江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

長崎旅行 3

2013年07月06日 11時08分09秒 | 歴史を旅する
長崎の地は、司馬遼太郎によると、大村純忠配下の長崎甚佐エ門(千石程度)が受洗後、その屋敷隣にトードス・オス・サントス教会が建てられたと。つまり私領を最初の外国人神父のルイス・デ・アルメイダに譲り教会領として、1580年この教会がたてられた。



ポルトガル人が平戸から横瀬浦・福田浦をへてこの長崎の地に移り、貿易と布教活動を表裏一体とする。
この背景は「時代というものは魔法のようなものだと思わざるをえない」と司馬遼太郎の言うように、16世紀後半では日本人は国家意識を持たず、外国人が勝手にその欲する土地を決めても別に不思議と思わなかったようだ。ポルトガルはインドネシアのゴアを根拠地とし、中国にマカオ、日本に長崎と構想していたと。

時代は急速に変転。秀吉の統一政権が九州に及ぶのは長崎が教会領になってから8年後天正15年(1587年)と。秀吉は長崎の実情に驚き、1587年バテレン追放、教会領をことごとく停止しここを官地とした。




 初代の長崎奉行は秀吉の部下で、以後明治元年1868年に長崎奉行所が廃止されるまで、277年間127代の幕府官僚が務めた。

1596年、26教徒を処刑。今は26聖人殉教地となっているが、昔は今の長崎駅あたりは海に接する辺鄙な地で刑場であった。

そして1612年の禁教の時代となると、長崎市内の南蛮寺関係は一切棄却され、何も残っていない。トードス・オス・サントス教会は完全に壊され、現在の春徳寺(真宗か?)に改築させられて今に続く。
1626年には踏み絵が、1637年には島原の乱が。

そして1859年に安政の開国となり、キリスト教教会がたてられると、大浦天主堂に隠れキリシタンが200年以上経って現れるという奇跡がおこった。



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