本当に中高生から老人まで、万人に「それ」が普及する時代まで、わたしが生きているコトはないでしょう。
スマホは、ケータイが賢くなった、という10年の変化ではなく、コンピュータが個人の持ちモノとなる(=パソコンの誕生から社会全体の個人への浸透)という40年の変化の先に位置するできごとです。
これがケータイの形をとらず「より、ウェアラブルなモノ」に進化し、しかも社会というハードがそれを受容するには、まあ30年は必要だろう、と。
Google-Glassなんて、そんなモノ着けてクルマでも運転された日にゃ^^; 命がいくつあっても足りないし。
ことほど左様に、人間がコンピュータと同体化するのは、義足や眼鏡のときのよーにゃ参りません。 ナンらかの、社会の構造や制度、生活様式などが併行して変化を遂げてゆく必要があります。
少なくとも向こう四半世紀、手鏡、TV、ラジオ、カメラ、アルバム、時計、音楽プレーヤー、財布、ネット端末、手帳、新聞、辞書、地図をひとまとめに持ち歩くなら、ケータイに合体させるのがベスト・・・という(現時点の)選択肢が揺らぐ可能性はゼロに近い。
それを「スマホ」と呼ぶのであれば、スマホの次!?を収益の柱にしようなんて突拍子もない妄想は、軽々しく抱かないほうが利口というモノですよ。
そんな見た目の変化より、ですね。 低所得人としちゃ、プロバイダ業者やケータイ会社から開放された「真に完全無料な」世界ネットの構築される日が来ないかなあ。 それなら喜んで端末、買うけど(本末転倒:爆)