石神井城の戦い・・・豊島一族滅亡 石神井公園・三宝寺池 西武池袋線石神井公園駅から10分
豊島氏は秩父平氏の一族で鎌倉幕府の有力御家人。
武蔵国内に練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など多くの支流があり、室町時代でも大きな力を有していて、その所領は豊島、足立、新座、多東の四郡で2300余町歩、5万7500石ともいわれる。
古河公方足利成氏グループと関東管領上杉氏グループとの長期に渡る享徳の乱では豊島氏は上杉氏側に味方していた。
長尾景春の乱を通じて、扇谷上杉氏家宰の太田道真、道灌父子が大きく勢力を伸ばした。
これに関し太田道潅との対立が豊島氏が長尾景春方に呼応した原因とされる。特に豊島氏の領域近辺に江戸城を築いたことが豊島氏の権益を脅かしたであろうと考えられる。
長尾景春の反乱の過程で、豊島泰経は石神井城、練馬城(練馬城が現在の豊島園である)で挙兵。その弟の豊島泰明は日田塚城(東京都北区)で挙兵。道灌は上杉朝昌、千葉自胤と合流すると、両軍は江古田川と妙正寺川の合流地点、江古田、沼袋あたりで遭遇。道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置いたとされる。
数においては豊島勢が勝り、緒戦は優勢だったが、徐々に豊島勢は敗退して泰明は戦死。道灌は50騎で200騎の豊島勢を打ち勝ち、板橋氏、赤塚氏ら豊島勢150騎が討ち取られたという。
泰経は石神井城に逃げ込み、道灌は愛宕山(練馬区上石神井三丁目)に陣を敷いてこれを包囲した。泰経は城を出て道灌と会見し、降参を申し出た。城の破却が当時の降伏の作法であったが、泰経はこれを実行せず、このため偽りの降参とみなした道灌は総攻めをしかけ、石神井城は落城した。泰経は平塚へ逃亡。
江戸城と河越城との連絡線を回復した道灌は主君上杉顕定、定正と合流して北武蔵、上野国を転戦して長尾景春を封じ込めることに成功。ここから、古河公方が和議を打診してきた。
この和議を妨害する勢力も多く、この機会に豊島泰経も平塚城に拠って再挙兵。道灌は平塚城を攻め落とし、泰経は城をのがれて丸子(川崎市)小机城に逃げるがここも包囲され落城。泰経は行方知れず、豊島氏本宗家は滅亡した。
石神井城落城に際して、豊島泰経は黄金の鞍を白馬に載せ石神井公園内の三宝寺池に入水し、次女の照姫も後を追って入水したという伝説があり、練馬区では毎年「照姫祭り」が行われている。
しかし泰経は石神井城落城のときには死んでおらず、平塚城で再挙し太田道潅に戦いを挑むが、ここでも敗退、そこで行方不明となり豊島家滅亡した。
道灌は各地を転戦して景春方を攻め潰し、1480年文明12年には景春の最後の拠点日野城(秩父市)を落として乱を平定した。
この結果、1482年文明14年に古河公方と関東管領方=幕府方との和議が成立して、30年近くに及んだ長享の乱という関東の争乱は終結した。
豊島氏の所領は道灌に帰することとなり、ほとんど独力で乱を平定した道灌の声望は絶大なものとなった。
だが、これが上杉顕定、主君上杉定正の猜疑を生み、1486年文明18年、道灌は糟谷の館(神奈川県伊勢原市))で主君上杉定正によって謀殺されることになった。
ここから、歴史のステージが大きく代わり、両上杉家の対立抗争の「長享の乱」がこの後、18年間も続くこととなる。
豊島氏は秩父平氏の一族で鎌倉幕府の有力御家人。
武蔵国内に練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など多くの支流があり、室町時代でも大きな力を有していて、その所領は豊島、足立、新座、多東の四郡で2300余町歩、5万7500石ともいわれる。
古河公方足利成氏グループと関東管領上杉氏グループとの長期に渡る享徳の乱では豊島氏は上杉氏側に味方していた。
長尾景春の乱を通じて、扇谷上杉氏家宰の太田道真、道灌父子が大きく勢力を伸ばした。
これに関し太田道潅との対立が豊島氏が長尾景春方に呼応した原因とされる。特に豊島氏の領域近辺に江戸城を築いたことが豊島氏の権益を脅かしたであろうと考えられる。
長尾景春の反乱の過程で、豊島泰経は石神井城、練馬城(練馬城が現在の豊島園である)で挙兵。その弟の豊島泰明は日田塚城(東京都北区)で挙兵。道灌は上杉朝昌、千葉自胤と合流すると、両軍は江古田川と妙正寺川の合流地点、江古田、沼袋あたりで遭遇。道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置いたとされる。
数においては豊島勢が勝り、緒戦は優勢だったが、徐々に豊島勢は敗退して泰明は戦死。道灌は50騎で200騎の豊島勢を打ち勝ち、板橋氏、赤塚氏ら豊島勢150騎が討ち取られたという。
泰経は石神井城に逃げ込み、道灌は愛宕山(練馬区上石神井三丁目)に陣を敷いてこれを包囲した。泰経は城を出て道灌と会見し、降参を申し出た。城の破却が当時の降伏の作法であったが、泰経はこれを実行せず、このため偽りの降参とみなした道灌は総攻めをしかけ、石神井城は落城した。泰経は平塚へ逃亡。
江戸城と河越城との連絡線を回復した道灌は主君上杉顕定、定正と合流して北武蔵、上野国を転戦して長尾景春を封じ込めることに成功。ここから、古河公方が和議を打診してきた。
この和議を妨害する勢力も多く、この機会に豊島泰経も平塚城に拠って再挙兵。道灌は平塚城を攻め落とし、泰経は城をのがれて丸子(川崎市)小机城に逃げるがここも包囲され落城。泰経は行方知れず、豊島氏本宗家は滅亡した。
石神井城落城に際して、豊島泰経は黄金の鞍を白馬に載せ石神井公園内の三宝寺池に入水し、次女の照姫も後を追って入水したという伝説があり、練馬区では毎年「照姫祭り」が行われている。
しかし泰経は石神井城落城のときには死んでおらず、平塚城で再挙し太田道潅に戦いを挑むが、ここでも敗退、そこで行方不明となり豊島家滅亡した。
道灌は各地を転戦して景春方を攻め潰し、1480年文明12年には景春の最後の拠点日野城(秩父市)を落として乱を平定した。
この結果、1482年文明14年に古河公方と関東管領方=幕府方との和議が成立して、30年近くに及んだ長享の乱という関東の争乱は終結した。
豊島氏の所領は道灌に帰することとなり、ほとんど独力で乱を平定した道灌の声望は絶大なものとなった。
だが、これが上杉顕定、主君上杉定正の猜疑を生み、1486年文明18年、道灌は糟谷の館(神奈川県伊勢原市))で主君上杉定正によって謀殺されることになった。
ここから、歴史のステージが大きく代わり、両上杉家の対立抗争の「長享の乱」がこの後、18年間も続くこととなる。
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