文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

王子製紙が南米進出…朝日新聞8面から。

2011年09月23日 13時43分48秒 | 日記
王子製紙は22日、ブラジルの紙パルプ製造大手フィブリア社から感熱紙事業を240億円で買収すると発表した。

製紙事業での王子製紙の南米進出は初めて。29日付でサンパウロ州のエ場を買い取る。この工場の2010年の生産実績は12万トン。

王子製紙はブラジルの感熱紙市場で最大手になる。

感熱紙はレジのレシートなどの使い道で需要が伸びており、王子製紙の海外生産拠点は米、独、タイに続き4ヵ所目になる。

昨日、手元に届いた今週号のニューズウィークも、最低50万部は購読されるべき内容満載

2011年09月23日 12時22分48秒 | 日記
昨日、手元に届いた今週号のニューズウィークも、最低50万部は購読されるべき内容満載のものなのです。

今日は、その中から、小さな囲み記事ですが、芥川が何度か言及してきた韓国の実態…特に、「韓国は生き難い社会で在る事を知るべし」、の章を、完璧に、実証してくれているものを、ご紹介します。

格差の広がる韓国で財閥が冬の時代に     文中黒字化と*は芥川。
 
「自動車や携帯電話のおかげで国外では尊敬されているが、国内では社会の敵扱い」と先週米ニューヨーク・タイムズ紙が報じるほど、韓国で財閥批判が高まっている。
 
サムスン、LG、現代など韓国の財閥企業は08年の金融危機以降、欧米や日本企業を尻目に外国市場で売り上げを伸ばしてきたが、その一方で国内の格差は拡大。昨年のOECD調査では、貧困層の貧しさの深刻度を測る貧困ギャップ率がワ-スト4位、人口10万人当たりの自殺率は21・5人で最悪だった。
 
教育費をつぎ込んでも、名門大学を卒業して安定した財閥企業に入れるのはわずか。広がる格差とインフレで負け組には財閥への妬みに似た感情が広がり現代自動車グループの鄭夢九会長は先月、低所得家庭の子供たちの教育に私財5000億て(約355億円)を寄付すると発表。政府も、金持ち減税と呼ばれた法人税・所得税の最高税率引き下げの撤回を余儀なくされた。
 
来年12月の大統領選では格差是正が争点になるだろう。

政策面で優遇されてきた韓国財閥が、冬の時代を迎えるかもしれない。
    
長岡義博(ニューズ・ウィークの気鋭の記者です)


*このような国に学ぼう等と言って来た方々は、大いに反省されるべきでしょうし、そんな事は、新聞やetcを、ちゃんと読んでいれば、誰にでも分かる事なのだから。

日本株に魅力はないのか③ 企業の質、長期で株価と相関…9/22日経夕刊5面から。

2011年09月23日 11時56分58秒 | 日記
中神康議氏   文中黒字化は芥川。
 
株式投資には様々なスタイルが存在します。時間軸で見ると、分単位で売買を繰り返すデイトレートもあれば、米著名投資家ウォーレン・バフェット氏のように何十年も保有する手法もあります。また銘柄の選定についても、高度な数理モデルを駆使する投資家もいれば、業界動向や事業内容を綿密に分析する投資家もいます。
 
筆者は、経営が優れた企業を選んで集中投資し、じっくりと保有する手法が個人投資家に適していると考えています。

グラフは過去20年の株価騰落で企業をグループ分けし、売上高成長率などの平均を示したものです。

成長性、収益力、資本効率などの点で「質」の高い経営をしている企業の株価はきちんと上昇していることが分かります。企業経営と株価との間には長期的には明確な相関があり、株式市場は有効に機能しているのです。
 
一方、1年間の株価騰落で同じ分析をすると、営業利益の成長率以外に株価との相関はみられません。

つまり、短期的な株価上昇でリターンを上げるためには、「来年の利益は今年よりどれだけ増えるのか」の一点について、競争相手を出し抜く「早耳ゲーム」に参加しなければなりません。しかも、このゲームは情報量で機関投資家らに劣る個人にとって極めて不利なゲームなのです。
 
機関投資家と違い、個人は毎四半期の運用成績に一喜一憂しなくて済むという優位性を持っています。

日々の細かな情報にいちいち反応しないといけない、つらいゲームにわざわざ参加する必要はありません。

個人にとっては「集中・長期投資」が王道だといえるでしょう。

考えてみれば、昨日は、最低でも100万人の国民は、今すぐ、今週号の週刊朝日を買って読むべし、と言う

2011年09月23日 11時42分51秒 | 日記
因みに、昨日と一昨日の結果は、下記の通りだったのですが、考えてみれば、昨日は、最低でも100万人の国民は、今すぐ、今週号の週刊朝日を買って読むべし、と言う、大アジテーションを行いましたから(笑)

芥川の、有り難い多くの読者の方々は、どっと週刊朝日の購読に向かったのかも(笑)

2011.09.22(木) 5248 PV 704 IP
2011.09.21(水) 8019 PV 954 IP


雑感 二人の、これ以上ない悪人と、二人の善人。

2011年09月23日 08時51分16秒 | 日記
今、芥川の身辺と、芥川のビジネスを取り仕切ってくれているのは、二人の女性なのである。

善人であるが故に、悪と対処するのは、大変なストレスと戦いながらの作業。

昨日、ちょっとした連絡が有って、電話をした時に、通常なら仕事を終えたくつろぎにいるはずの時間にも、ストレスが一杯だった事は、電話の声の響きだけで分かった。

そのストレス=怒りが、芥川の心にストレートに伝わって来た。

おまけに、芥川の身辺をみてくれている方に、ちょっとしたメールをしようとして、メールを開けた時に、これ以上ない悪人の方割れが、あろうことか、FC2に、コメントと称して、芥川の実名入りで、ふざけた事…正に、今すぐ、殺すしかないかと言う様な怒りを、瞬時、覚える様な…ネットの世界で、一番、問題な、醜悪な形…これ以上ない様な悪人の成す事だから、読者の方には、容易に想像出来るような内容のメールを目した後だったから、尚更だった。


以前に、芥川は、今、言わば、この世で、最も高貴な人が居る場所に居ると書いた。皆さんが気遣ってくれた夜。
今、芥川が全幅の信頼を寄せている方までが、夜だと言うのに、私服で来てくれた。

そんな夜の翌朝に、突然、信長、秀吉、家康殿の後三方が、芥川の枕元に現れたのだった。

尚の事、芥川は、書いて、書いて書き続けなければならないのである。

辺見庸とは、違う輝きを放って。

雑感 辺見庸と芥川の状況の違い…信長、秀吉、家康殿も現れて。

2011年09月23日 08時11分04秒 | 日記
辺見庸の怒りは全てに於いて普遍的なものなのである。彼が、今、抱えている二つの癌に至るまで。だから彼は全てを書いていいのだし、書いて、書いて書き続けている。

とても素晴らしい、これこそが言葉として、当代最高の輝きを放って。

その辺見庸が、石巻出身で、同じ宮城県人であった事も、芥川は、とても誇らしく思っている。

何故なら、彼は今、光線の束となって、この国を照射しているからだ。
その光線の強さと眩しさは、読んだ者全てに伝わり、何かを変えずには置かないからだ。

一方、芥川の場合はどうか、芥川の怒りは、二人の悪党に対するもので、あまりにも具体的過ぎて、「殺しても飽き足らない」、という様なことにしかならないのである。

これ以上無い様な、悪を働いた者の一族を根絶やしにする、その様な懲罰の与え方が、わずか数百年前の日本には在ったのだがな、と、夢想するしかないのである。

この、具体的で、これ以上ない様な悪に対する対処の仕方としてだけは、イスラム法の方が、現代の、日本の裁判制度よりは優っている、と、思う事が有るのは、芥川一人ではあるまい。

心が爆発し、はらわたが煮えくりかえる怒りを、こらえて生きている様々な被害者は、日本中に、それこそ、無数にいるはずだ。

今朝も、芥川の枕元に、現れた、信長、秀吉、家康殿は、「世が世ならば、わしらが、ぶった斬り、一族根絶やしにしてくれるのだが」と、歯ぎしりして、たまたま、少しばかり、どうしても、怒りを感じて、少しばかり不具合が生じた、芥川に手をさし伸べるために、久し振りに現れたのだった。

皆、口々に、『芥川殿、日本国と世界に対する「解答」読みましたぞ。感銘つかまつった』

いずれ、わしらが必ず成敗してくれる。それまで、辛抱されて、お体、御自愛して下され。
芥川殿の言葉を、わしらの為にも、書いて、書いて書き続けて下され。

わしらは、貴殿が書くのは、全て日本国、ひいては世界の為、とは知っておりますゆえ。

この悪人どもの事は、わしらに任せて下され、芥川殿は考えてはならぬ。芥川殿の道を邁進して、日本国を救って下され。

その様に、芥川の枕元で話して帰って行かれたのだった。

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)

2011年09月23日 06時43分21秒 | 日記
ウィキペディアより。


後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。

伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。位階勲等は正二位勲一等。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、『都市計画家』である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した(都市計画の項も参照推奨)。

生い立ち・医師時代

仙台藩(水沢藩)・陸奥国胆沢郡塩釜村(水沢市を経て、現在の奥州市)出身。留守家家臣・後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の大叔父に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩をもつ。

胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。

後藤本人は最初から政治家を志していたとされるが母方の大伯父である高野長英の弾圧等の影響もあって医者を勧められ、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期安場の次女、和子を妻にもらう。

明治14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場が開かれるが、これは後藤の指導によると伝えられている。この前年に開設された日本最古の医療目的の海水浴施設沙美海岸(岡山県倉敷市)に次ぎ、同じ年に開設された富岡海岸(横浜市金沢区)、兵庫県須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を持っていた。

医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。
明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

明治26年(1893年)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

「生物学の原則」に則った台湾統治
明治28年(1895年)4月1日、友人の推薦で復帰。日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司(臨時陸軍検疫部長)だった陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎の目にとまる。

明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの女房役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら『生物学の原則』に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。

それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。

台湾の調査事業
まず台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都帝国大学教授で民法学者の岡松参太郎を招聘、また自らは同会の会長に就任した。また同じく京都帝大教授で行政法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。

これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

人材の招聘
開発と同時に人材の招聘にも力を注いだ。アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。

スカウトされた新渡戸は、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代だった。

阿片漸禁策
当時は、中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。また「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。

まず阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。

この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。

こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。

満鉄総裁
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。

当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まずアメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。

そこで新平は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。
ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。

また北満州に勢力を未だ確保していたロシア帝国との関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図している(ただしこの会談は伊藤がハルピンで暗殺されたため実現しなかった)。

当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。

…以下は次章に。

Hさんは良くご存じの、芥川の今の状況の中では、朝一番に出て来るgooの結果というのは、

2011年09月23日 06時16分44秒 | 日記
Hさんは良くご存じの、芥川の今の状況の中では、朝一番に出て来るgooの結果というのは、思いのほか、励みになっているのですね。

以前に書いた様に、出来るだけ早くに、全160数万ブログ中、一桁の順番に突入したいな、と。

今朝、5時に目を覚まし、ちょっと早すぎるかなと思ったのですが、そうだ、gooを、見てみようと…最初に結果が出て来るのですが、今朝に限っては、ちょっとでもアップしてくれていた方が良かったのですが、残念な事に(苦笑)、ちょこっとダウンしていたのでした。

Gooは、まるで株価の様に、上がっては下がりして行くのですね。まるで一歩前進・ニ歩後退を繰り返しながら、漸進して行った日露戦争の203高地の戦いのようなものです(苦笑)

因みに、何と後藤新平の孫であった、鶴見たいじんは、日本が悪しき方向へ行ったのは、この戦争の後、1905年が、ターニング・ポイントだった、と指摘していますが、全く、その通りだと、芥川も同感する。

引く事を知って戦争をした人間たちが居た結果として、戦勝という形が取れた事が忘れられ、引く事を知らない、軍とマスコミの狂躁が始まった年だと、芥川は解釈する。

鶴見たいじんは、引くポイント、戦争を終えるポイントを知って戦を開始した、江戸のせいぜい寺子屋や私塾上がりの、明治時代で言えば、高等小学校位しか出て居なかった、下級藩士出身の、現実から汲みあげて、確かな智恵としていた人間達、その、揺るぎない人間力を持った人間達の時代が終わり、東大一番病に支配される国と成った。

これが一番良くないのだ、と、何度も言及している。これにも芥川は全く同感する。

その典型であった自分の父親である鶴見祐輔を、一番典型的な実例として批判し続けながら、一番病が何故良くないかを、正に肌身で知った実例として差し示し続けている。

今、ふと思ったのですが、鶴見たいじんは、芥川と同様に、こういう点に於いては、現代の「織田信長」なのではないか、と…以前に、秋山駿の名著、「信長」、から、芥川が引用した章を、御参照下さい。