消えて、自然体で相対出来る層が格段に増えている事は間違いが無く、真の友好にグーンと近付いて居るのだろうが、これからは、例えば、韓国のテレビにも、日本の知識人等が、頻繁に登場する、そういう事が、必要なのだろうと、芥川は思う。