文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

小宮山大臣における専業主婦とたばこの関係 小倉千加子…週刊朝日9・23号から。

2011年09月17日 08時28分02秒 | 日記
小倉千加子   芥川が当代一流の知性として敬愛している事は既述の通り。
おぐら・ちかこ 1952年、大阪府生まれ。心理学者。芸能にも造詣が深い。最新刊は『結婚の才能J (朝日新聞出版)


読売新聞大阪版の朝刊に 「言わせて!」という名の投書欄がある。
 
そこで先日、「子育ての支援」というテーマで意見を募集したところ、「専業主婦で子育てをしている人は、置き去りにされている感じがあります」という内容の投書があった。
 
子育て支援と言うと、働く女性に対する支援として保育所の問題などが取り上げられ、子育てをしている専業主婦は最初から無視されている現状への不満が語られていた。
 
この投書にはたくさんの反響があったという。
 
「24時間、365日、子供と一緒。それは、日々成長する子供を見る喜びとともに、大変疲れることでもあります」(大阪府 主婦)「(専業主婦は)経済的に楽ではないし、このご時世なので先のことも不安です」(滋賀県 主婦)
 
「子育て」を「介護」に置き換えても、家庭の中で黙ってそれに従事している専業主婦の悩みは同じである「他人に頼めないし、誰かがしなければならないことだから自分がしている」「でもとても疲れるし、不安だ」
 
かつての自民党には「家庭教育」や「在宅介護」の価値を説く議員が目立ったのに対し、民主党には介講や育児の「社会化」を説く人が多いように思われるが家庭の無償労働を社会化するのは、当事者である専業主婦を救済するのが本来の目的だったはずである。
 
ところがその目的と手段を逆転させ、専業主婦という身分そのものをなくそうとしているとしか思われないのが、小宮山洋子厚生労働大臣である。
 
民主党の子ども政策の代表である小宮山氏は「配偶者控除は廃止し、子ども手当の財源にするはずだった」と言う。
 
夫婦のうち一方が外で働き、もう一方が家にいるという取り決めをするのは二人の自由である。そういう個人間の契約に国家が介入するのは如何なものか。
 
小宮山氏には、女性が「自立」していることが理想なのだろうが、「自立」することは「安定」を失うリスクを負うことなのである。
 
会社を辞めて自由になりたい人は、何度も何度も考える。
 「自由のために安定を失っていいのか?」
 「安定のために自由を捨てられるのか?」
 「会社」を「結婚」に置き換えていただきたい。
世の中には「安定した不自由」と「不安定な自由」しかないのである。
 
配偶者控除という税制自体、国家の介入なのではあるのだが、そういう優遇でもなければ妻は簡単に家を出ていってしまうだろう。妻が出ていくのは構わないが、母が出ていくと現実問題として小さな子どもが困るのである。
 
結婚制度というのは、子どもが小さい時に安定した家族を提供してやるために、母の「自立」願望をある程度遅延させ抑制させるものである、としか私には思われないのである。
 
「自立」を先延ばしにして安定」を選ばせるために「給料」というものがある。それが配偶者控除であり、即ち「辛抱料」である。辛抱しているうちに無事定年を迎えましたという人もいるのだ。それをなくして、小宮山大臣は主婦を世間の荒波に放り出すつもりなのだろうか。男女は平等だからといって離婚の慰謝料を廃止したノルウェーのような人である。理念は分かるが、現実と乖離している。あるいは、主婦の実在を意識から置き去りにしている。
 
結婚制度は必要なのである。経済的に夫に依存しなければ困る人がいる以上、必要悪であっても必要なのである。たばこと同じということだ。 (この項続く)

石橋 湛山(いしばし たんざん…ウキペディアより。

2011年09月17日 01時00分00秒 | 日記
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。
大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第12・13・14代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。
早稲田大学から名誉法学博士(Doctor of Laws)を贈られている。


戦前は『東洋経済新報』を拠点に、一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えて、日本の敗戦後は日中米ソ平和同盟を主張して政界で活躍する。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣する。退陣後は中華人民共和国との国交回復に力を尽くした。
実父は身延山久遠寺第81世法主杉田日布。

生涯

生い立ち
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)[1]として生まれる。 実父の湛誓は、当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手→助教)を務めていた。母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。故あって母方の石橋姓を名乗った[2]。

学生時代
1885年(明治18年)に父・湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡富士川町)に在る昌福寺の住職へ転じる為に、母親のきんと共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと転居する。1889年(明治22年)に、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居する事になり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校する。

1894年(明治27年)に湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じる事になり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村 → 若草町、現・南アルプス市)に在る長遠寺の住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。

中学生時代、かつて札幌農学校(現・北海道大学の前身)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けた校長・大島正健との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えており晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。

1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している[3]。 翌月に、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験の為に上京。その際に、正則英語学校[4]に通っている。

だが同年7月の試験は、不合格であった。翌年に再度受験するが、またもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。こうして、東京での下宿生活が始まる[5]。

ジャーナリスト時代
早稲田大学を卒業して、更に一年間研究科で勉強する。1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は東京毎日新聞を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社する。

兵役を経て東洋経済新報社に入社する。大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する等(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。1924年(大正13年)12月に第五代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。また同年から1936年(昭和11年)まで鎌倉町議会議員を務める。

部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては1円=金2分(1/5匁・0.75g。旧平価)での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価金海禁)を勝田貞次らと共に主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張する池田成彬や堀江帰一、大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政面では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張する。

日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書く事が困難だった多くのリベラリスト(清沢洌等)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいておりかつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていた為に、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れる。

太平洋戦争では、次男和彦が召集され戦死している。

日本敗戦直後の1945年(昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張している[6]。

政界へ
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年(昭和21年)に日本自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田内閣の大蔵大臣として入閣する。

大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進する。

しかし戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げる様に、石橋は要求する。アメリカ合衆国は諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。

戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令によりGHQによって公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。

1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。1955年(昭和30年)11月、日中輸出入組合の結成を支援し中国との貿易が軌道に乗るようになる。

同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。
総理総裁


内閣総理大臣に就任した頃


外務大臣岸信介(最前列左)、大蔵大臣池田勇人(最前列右)ら石橋内閣の閣僚と石橋(最前列中央)
詳細は「石橋内閣」を参照

1956年(昭和31年)10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ。1回目の投票では岸が1位であったが、決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかしながら前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ足並みが乱れ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的にほぼ全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している(一人内閣)。

親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいために岸を望んでいたアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは狼狽したという。岸派より主張された「党内融和の為に決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理が無くなり、副総理格は岸が就任した。

内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。

1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席[7]して答弁できない状況の中での辞任表明には、野党でさえも好意的であり[8]、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたいもの」と述べたと言う。

石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王・羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説[9]や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。

石橋はかつて『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃されて帝国議会への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。

退陣後
幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。
1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中華人民共和国を訪問した。

政府の一員ではない石橋は訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。

この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。

その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど自民党内ハト派の重鎮として活躍したが1963年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。

女の敵…週刊朝日9・23号、室井佑月さんの連載コラムから。

2011年09月17日 00時10分00秒 | 日記
女の敵は女だといわれている。たとえば自分の男が浮気したとき、女は自分の男ではなくて相手の女を責める人が多いじゃないか、などともっともらしいことをいう人がいる。
 
あたしは自分の男が浮気したら、男を責める。三角関係などないと思っていたりするので。
 
AとBがつき合っている。AはCともつき合っている。それはAとB、AとC、二つの関係でいい。
 
なぜそこで、CとBを結びつけるの? 複雑なのは嫌いじゃ。
 
もっと、大雑把に考えてもいいかもしれない。
 
どうせ超能力者じゃないのだから、相手の本当の気持ちなんてわかりっこない。なら、自分の気持ちに正直に、という方法だ。
 
浮気がどうしても我慢ならないのだったら、別れる。浮気していても手放したくないのだったら、別れない。これならば簡単だ。
 
おっと、話がそれてしまった。あたしが話したいテーマは、女の敵についてであった。
 
先週、週刊S(新潮じゃないほう)の女性記者から、取材の電話がかかってきた。
 
「野田首相誕生を女はどう見ているか」というような内容であった。
 
そうね、あたしは野田首相についてー強引にTPPや消費税アップを進めようとするのは、官僚寄りの人だからじゃないかとか、野党とも繋がりがありそうな人を内閣に入れたのは、考えて喧嘩をするタイプだからじゃないかとか、演説を聞いて明るそうな人だったから、それだけが救いのような気がしたとかーそんなことを思ったので、そう答えた。
 
どうとでも使えるよう結構、幅広く答えたつもりだ 30分くらい話しただろうか、女性記者はいった。
 
「もっと女の目線で答えてください」
 
女の目線というのがよくわからない。それからまた10分くらい話をして、記者が、野田首相に対し、顔や形やイメージで答えろといっているのだとわかった。夫や彼氏としてたとえてはしい、と。
 
そんなこと、今している場合か! 本気で女は、そんなことしか考えないと思ってるのか?
 
あたしとあたしのまわりの女たちは、地震の活動期についてだったり、原発事故の放射能汚染の問題だったり、止まらない円高やデフレについて話をしてるぞ いったい誰を対象に、記事を書いているのか。女ではないことは確かだ。
 
男尊女卑の男どもが、女を馬鹿にして喘うため?

そんなわきゃないだろう。人口の半分は女なのだし。
 
女が女を馬鹿にするような記事を作ることに対し、この記者はなにを考えているのか。あたしはこの人を、女の敵だと思ってしまう。
 
本当はこのことについて、女も男もないのかもしれない。女を馬鹿にするやつは、みんな女の敵である。
 
でも、同じ女にそれをやられると、たまらなく苦々しい。女の敵といいたくなる。

むろい・ゆづき 作家。 1970年、青森県生まれ。「小説新潮」誌の「読者による性の小説」に入選し作家デビュー。テレビ・コメンテーターとしても活躍。著書に『ぷちすとバイパー!』(中公文庫)、『ママの神様』(講談社文庫)など。