われわれ貧乏人世代は、休みをうまく使うのがむつかしい。毎日が日曜の老人になっても同じ。
今年の計画は、いかに遊びの時間をうまく使うかだ。現職の諸君と違って退職老人はみんなに迷惑をかけぬよう、イジイジ遊び暮らすといのが仁義というもの。
そこで退職自由人=江戸の退職御家人は、今日1月4日は、田無神社にお参りに参りました。
ここは字のごとく、田んぼのない畑地で、昔から広大な荒蕪地として、わずか生き延びられるだけの少数の百姓が鎌倉時代頃から、わずか水の湧く「谷戸」というところでイジイジ暮らしてきた。こういう地域である。
家康の江戸入部以来、江戸の都市建設に必要な壁土の珪砂を得るため、大久保長安が青梅にその材料を求め、その送付のため青梅街道を作った。
その街道の宿場町に田無が定められ、地域住民はここ現在の青梅街道沿いの田無宿に移動させられた。生活の基盤が宿場町でのサービス業に変わった田無住民は、現在の地に父祖の神社を移したしたというわけ。
現在の田無は東京のベッドタウンとして、かっての田無市から西東京市という色気も文化もない名前に代わっているが、東京の郊外の町という性格は変えられない。ここで、歴史を知らない世代の若い人やよそ者が単純に田無神社「水神様」を拝んでいるのがよろしいい。
このあと退屈御家人は、新宿で乗り換え、小田急線の、代々木八幡神社へ 参拝に参りました。ここも明治神宮建設の前は、広く代々木村があり、その総鎮守宮であったのだ。今は隣の明治神宮に客を取られて弱小の神社となっているが、世が世なれば大変な神社なのだ。ちなみに、代々木八幡の境内に、弥生時代かってここに住んでいただろう弥生人の住居モデルが復元されている。退屈御家人としては、こっちの方が関心ありだ。
ここから、新宿まで歩いていきました。近代的バイパスが昔の代々木村を切りきさんでいるが、これも時代の進歩のなせる技。進歩=破壊=建設=新時代=新住民の新しい生活=新文化となる。
時代に適応できないと「淘汰」される。ちなみに、田無神社は、知恵を働かせて現代に合致する方法で知恵を絞り、神社として生き残る道を模索しているのを見て、その態度よしと。