1、倭国大乱(魏志倭人伝のいう)と邪馬台国九州か近畿か。その背景の根幹は、
①緊迫した国際情勢に対応した混乱
②北九州勢力が東方への進出圧力の摩擦
③鉄資源争奪戦争
2、①説:30ケ国近い西日本のクニグニが連合の首長として卑弥呼を女王にし、その結果、騒乱が収まった。
この政治連合がヤマト王権で倭国。この特徴は前方後円墳を持つ。卑弥呼の死とともに、ヤマト政権に拡大。
ここでは、複数の有力集団から交代で王権につくという形。
卑弥呼に対立していた東方の狗奴国とは、濃尾平野にあったクニであろうが、卑弥呼の死の後、ヤマト王権の倭国連合に服属。
前方後円墳とその埋葬方法は、吉備の国・阿波のクニのそれに近い。吉備の国がヤマト王権のリーダーシップをとったのでないか。
なぜなら、西日本のクニグニは、ヤマト王権を作らざるを得なかった。当時、大陸では黄巾の乱・北方民族の侵略で後漢が急速に衰退。その結果、倭国の大陸文化受容の窓口であり、近隣諸国から頭一つ抜きんでていた伊都国が失墜。大陸交易の均衡が崩れ、倭国は大混乱に陥った。(これは鉄の争奪の結果でない。なぜなら北九州は鉄器の出土が圧倒的に多い。)
後漢の衰退に乗じて、南満州の公孫氏が朝鮮に侵攻、東アジアの政治地図、朝鮮半島の権益が激変。ヤマトのクニグニは団結の必要があった。(古代の明治維新説)
ヤマト王権とは邪馬台国盟主の王権とは全く別の人工的新政権である。
弥生式集落を一切有しない纏向遺跡が突如前方後円墳の根拠地となったのは、西日本のクニグニによって、倭国の王権の都市として建設された新しい都市で、運河を作り短期間で近畿・吉備・山陰・東海から人々が終結したもの。
ちなみに、卑弥呼はたまたま纏向にいた「邪馬台=ヤマト」といわれる地にいた妖術を使う女で、ある日突然、倭国女王に祭り上げられた。彼女は倭国女王であるが、その都は邪馬台にあるだけで、それも通常のクニかどうかも疑わしい。親魏倭王・倭の女王であるが、邪馬台国の女王とは記していない。
②説
伊都国を中心とする倭国が北部九州で形成され、それが2世紀末に奈良の纏向遺跡の地に移って邪馬台国となった。(邪馬台国東遷説)
吉野ヶ里遺跡の規模の集落は九州ではいくつもあり、ただ発掘されていないだけ。決め手は中国製の銅鏡のあるなしで吉野ヶ里にはそれがないが伊都国跡にはそれが大量にかつ極めて大きいのがある。
3世紀に出現した前方後円墳は、①形状、②竪穴式石槨(石の囲い)、③割り竹形木棺、④副葬の銅鏡の特徴があり、①②は吉備、東瀬戸内の特徴③④は伊都国の特徴。
卑弥呼の130年前、107年後漢書に記載の倭の国王帥升とは、伊都国の王で、紀元前1世紀から王家のあった伊都国はたびたび東方進出を図っていた。
伊都国中心の北部九州は倭国の大乱にも勝利した。なぜなら圧倒的に鉄器の出土が多い。
伊都国最後の女王が死にその権威は纏向の卑弥呼に引き継がれた。破砕鏡の儀礼も引き継がれた。
伊都国も奴国も弥生時代前期から古墳時代まで継続して栄えているが、近畿では唐古・鍵遺跡も、池上曽根遺跡も弥生時代で終焉しているが、これはおかしい。
①緊迫した国際情勢に対応した混乱
②北九州勢力が東方への進出圧力の摩擦
③鉄資源争奪戦争
2、①説:30ケ国近い西日本のクニグニが連合の首長として卑弥呼を女王にし、その結果、騒乱が収まった。
この政治連合がヤマト王権で倭国。この特徴は前方後円墳を持つ。卑弥呼の死とともに、ヤマト政権に拡大。
ここでは、複数の有力集団から交代で王権につくという形。
卑弥呼に対立していた東方の狗奴国とは、濃尾平野にあったクニであろうが、卑弥呼の死の後、ヤマト王権の倭国連合に服属。
前方後円墳とその埋葬方法は、吉備の国・阿波のクニのそれに近い。吉備の国がヤマト王権のリーダーシップをとったのでないか。
なぜなら、西日本のクニグニは、ヤマト王権を作らざるを得なかった。当時、大陸では黄巾の乱・北方民族の侵略で後漢が急速に衰退。その結果、倭国の大陸文化受容の窓口であり、近隣諸国から頭一つ抜きんでていた伊都国が失墜。大陸交易の均衡が崩れ、倭国は大混乱に陥った。(これは鉄の争奪の結果でない。なぜなら北九州は鉄器の出土が圧倒的に多い。)
後漢の衰退に乗じて、南満州の公孫氏が朝鮮に侵攻、東アジアの政治地図、朝鮮半島の権益が激変。ヤマトのクニグニは団結の必要があった。(古代の明治維新説)
ヤマト王権とは邪馬台国盟主の王権とは全く別の人工的新政権である。
弥生式集落を一切有しない纏向遺跡が突如前方後円墳の根拠地となったのは、西日本のクニグニによって、倭国の王権の都市として建設された新しい都市で、運河を作り短期間で近畿・吉備・山陰・東海から人々が終結したもの。
ちなみに、卑弥呼はたまたま纏向にいた「邪馬台=ヤマト」といわれる地にいた妖術を使う女で、ある日突然、倭国女王に祭り上げられた。彼女は倭国女王であるが、その都は邪馬台にあるだけで、それも通常のクニかどうかも疑わしい。親魏倭王・倭の女王であるが、邪馬台国の女王とは記していない。
②説
伊都国を中心とする倭国が北部九州で形成され、それが2世紀末に奈良の纏向遺跡の地に移って邪馬台国となった。(邪馬台国東遷説)
吉野ヶ里遺跡の規模の集落は九州ではいくつもあり、ただ発掘されていないだけ。決め手は中国製の銅鏡のあるなしで吉野ヶ里にはそれがないが伊都国跡にはそれが大量にかつ極めて大きいのがある。
3世紀に出現した前方後円墳は、①形状、②竪穴式石槨(石の囲い)、③割り竹形木棺、④副葬の銅鏡の特徴があり、①②は吉備、東瀬戸内の特徴③④は伊都国の特徴。
卑弥呼の130年前、107年後漢書に記載の倭の国王帥升とは、伊都国の王で、紀元前1世紀から王家のあった伊都国はたびたび東方進出を図っていた。
伊都国中心の北部九州は倭国の大乱にも勝利した。なぜなら圧倒的に鉄器の出土が多い。
伊都国最後の女王が死にその権威は纏向の卑弥呼に引き継がれた。破砕鏡の儀礼も引き継がれた。
伊都国も奴国も弥生時代前期から古墳時代まで継続して栄えているが、近畿では唐古・鍵遺跡も、池上曽根遺跡も弥生時代で終焉しているが、これはおかしい。
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