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学校では教わらない歴史 アメリカGHQメンバーから見た太平洋戦争の真実 【なるためJAPAN】
司馬遼太郎 「太郎の国の物語」6回 明治憲法
司馬遼太郎 「太郎の国の物語」6回 明治憲法
沖縄タイムス『鉄の暴風』はGHQの指令と支援でつくり上げられ
沖縄タイムス社の見解(沖縄の証言-沖縄タイムス刊)
豊平良顕、座安盛徳氏ら戦前から述べて漣記者が沖縄戦記編纂のプランを立てたのが1949年5月、三ヶ月で資料を収集し。三ヶ月で編集したということになっております。(新聞五十年 380頁には五月にプラン、11月に脱稿とある)
疑問 | |
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① | 月刊タイムスを発行するための紙ですら米軍政府の目を誤魔化しながら工面していた時代に、新聞社が独断で売れるかどうか分からない単行本の発刊に取り組むものだろうか? |
② | 紙面や初期の月刊タイムスが手書きで、活字自体が無い時代に社をあげて取り組むというリスクはかなり大きい。(資金力が無かった)創刊間もない新聞社が取り組めるのか? |
③ | 米軍政府による事実上の検閲が厳しいなかで、独断で企画したというのであれば、出版許可が下りるという保証は無い。 |
④ | 紙上の連載がなかった『鉄の暴風』が検閲を受けるのは脱稿して翻訳した後だが、400数十頁の分量になる原稿に投じる余裕があったのか? |
⑤ | 当時の新聞は2頁立て、月間購読料が30円(新聞のつぶれる日)の時代に、『鉄の暴風』一冊200円売りの本を1万冊、(朝日新聞社と2万冊)売値で200万円となるが、この資金調達のめどがどうして立ったのか?(株主も居ないのに) |
⑥ | 脱稿し、英訳はしてはあるが、シーツ長官の出版許可が下りていないものを、朝日新聞社に発行を依頼する権限があったのか? |
⑦ | 当時、売れている本ですら2千冊の時代に2万冊の発行を契約出来るのか?(権限・財力) |
⑧ | 出版を持ち込んだ朝日新聞からは「出版パニックで今頃戦記ものは駄目ですよ」と剣もほろろに断られるが、一週間もたって座安の宿舎には朝日新聞社からじゃんじゃん電話が入ってきた。行ってみれば前回とは違って今度は下へも置かぬ丁寧な対応で、出版しましょうと豹変する。GHQから強い指令があったと推測される。 |
時系列
日付 | 内容 |
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1948年6月28日 | ハウトン大尉(情報部長)が川平朝申の留守中に座安等を呼びその場で沖縄タイムスの発行を許可、目的はうるま新報に対抗させる為(新聞五十年 363頁)。とあるが本当は、うるまの社長に就任した瀬長亀次郎が米軍政府にたてつくようになってしまったからである。 |
同日 | うるま新報には知らせず、ドル交換の特報を教える。 |
6月29日 | 正式に新聞が発行される前に異例の号外を出す。 |
1948年7月1日 | 沖縄タイムス発行 |
1949年X月~5月 | 鉄の暴風のプランを立てる |
同年 6月~8月 | 聞きとり等により資料収集 |
同年 7月 | ゼネレーター事件(タイムス以外の新聞社が検挙される) |
同年 7月23日 | グロリア台風 |
X日 | 台風により保管してあった大量の紙が濡れたという理由で沖縄タイムスにのみ格安(無料)でその紙が提供する |
同年 9月~11月 | 編集及び監修、翻訳 |
同年 10月 | シーツ長官着任 |
同年 12月 | 翻訳済み |
1950年3月29日 | 有村海運の船にて上京(新沖縄民報の空路は間違い) |
同年 5月2日 | マッカーサー総司令官と会見 |
同年 5月6日 | 沖縄タイムス紙に上記内容を掲載 |
同年 5月X日 | 米軍政府内が騒然となる、『座安は何を告げ口したのか』 |
同年 5月26日 | 皇居にあがり、陛下にお目通り。皇族と食事などする。 |
不明 | 沖縄に到着 (座安と行き帰りが一緒だった琉球政府公衆衛生部長大宜見朝計氏が6月2日(金)には、県の方針を発表している) |
同年 6月15日 | シーツ長官 『鉄の暴風』の発行を許可する。 |
同年 7月27日 | (記事) シーツ更迭(離任) |
同年 8月15日 | 『鉄の暴風』県内にて販売開始 |
疑問を時系列に照らし合わせると
推測できること | その理由 | |
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① | 鉄の暴風はGHQの指示による(米軍政府ではない) |
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② | 集団自決を冒頭に掲載したのは、GHQ情報局の指示 |
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③ | 発行と印刷機材の資金はGHQが担保した | 戦後沖縄経済史 琉球銀行調査部編をみると当時流通していたお金は2000万円ほど、4000万円は凍結させられていた。 戦後の救済事業だったマーシャルプランがその財源かもしれない。 |
2008年4月号「諸君」に掲載された鴨野 守氏よる中松竹雄氏(70歳)の証言
豊平良顕氏の息子と同級生でもあったのでよく家に出入りし、豊平氏の話を何度も聞いた間柄だった。豊平氏はおしゃべりで、戦後期における米軍とのやりとりの裏話を語っていたという。そして中松氏は、高校生の時、出来上がった『鉄の暴風』を一冊もらった。好奇心の強かった中松氏に、豊平氏は次のように語ったそうである。
「沖縄タイムスは、米軍から新聞発行のための紙の配給を受けている。それで米軍から、「こういう記事を書け」という指示が来る。そうしないと紙の配給がストップし、新聞が出せなくなる。その米軍の指示通りに書いたのが『鉄の暴風』である。・・・
「異種格闘技のような鼎談が実現!前田日明氏をお招きし、昭和を生きてきた男たちが日本の現状を語り合う」昭和を知る最後の世代の鼎談
窪塚洋介猛反撃「井筒監督はアホ」
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![]() 映画「俺は、君のために-」のPR会見に出席した(左から)窪塚洋介、徳重聡、新城卓監督=大阪・東映関西支社 石原慎太郎東京都知事(74)が製作総指揮した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(5月12日公開)のPR会見が19日、大阪市内で行われ、W主演の俳優・徳重聡(28)、窪塚洋介(27)と新城卓監督(63)が出席。特攻隊員を描いた作品で、井筒和幸監督(54)が「戦争の美化」と批判していることに対し、窪塚は「見る前に言うヤツはアホ」と猛反撃に出た! 同時期に公開される2作で期せずして“映画戦争”がぼっ発した。窪塚は特攻を志願し、出撃する隊員の姿を熱演。自身も3年前、自宅マンション9階から転落した経験があり「簡単にはいえないけど、生きてることはありがたい」と、作品への思い入れは強い。井筒監督の批判に対し、窪塚は黙っていられなかったようだ。 窪塚は「この映画を見て、戦争賛美だというヤツはアホだと思う。もう一回見た方がいい。見る前に言うヤツはアホ」とバッサリ。さらに「右だ、左だ、というけど、鳥は両方の翼がないと飛べないという思いで、日々、生きています」と“窪塚節”もさく裂させた。 井筒監督は新作「パッチギ!LOVE&PEACE」(5月19日公開)の中に、「俺は-」を連想させる劇中映画を登場させた上、新作のPR会見の席上などで批判を展開。「戦争の美化はアカン。若者を右へならえさせたいだけ」などとこき下ろしていた。 同じ映画監督として、新城監督も「映画を見てからコメントしてほしい。それがお互いの礼儀でありルール。パフォーマンスとしての発言は、やがて本人に返ってくる」と井筒監督への怒りをあらわに。「沖縄出身で国歌も聞いたことなく、上京しました。右翼というのなら、どうぞ。史実をとらえありのままに描きました」と強調していた。(デイリースポーツ ) ◇ 窪塚洋介と言うとマンションの9階からの落下事故でその名を知っいる程度と、偶々テレビで見た映画「Laundry」で変った演技をするヘンな俳優だな、と言う程度の認識しかなかった。(映画「Laundry」で窪塚はマンホールに落ちて打ち所が悪く言動がヘンだが心の純粋な主人公を演じていたが、制作はマンション落下事故より二年前に作られている。) 筒井監督はと言うとテレビでお笑いタレントに混じってアレな発言をするアレなオジサン程度の認識で,勿論その作品を見たことはない。 窪塚VS筒井「映画戦争」は窪塚の完璧な一本勝ち。 見もしないで公然と批判するのはアレな人の特徴だが、このバトル石原慎太郎御大の出る幕はなさそうだ。 見ないで批判は論外だが、見ていながら作品は評価しつつも石原慎太郎が関わるのが気に食わず批判しているもう一人のアレな人がいた。 以下、有田芳生の『酔醒漫録』よりの引用。http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/04/post_a86a.html 2007/04/05 それは鹿児島県知覧で富屋食堂を開いていた鳥濱トメさん(岸惠子)を中心にして毎日のように特攻隊に駆り立てられた17歳から24歳の青年たちの歴史に翻弄された真情などが、この日本の消すことのできない事実だったことによる。ところどころで挿入される特攻隊の実写フィルムが悲しさをさらに高めていく。朝鮮人差別、憲兵隊の横暴、強制された死の無惨、アメリカ人の被害者、生き残った兵士の悲しさなど、歴史的事実に忠実であるほどに、見るものに感動を与える。石原氏の国家観には理解できないことが多いけれど、本人の意図から独立して作品は独り歩きする。これは小説、ノンフィクション、映画などなど、どんな分野でも同じこと。20歳前後の若者を死に追いやった日本軍幹部は、単行本『X』の主人公となる木村久夫さんを戦犯とした張本人でもあった。戦中は「軍神」とあがめたて、戦後は「特攻くずれ」などと揶揄した日本人の精神構造も変わったとも思えない。わたしが東京に出てきてしばしば通っていた新宿の「薩摩おごじょ」は、トメさんの二女、赤羽礼子さんの店だった。何度も挨拶をしながら、歴史を知らないわたしは当時のことを聞くこともなかった。無知の悲しさだ。その礼子さんも2年前に亡くなってしまった。『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)に収録された学徒兵の遺書、鳥濱トメさんと特攻隊員を記録した石井宏『ホタル帰る』(草思社)などは改めて読まれるべきだろう。日本の若者の悲しみを凝縮している知覧特攻平和会館に近く行ってこようと思っている。 (引用終了) これに対して同ブログの読者「一都民 」さんが見事に有田氏の「アホ」ぶりを指摘している。 以下引用。 >この自己陶酔的なタイトルはいかにも石原慎太郎的でセンスが悪くイデオロ
無視しようかとも思いましたが、やはり気になったので書きます。 この書き方だと(他にもそういう箇所がありましたが)、「石原氏の意図」とは違い、監督やスタッフというあくまで「外部の力」によって「感動の作品」ができたという言い方ですね。 たとえが悪いかもしれないが、無名で地位もない新人の脚本家と、わがままで力のある監督。そういう組み合わせでもない。 あと、私が印象に残っている対談があります。この映画に主演された岸さんと、石原氏が、MXというローカル局で対談されておりました。 その時、岸さんは映画の中で、特攻隊が空に飛び立ってゆくとき、私の顔をアップで映してほしいのに監督はしてくれなかった、と嘆いてました。それは、若い命を戦争が奪ってゆく…その「怒り」の表情こそアップで撮ってほしいのに、と。石原氏はしっかりそういう岸さんの話を受け止めてました。 岸さんと石原氏は、この監督はいい監督なんだけど、師匠の影響なのかそういう手法で…とかいう話をしていました。 つまり、有田さんが前で書かれたことは、自分の嫌いな石原氏の作品に感動してしまった自分を守ろうという、一種の「防衛本能」に過ぎません。私は、それゆえにおかしな解釈をされるのは、気持ちが悪い。 ですので、それは違うとここに指摘しておきます。 (引用終了) 因みに有田良生(よしふ)のヨシフはスターリンのファーストネームから取ったというから、石原慎太郎という名前に脊髄反射したのでしょう。 脊髄反射に思考は無い。 石原慎太郎と言う名前だけで見事なまでの思考停止。 やはりアレな人にはアホが多い。
◆俺は、君のためにこそ死にいけるhttp://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6382 |
◆島唄:
http://shupla.w-jp.net/datas/flash/shimauta.html
◆新城卓http://www.worldtimes.co.jp/special2/hoppou06/060207-3.html
【付記】9:06
観て云うアホウに、観ず云うアホウ
同じアホなら観なけりゃ損。
「沖縄県民斯く戦ヘリ」さんに「俺は、君のためにこそ死にいける」の【予告・動画】のアップがありますので以下にリンクします。
◆【予告・動画】http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/
【追記・2】11:30
有田良生氏は「歴史的事実に忠実であるほどに、見るものに感動を与える」と原作・脚本に脱帽している。
沖縄出身の新城卓監督の次の言葉を、
沖縄の「プロ市民・平和活動家」に聞かせたい。
「右翼というのなら、どうぞ。史実をとらえありのままに描きました」