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読者の皆様へ
■出版社の都合で多少遅れる見込みです。
8月15日発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』の編集作業が現在進行中です。ただ販促物のチラシ作成など、さらに最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。
そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。
■出版費用の献金のご協力願い
最低限での出版には何とか漕ぎつけましたが、増刷等で皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。
献金額の多寡は問いませんが、一口3000円以上にして頂けると幸いです。
まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。
狼魔人日記
江崎 孝
お振込先
ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先
★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。
管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp
★
■出版遅延の状況をご報告いたします。
本作品の出版は一昨年より企画していましたが、一昨年の年末思わぬ体調不良(腰痛)でPCに向かえない状況が続き、一時出版を断念しました。
昨年より体調回復と共に12月頃から名古屋市在の出版社と交渉に入り、1月には原稿も完成し、後は編集・校正・出版の段階に入りました。
ところが2月になって突然出版社より連絡が入り、訴訟を含む内容のため出版後訴訟問題が起きた場合「対応できない」という理由で、書店販売、アマゾン販売は出来ない、とのこと。
ただ編集・印刷・製本のみなら引き受けても良いとのことでした。
ここまで来て「出版できない」との対応に、今から新たに出版社を探すのは、時間がかかるので、止む無く編集・印刷・製本のみで契約しました。
その後4月頃には「終戦記念日」の前には出版可能との連絡がありました。
ところが、予想しない出来事が起きました。
8月15日以前から、出版社と全く連絡が付かなくなってしまいました。
担当者は勿論他の編集者にメールしても、無しのつぶてです。
会社に何度電話しても「本日の営業は終了」との留守電のみです。
ファックスを打っても返事はありません。
原稿は印刷前の9分通り完成しているので、印刷に掛かれば数週間で完成のはずです。
いずれにせよ、全く予想外の展開に困惑していますが、しばらく静観して状況が判明次第、ご報告します。
江崎 孝
読者の皆様へ
■本発売まで後3日
8月15日発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』の編集作業が現在進行中です。ただ販促物のチラシ作成など、さらに最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。
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読者のコメントです。
■ 安仁屋正昭さんのコメント遺族年金はそろそろ
戦後66年、そろそろ遺族会は援護金の受領を辞退してはどうか。
出来ないので、あれば正当な軍人軍属とこれに順ずる戦斗協力者のみに限るべきです。
今回の靖国合祀取り消し訴訟で明確になったことは、援護法の適応を受けるため、申請書を捏造したという事実です。
嘘をついて貰うわけだから、他人に知られては、ばれてしまう。
だから、申請書に記載した内容(どのような理由で何処で戦死したのか)を、家族にすら知らせていないというトンデモ無い事実です。
援護金を貰っている遺族に、「戦死されたご家族は、何時何処でどのように亡くなられましたか?」と聞き取りをし、これを「靖国神社に問い合わせてください」と頼み、照合すれば、
恐らく2万件前後の不合は明らかになるはずです。
場合によっては、詐欺行為の疑いがあるので、援護金不当受領者に対する裁判を起こしてもよいと思います。
金城 実氏率いる、原告人5人中、3人(戦没者8人)は、この対象です。
■ヒロシさんのコメント 不都合な真実
「チビチリガマに軍人はいなかった」という事を多くの県民が知っていることだと思いますが読谷村史http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm
>「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
>避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」
>真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した
どこにも軍の命令と書いていませんね。
「思い出」として日本の教育が悪かったと書いてあってミスリードさせようという意図がかくれていますけど。
もう一つ ヒロシ
>「援護法」による年金をもらう代わりに民間人が「準軍属」にされるというからくりがあった。
これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。
付け加えるならば「沖縄以外ではこのような虚偽の申請は受理されていない」わけですから
靖国訴訟は前提からしておかしい訳で最高裁まで行くでしょうけれど「裁判官には真っ当な判決」を望みます
★
> 場合によっては、詐欺行為の疑いが(安仁屋さん)
安仁屋正昭さんは「詐欺行為の疑い」と控え目な表現にしているが、より直截的にいえば「公文書偽造による『公金詐取』」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者は3年前に「国主導の公金詐取」と指摘しておいた。
>これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
>年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。(ヒロシさん)
OABテレビの当該番組では、終始「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映され。 だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。
したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。
ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。
大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。
「沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)
■政府主導の「公金横領詐取」■
現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。
当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。
無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしている。
違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。
当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。
研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。
■援護金業務での宮村幸延氏の功績■
座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。
そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。
現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。
当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。
つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。
■宮村が「侘び状」を書いた理由■
元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。
詫び状
■宮村が「侘び状」を書いた理由■
おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、座間味村役所の援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。
そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。
何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。
梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。
ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。
その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。
■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■
それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できることである。
その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。
ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。
梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。
「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。
沖縄タイムスは次のように考えた。
富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。 だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。
そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。
そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。
驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。
そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。
最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。
沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。
結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。
約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。
そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。
沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。
「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。
一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで得た余裕からなのか、
座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。
「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)
その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をし、
村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。
事実その後交渉は打ち切られている。
■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■
当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。
政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。
その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。
< 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。
一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。
沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。
大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。
多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。
沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。
前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。
「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」
当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。
「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」
沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >
◇
「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。
同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。
ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。
従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。
【おまけ】
政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。
その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大名誉教授の論文はこれ。
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事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。- ニーチェ -
沖縄2紙に掲載される戦争談と言えば『鉄の暴風』に代表される沖縄戦と相場が決まっている。
沖縄戦では、住民の被害が強調され日本軍は住民を守るどころか住民を虐殺するのが目的のように報道されている。
いれいたかし氏と言う沖縄の識者などは戦艦大和は沖縄住民の虐殺のため派遣された、と言う有様だ。⇒戦艦大和は悪鬼の軍艦?!2009-01-25
■沖縄にインパール作戦の生存者が現存
ところが11月9日付沖縄タイムスの読者の意見欄の「父の戦争体験」という投稿を読んで「おや!」と思った。
72歳の主婦金城一枝さんが父親の「インパール作戦」について次のようなコメントを書いている。
父の戦場体験「心」の傷深く 金城一枝=72歳
NHKの朝ドラ「エール」を毎日、楽しく見ています。 インパール作戦の回は、亡き父を思い出しました。父は数少ない生き残り兵です。私と2人の弟に、寝物語に戦争の話を良くしてくれました。
撤退の時、ちょうど雨期で荷物は頭上高く上げて歩いたそうですが、それに耐えきれず死んだ人も多数いたそうです。殺し合い、死体の上を逃げまどい、食糧もなく、ヘビやカエル、ネズミはごちそうです。しかも死体さえも。(略)肩はマラリアの傷、腕は銃弾の傷が残っていました。しかし、一番の傷は体ではなく「心」です。
★
筆者はNHKの朝ドラを見たことがない。したがって朝ドラ「エール」も観ていない。
投稿者の金城さんは、父がインパール作戦の生き残りで、朝ドラ「エール」の登場人物がインパール作戦に従軍しており、亡き父のことを思い出した模様。
朝ドラ「エール」は作曲家古関裕而氏がモデルとされている。
1944年4月、古関氏は、作家の火野葦平氏らと共に特別報道班員に選ばれ、インパール作戦が行われたビルマに従軍記者として派遣された。
インパール作戦についてウィキでは、こう説明されている。
インパール作戦とは大東亜戦争のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に[帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。
当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。
★
沖縄にインパール作戦の生き残りが住んでいたことは驚きだが、八重山日報によると竹富島にもインパール作戦の生き残りが住んでいたらしい。
八重山日報 2019/11/7
第2次大戦の大激戦地として知られるインド北東部のインパール(インド・マニプール州)から、同地域を代表する伝統音楽家のマンガンサナさんら3人がこのほど、竹富島を訪問。島に住むインパール作戦の生存者、赤山喜介さん(100)と面会した。同作戦は日本軍の最も凄惨な作戦の一つとされ、日本兵7万5千人の死傷者の大半は餓死と病気によるものとされる。一方で、インド独立のきっかけになった戦いとも言われる。
沖縄にインパール作戦の生き残りが二人も居て、前述の金城さんの父は75歳まで生き延び、竹富島に在住の赤山さんは100歳と言う高齢でご存命だから驚きである。
俗にインパール作戦は愚将牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行され、日本兵7万5千人の死傷者の大半は餓死と病気によるものとされ兵站を無視した世界一愚鈍な作戦と言われている。
確かに牟田口司令官の言動に批判される部分が数多く存在する。
■インパール作戦はインド独立の出発点だった
だが、インパール作戦は はたして 愚か な 戦い だっ た のか 。
万に一つも勝ち目がない作戦だったのか。
>一方で、インド独立のきっかけになった戦いとも言われる。
最近の研究によると(『日本人が知らない最先端の世界史』福井義高著)、インパール作戦には光と影の「2面性」があるという。
敗者である日本ではインパール作戦の光の部分には目を閉ざし、勝者の視点で影の部分にのみ注目し、同作戦は全く無謀で愚鈍と評価していると指摘している。
■歴史は勝者が作る
「歴史は勝者がつくる」と言われる。
「戦争に勝ったこと」自体が、勝者の正当化になる。
戦の勝敗の結果が勝者・敗者に対する全体的な評価になってしまう。
戦争に勝ったのは、勝者が「正義で、強い」からで、敗者が「不正で、愚かで、弱い」からであるという評価になりがちである。
もちろん、戦争の戦略的・戦術的な成功・失敗の原因を科学的・技術的に分析することは可能であり、そこに因果性を認めることはできる。
インパール 作戦 と いえ ば、 日本 軍 の 数 ある 戦い の なか でも、 最も 悪名 高い もの の ひとつ で あり、確か に、 おびただしい 人命 損失 を もたらし た 補給 軽視 と 指揮 の 混乱 について は 弁護 の 余地 は ない。
しかし、 そもそも 戦局 が すでに 日本 軍 に 不利 に なっ た 1944 年 の 段階 で、 あらた に インド に 攻め 入る という 発想 自体 が 戦略 的 思考 欠如 の 表 われ、 という 批判 は 必ずしも 当たっ て い ない。
■インド独立の二人の闘士
インパール 作戦 を「 チェロ・デリー」(デリーに向かって進軍) すなわち インド 独立 に 向け た 重要 な 第一歩 として、 誰 よりも 熱心 に インド独立を推進 しインド人活動家がいた。
インドでは「ネタージ」(指導者)と崇拝されるチャンドラボースのことである。
インドでは無抵抗・非暴力でインド独立を目指したガンジーではなく、武器を持ってイギリスと戦ったチャンドラボースこそ、インド独立の父と見做されている。
ガンジーとボースの写真
ガンジーより若いチャンドラボースは当初、ガンジーの非暴力・無抵抗のインド独立運動に共鳴し、ガンジーの片腕としてと共に行動していた。
ところが、非暴力での独立運動は現実的でないと悟り、途中から武器を持って戦う独立運動を主導しガンジーとは対極の立場に立つ。
チャンドラボースは、「インド独立軍」を指揮してインパール作戦で日本軍と共にイギリス軍と戦うが、日本の敗戦を知ると今度はソ連と共闘するため軍用機で台湾を飛び立つ。 その離陸の際不慮の事故死をする。
しかし、日本の敗戦のちょうど2年後1947年8月15日、インドは念願の独立を果たす。
ボースはインドの独立を知らないまま事故死するが、現在インドではインド独立の父として尊敬されている。
では何故インド独立の父は非暴力のマハトマ(聖者)ガンジオ―ではなく、武器を持ってイギリスと戦ったネタージ(指導者)チャンドラボースなのか。
■インド独立50年記念祝典の出来事
1997年8月15日、インド議会は独立50年を祝って、独立闘争の三大英雄、ガンジー、ボース、ネルー(インド初代首相)の肉声録音を流した。
その際、最大最長の拍手喝采を浴びたのは非暴力のガンジーではなく、武器を持って戦ったボースであった。
ボースはインドでは圧倒的人気にも関わらず、日本ではほとんど知られていない。
その理由は、ガンジーの非暴力の闘争が日本の左翼リベラリズムに大きく支持されていたからだろう。
又「歴史は勝者が作る」の論で言えば、ボースはイギリス軍と戦ったとは言え、連合軍にとっては悪の枢軸国日本の傀儡であり、ボースが参加した「大東亜会議」などは、勝者の歴史では茶番劇とはしか見做されていない。
それに日本でボースと言えばチャンドラボースの大先輩で、中村屋にカレーを紹介し日本に帰化した中村屋のボースと混同されるせいもある。
2019年6月22日、インドのインパール市で「インパール平和祈念館」の除幕式が行われた。
日本では評判の悪いインパール作戦を平和記念館で顕彰する行事を、報道するメディアは殆どなかった。
だが、同記念館には安倍首相自筆の「平和」の揮毫が飾られ、記念式典ではインドの音楽団が日本民謡として「安里やユンタ」を披露した。
その証拠の映像がこれ。
「安里屋ユンタ」が披露された場面。
【おまけ】
【うるま】うるま市は9日、同市具志川の具志川グスクとグスクに造られた壕の二つを市文化財に指定した。壕は沖縄戦で米兵に追い詰められた具志川の警防団の男女13人が「集団自決(強制集団死)」で犠牲になった場所。慶良間諸島や伊江島、読谷村での「集団自決」は広く知られているが、今回の指定で「うるま市でも『集団自決』が起きたことを後世に伝える契機にもなり得る」と専門家は指摘する。(中部報道部・又吉朝香)
今回の壕とグスクの文化財指定は所有者である具志川自治会が2020年、市に申請し指定に至った。
壕は1944年に日本軍が構築。日本軍が南部に移動後、字具志川の住民や15~32歳の男女23人による警防団が身を潜めていた。
45年4月4日、侵攻してきた米兵に追い詰められた警防団は、日本軍から渡された手りゅう弾で「集団自決」を実行。13人が死亡し、生存者10人も大けがを負った。
県教育委員会の2014年の調査によると県内に戦争遺跡は1077カ所あるが、文化財指定は具志川グスクの壕で28カ所目。戦後78年、戦争体験者が高齢化し、壕の劣化が進む中、文化財指定された戦争遺跡は全体の2・5%にとどまっている。
壕の入り口には慰霊碑が建っているが、周辺は草木が生い茂って足場が悪く、訪ねる人は少ないという。
また、1955年に発見された具志川グスクは14~15世紀に造られたとみられる。火葬骨や南九州から持ち込まれた土器やガラス小玉が見つかり、当時の文化交流や葬制を知る上で重要な遺跡と判断され、指定に至った。グスクには拝所があり、地域住民によってウマチー行事が年4回開催されている。
具志川自治会の高江洲朝美会長は「今後はグスクや壕の環境整備に力を入れ、地域住民にとって大切な場所にしていきたい」と話した。
平和学習に活用期待
吉浜忍さん
沖縄国際大元教授
具志川グスクとグスクの壕がうるま市の文化財に指定された意義は大きい。特に、自治会主体で取り組んだことを高く評価したい。文化財指定は市町村が独自で動く場合が多いが、土地の所有者が複数いたり、所有者が見つからないなどで指定に至らない場合も多い。
市の文化財指定を受け、具志川グスクや壕を訪れる人は急激に増えるだろう。大型バスが来た場合の駐車場やガイドの手配など、自治会だけの予算や人手では手に負えなくなる。市のバックアップ体制が必須だ。
今回を契機に、市は市内の他の戦跡の文化財指定や整備に取り組んでほしい。川田の海岸線沿いには、米軍の上陸を警戒して護岸に銃を固定するための銃座がある。平敷屋や伊計島には砲台跡など、他市町村にはない戦争準備のために造られた遺跡が数多く残っている。市独自の戦跡巡りのコースをつくれば、より効果的な平和学習のコンテンツとなり得る。
市町村が文化財指定している戦争戦跡は28カ所で、県指定は1件もない。戦後78年が経過し、県内各地の壕は劣化が進み、平和学習のコンテンツとしての活用が年々難しくなっている。これを契機に、他地域でも文化財指定の取り組みが進むことに期待したい。
(談、沖縄近現代史)
(写図説明)(上)具志川グスクの壕。左の慰霊碑には「集団自決(強制集団死)」で亡くなった13人の名前が刻まれている
(写図説明)(下)具志川グスク=7月26日、うるま市具志川(市教育委員会提供)
被告の大江健三郎は沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』や一連のタイムス記事に作家として空想力を刺激され、『沖縄ノート』で原告の元軍人を誹謗中傷し、原告の名誉を著しく棄損した。 大江氏が『沖縄ノート』を書く際、根拠としたのが『鉄の暴風』は、その内容がすべて正しいという前提だった。ところが裁判の審議の過程で、『鉄の暴風』内容が間違いだらけであることが判明した。
しかし、「戦後民主主義」の信者と思われる裁判長は「大江被告が、当時の沖縄戦の研究レベルでは『鉄の暴風』の内容を真実と考えても仕方なかった」という「真実相当性」という強引な解釈で大江被告の名誉棄損を免責にして大江勝訴が確定した。
結局、大江被告は名誉棄損は免責されたが、大江が前提にした「軍命による集団自決」は立証できなかった。
大江被告が『沖縄ノート』を書いた間違った前提は概略次の2点だ。
➀集団自決命令が事実である(p.169-17)
②渡嘉敷島の戦隊長・赤松嘉次大尉の(沖縄を再訪する際の)気持ちを、彼が書いた又は語った一つの実在資料も示さず、「想像」・「推測」していること。(p.208)
★
2022年6月30日付沖縄タイムス16面トップに次の見出しが躍っている。
沖縄戦法的な戦争責任問う
32軍に住民処罰権無し 渡名喜守太沖縄国際大学非常勤講師
ハーグ・ILО条約にも違反
内容を一部引用しよう。
《■天皇大権を干犯
沖縄戦において日本軍の沖縄人に対する加害行為の法的問題について考える場合、国内法と国際法の観点から考察できる。
国内法上の問題について考えるにあたって、当時の沖縄の法制上の位置づけを確認し、そこから日本軍に与えられた権限の範囲を確認しておきたい。
沖縄は日本の一県で日本の憲法や法律が施行、適用される日本の法域だった。行政官庁である沖縄県が置かれ、中央から内務官僚である知事が派遣され統治されていた。軍事的には1937年に改正された軍機保護法における特殊地域に指定されていた。昨年成立した土地利用規制法の「注視区域」に沖縄全体が指定された場合、当時の状況に一気に近づく。
沖縄戦当時は米軍の包囲を受けており、第32軍の作戦地、国内戦場であった。これは典型的な合意地境であり、戒厳令を施行する条件を満たしていた。》
執筆者の渡名守太沖縄国際大学非常勤講師がこの記事で言いたいことは、概略こうだ。
「沖縄戦の際、沖縄では戒厳令は発令されていなかったので、第32軍が民間人に軍命を出す法的権限は無かった。」
ここまで読むと、『鉄の暴風』に書かれている「軍命」は越権行為であり、実際軍命による集団自決はあり得ない、と「軍命否定論」に繋がってしまう。
ところが、ここから渡名喜氏の論旨は暴走に突入、急転直下「32軍の沖縄住民虐殺があったのはハーグ条約違反」と主張する。
渡名喜先生の論理の粗雑さに笑ってしまった。
「軍命による住民虐殺(集団自決)」は、大江岩波訴訟の審議でも立証できなかった。 しかし渡名喜氏は「軍命があった」という間違った前提で、新聞の四分の一を駄文で埋めている。
ちなみみに「ハーグ陸戦条約」とは、いわゆる戦時国際法の一つで、1899年のハーグ平和会議で制定された多国間条約。
本条約では、「戦闘員・非戦闘員の区別」「使用してはならない戦術・兵器」「宣戦布告・降伏・休戦」など、戦争における義務と権利が具体的に規定されている。
渡名喜氏は本条約が禁止する「軍隊による民間人虐殺」を見て小躍りして喜んだのだろう。 そして強引に「32軍の民間人虐殺」に結びつけたのだろう。これこそが大江岩波集団自決訴訟でも立証できなかった「間違った前提」である。
1944年10月10日、米軍は10・10那覇空襲で「民間人の大量虐殺」を行っているが、これこそハーグ条約違反そのものであり、慶良間島集団自決が始まった翌年3月26日は、島を囲む大量の米軍艦で海が黒くなるほど海を埋めつくしていたという。 戦う術も逃げ場もない島の住民に雨あられと艦砲射撃で攻撃し「島民のジェノサイド」をしていた。 ついでに言うと1945年3月26日、米軍は座間味島上陸と同時にニミッツ布告1号を発令し、全沖縄を米軍統治下に置いた。 自分(米軍)が「占領統治下」に置いた民間人に艦砲射撃で攻撃し住民をパニックに陥れた。
これこそが渡名喜先生が批判する「ハーグ条約」違反ではないのか。
ニミッツ布告1号
最後に繰り返す。
昭和19(1944)年10月10日早朝、米海軍航空母艦・巡洋艦など100隻余りが沖縄本島東の海上約280kmの地点に到達し、艦載機が那覇を目指して飛び立った。いわゆる10・10空襲である。米軍の攻撃は、小禄飛行場や那覇港など軍事拠点を皮切りに、午前7時前から午後3時過ぎまで5次にわたり行われ、のべ1,396機が出撃した。午後からの市街地への攻撃では、試験的に焼夷弾が多用された。
那覇市の市街地はコンクリートの建物を除くほとんどの家屋が焼失し、その被害は死者225人、負傷者358人で、全市域の90%近くが焼失した。この日より、多くの那覇市民が本島北部などへ疎開し、那覇は復興する間もなく米軍上陸を迎えた。
「戦前の那覇市上空」(那覇市歴史博物館提供)
「攻撃を受けた船舶(左下)と那覇市街」(那覇市歴史博物館提供)
「10・10空襲とその後の市街地戦で壊滅した那覇」(那覇市歴史博物館提供)
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8月15日発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』の編集作業が現在進行中です。ただ販促物のチラシ作成など、さらに最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。
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終戦の日というと昭和20年8月15日の玉音放送と言われている。
だが実際の「無条件降伏」を記したポツダム宣言を受諾したのは昭和20年8月10日の午前2時過ぎであり、天皇の処刑も含む無条件降伏の最終決断をしたのは昭和天皇であった。
今から78年前の今日、宮中御文庫附属庫の地下10メートルの防空壕の一室で、どんなことがあったか。これは私たち日本人が永久に忘れてはならない出来事です。
【おまけ】
昭和天皇とマッカーサーの絆!アメリカ訪問時、米国民の心を鷲掴みにした昭和天皇のスピーチに感動
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「条約派」粛清で海軍中枢に進出
“悲劇の名将”像定着
山本五十六に対する戦後の評価は、概(おおむ)ね肯定的である。即(すなわ)ち、親英米の山本は海軍の良識派に属し軍縮の実現に努力、また対米戦を避けるため日独伊三国同盟締結に強く反対した。だが思いは叶(かな)わず、それどころか対米戦の最高責任者を命じられる。己の信念と職責の相克に苦しみながらも、卓越した戦略家の山本は日本が対米戦で勝利し得る唯一の方策として真珠湾作戦を発案、万難を排し奇襲攻撃を成功させ世界戦史に名を遺(のこ)す大戦果を挙げた。
だが不運にもミッドウェイ海戦で敗北し、初戦の優位は失われる。戦局を立て直すため自ら最前線に赴き一線部隊の指揮を執るが、敵機の攻撃を受け壮烈な戦死を遂げる。最後まで平和を願いながらも、一旦(いったん)開戦となれば最も勇ましく戦い、散った“悲劇の名将”。また情に厚く部下思いで、「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」の格言も残しているように人使いの名手であった。
こうした山本五十六像が定着しているが、太平洋戦争の再考に当たり、開戦前から戦争前半を指揮した山本五十六について軍政、軍略の両面から光を当て直してみたい。
壮年期まで目立たず
山本五十六は明治17年4月4日、JR長岡駅に程近い玉蔵院町(現・長岡市坂之上町)で、旧越後長岡藩士高野貞吉の六男に生まれた。長岡中学を経て明治34年に海軍兵学校に合格、成績は2番だった。しかし入校後、成績はトップクラスを維持できず、卒業時の席次は192人中11番。既に日露戦争が始まっており、内地での練習航海を経て巡洋艦日清に配属され、日本海海戦に参加。前甲板主砲砲身の破裂で負傷し、左手の中指と人差し指を失う。
大正2年海軍大学校に入学、在校中に旧長岡藩家老の山本家を継ぐ。大正8年から10年までハーバード大学に留学、全米各地を見て回るが英語の成績は最低評価だった。帰国後霞ケ浦航空隊教頭として若い搭乗員の育成に当たるが、大正15年駐在武官として再び米国勤務を経験する。以後昭和3年から10年にかけて空母赤城艦長、海軍航空本部技術部長、第1航空戦隊司令官、海軍航空本部長と航空職域を歴任。その間、昭和4年にロンドン海軍軍縮会議全権委員の随員として渡英、昭和9年には第2次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の代表を命じられるが交渉は決裂。帰国後、永野修身(おさみ)海相に請われ昭和11年、海軍次官となる。
こう書くと輝かしい経歴を重ねたかに見えるが、必ずしもそうではない。後年の存在感の大きさを考えれば意外だが、青年期から壮年にかけての山本は一頭抜けたエリートとの評価を得ていない。寡黙で真面目だが同期の中でも目立つ存在ではなく、特段のエピソードも残していない。山本はトップクラスが必ず配属される軍令部に勤務した経験もない。海軍の本流ではなかったということだ。
山本の存在が広く知られるようになったのは軍縮会議に参加した頃だが、ロンドン軍縮会議の随員に選ばれたのは、同期で無二の親友、堀悌吉(ていきち)軍務局長の強い推薦があったからだ。堀は海兵・海軍大学ともに首席で卒業した俊英で、彼の頭脳は“海軍の宝”とまで言われた。
大正から昭和初期にかけて、海軍の軍備制限を目的に一連の軍縮交渉が続けられた。当時日本海軍内部では、英米との協調を重視し軍縮条約締結を容認する条約派と、米国に勝つには対米7割の海軍力が必要でそれを下回る条約を容認しない艦隊派と呼ばれた英米強硬派が対立していた。堀は、条約派の筆頭格であった。
ワシントンの軍縮会議で、米英日の主力艦(戦艦)と空母の保有比率が5・5・3と定められた。首席全権加藤友三郎は対米6割の制限を受け容(い)れたが、艦隊派は強く反発。次いで補助艦制限を目指すロンドン軍縮会議が開かれた。会議は難航するが、英大使松平恒雄と米全権上院議員リードの話し合いで妥協が成立、首席全権若槻礼次郎は海軍随員らに諮ることなくこれを容れ、再び7割を下回る内容で決着した。
対米7割に固執する山本は、財部(たからべ)彪(たかし)海相に再度の交渉を具申し、若槻に退けられている。この時、大蔵省随員の賀屋(かや)興宣(おきのり)(開戦時の蔵相)が財政上の制約に触れると、いきなり山本は「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴り付けている。この逸話からうかがえるように、山本は明確な対米7割論者で、財部に再考を迫った強い姿勢が艦隊派から評価された。
本国指示に従う官吏
ところが「妥協案を受諾せよ」の訓令を受けるや、なおも反対を叫ぶ他の随員らの説得役に回っている。山本は堀のように政治的識見を発揮する条約派ではなかったが、政府の方針に逆らう強硬な艦隊派でもなく、本国の指示に従い対米7割を心中に押し留(とど)める忠実な官吏だった。また艦隊派頭目の軍令部総長伏見宮に対する彼の態度も終生曖昧なものだった。
昭和9年の大角(おおすみ)岑生(みねお)海相の人事で、山梨勝之進や左近司(さこんじ)政三(せいぞう)ら条約派が予備役に追い込まれた。だが先の強硬な態度が艦隊派に歓迎されたためか、山本は粛清に遭わず第2次ロンドン軍縮会議予備交渉では代表に選ばれている。もっとも政府は交渉の決裂を見越し、海軍も無条約時代に目を向けていた。
山本のロンドン滞在中、堀悌吉が艦隊派の策謀で海軍を追われる。失意に浸る山本は自らも海軍を辞すると言いだすが、英米協調を説く条約派の指導者が相次ぎ海軍を去ったことが彼の出世に幸いした。彼らの抜けを埋める形で山本五十六は海軍次官に栄進、中央の舞台に躍り出る機会を得たのである。
(毎月1回掲載)
戦略史家東山恭三
防御軽視、戦闘機より攻撃機重視
軍縮会議契機に本腰
山本五十六が軍政面で力を注いだ分野に航空機がある。元来砲術屋であった山本が航空機に関心を持ったのはハーバード大学に留学中、当時の米国駐在武官で海軍の航空機開発を主導した上田良武大佐の薫陶を受けた時といわれる。
帰国後、海軍大学校の教官になった山本は戦艦と航空機の攻防を論じ、将来の航空戦力の重要性を説いている。だが彼が航空機の開発・整備に本腰を入れるようになった最大の契機は、前回取り上げた軍縮会議だった。ワシントン軍縮会議で日本は対米7割を確保できず、自ら参加したロンドン軍縮会議でも対米7割を下回る不本意な結果に終わった。
そこで、軍縮の対象とならない航空機を対米戦必勝の切り札と考えたのである。軍令部勤務を経験せず海軍では傍流の山本が自らの将来を賭す上でも、航空という未知の分野は魅力的であった。さらに言えば、山本が海軍の公式教義であった“大艦巨砲主義”に抗(あらが)うかのように航空主兵主義を掲げたのは、海軍の戦略を司(つかさど)る軍令畑に加われなかったことへの自身のコンプレックスも影響していたように思われる。
山本は自ら航空職域を志願、大正14年に霞ヶ浦航空隊の教頭となり、一匹狼(おおかみ)で職人芸的な技量を誇る搭乗員らを鍛え直し、航空部隊の組織づくりに注力した。駐在武官として再び渡米するが、当時ミッチェル大佐の空軍独立論や戦艦無用論が米国で話題に上っていた。その議論にも刺激を受けたと考えられる。
帰国後、山本は一線部隊と開発部門の双方で一層航空機に深く関わるようになる。特に航空本部技術部長の時には、互いに競わせる形で民間企業の育成を図り、国産航空機の開発体制整備に尽力。また艦艇の対米劣勢を補う戦力として、陸上基地から発進し米戦艦を雷爆撃できる航続距離の長い爆撃機(中攻)の開発を主導した。
日本海軍の漸減邀撃(ようげき)戦略では、日本近海での戦艦同士の艦隊決戦で雌雄を決する前に、米太平洋艦隊の戦力を少しでも減殺させるため、より前方の海域で潜水艦等補助艦による夜戦とともに、航空機による反復攻撃が想定されていたからだ。
山本や松山茂航空本部長による中攻のアイデアが、九六式陸上攻撃機やその後継の一式陸上攻撃機の誕生に繋(つな)がった。山本が航空本部を離れ海軍次官に就任した翌年(昭和12年)、海軍は三菱重工業に新型戦闘機十二試艦上戦闘機の開発を指示した。後の零式艦上戦闘機である。山本が直接零戦の開発を指揮したわけではないが、彼の努力があって海軍における国産航空機の開発体制が軌道に乗ったことは間違いない。
搭乗員不足が深刻化
太平洋戦争初頭の凱歌(がいか)は、山本が説き、かつ実践に努めた航空主兵主義の輝かしい成果であった。真珠湾攻撃とマレー沖海戦における日本の鮮やかな勝利は、それまでの戦争の常識を覆した。列国は戦艦が航空機には勝てないことを思い知らされ、戦艦主体の戦略から航空機と空母を主体とする戦略へと切り替えていくのである。
かように山本五十六は、戦間期において航空機の重要性を説いた第一人者であると同時に、海軍航空を世界最強の戦力に仕上げた最大の功労者と言える。だが半面、彼の方針は問題や弊害も残した。
戦前の日本海軍では攻撃重視の発想から、戦闘機よりも攻撃機を重視する立場が力を得るようになった。当時、九六式陸上攻撃機に九五式戦闘機が追い付けない状況があり、攻撃機は速度も航続距離でも戦闘機を凌(しの)いだ。しかも攻撃機は防護機銃を備えており敵戦闘機の攻撃も排除できると考えられたからだ。戦闘機無用論まで主張された。
中攻開発を主導したことからも窺(うかが)えるように、山本は戦闘機よりも攻撃機を重要視する派の代表格だった。山本技術部長の下で昭和11年度から戦闘機搭乗員の養成比率は大幅に引き下げられ、戦闘機隊も半分以下に縮小された。
士官搭乗員の養成数を見ると、昭和4年から同10年までの7年間の卒業者218人中、戦闘機要員は43人で全体の約20%を占めていたが、昭和11年以降は13%に激減してしまった。だが日華事変で、中国の戦闘機に最新の九六陸攻が100機以上撃墜され、援護戦闘機を伴わない攻撃機の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈した。さらに太平洋戦争に突入すると、戦闘機の部隊や搭乗員の絶対的な不足が深刻な問題となる。
航空白兵主義を招く
そもそも攻撃絶対主義を唱える日本海軍は、攻撃機開発に当たり爆弾や魚雷の搭載量を最大化することを至上命題とし、機体や搭乗員の防御を無視した。圧倒的な攻撃力があれば防御は不要という発想だ。山本もその路線を強く支持し、さらに加速させた。そのため、援護戦闘機のない攻撃機は敵戦闘機の攻撃や水上艦の対空砲火を受けると忽(たちま)ち火を噴いた。世界屈指の戦闘機零戦は重い20ミリ機銃を2門搭載したが、機体軽量化のため防御が無視されたのは攻撃機と同様だった。
対米戦において海軍航空隊は勇ましく敵艦隊に突入したが、陸兵の切り込みと同様、次々に撃ち落とされ、徒(いたずら)に優秀な搭乗員と航空機を喪失させていった。攻撃ばかりに目を奪われ、援護戦闘機や機体防御の必要性を無視した発想が、航空機や搭乗員の急速な消耗による航空戦力の著しい低下を招いたのである。水上艦艇の劣勢を補うべく航空機を対米戦の中心に据えた山本は、海軍戦史に新たなページを開いたが、同時に彼の進めた防御徹底軽視の路線が航空戦力の早期瓦解や航空白兵主義を招いたのである。その行き着く先が特攻であった。
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戦国時代から明治維新にかけてリアリズムを基調にした小説で国民的作家と称される司馬遼太郎は、太平洋戦争をテーマにした昭和時代を小説化することが出来なかった。
本や映像として残るインタビューなどを総合すると、司馬自身も戦車隊に属していたので、 ノモンハン事件について調べていたらしいが、結局小説として書くことはなかった。「一行も書けなかった」本人が述べている。その理由は、司馬本人も確かNHKのインタビューで、 「(昭和のことを)書いたら1年も持たずに気が狂って死ぬんじゃないか。私には書けなかった」 「昭和という時代は、私にとって書いていて実に精神衛生に悪いものを持っています。それをいつか若い世代が昭和を解剖して欲しい。私の言葉はそのきっかけとして若い人に託したい」 と言っている。 上の言葉は亡くなる数年前の言葉で、エッセイなどを見ても自分の寿命が長くないと本人が悟っての時期なので、事実上の遺言とも言えるかもしれない。
司馬作品がNHKの大河ドラマでは最も人気があるが、いずれも戦国時代から明治期に活躍した偉人英傑の物語である。
司馬作品は昭和期を描かなかったので、当然太平洋戦争時の英雄は大河ドラマには登場しない。
一方、太平洋戦争の英雄として現在でも国民的人気の高いのは山本五十六連合艦隊司令長官である。
次の大河ドラマは司馬作品とは離れて山本五十六大将を主人公にしたら視聴率を稼げるという声もある。
その証拠に映画ではこれまで山本五十六を主人公にした作品が制作されている。
「
2次交渉に関与せず
昭和11年12月、山本五十六は廣田弘毅内閣の海相となった永野修身(おさみ)に請われ、海軍次官に就任する。その6日前(11月25日)、日本はドイツと防共協定を締結、翌年にはイタリアが加わり三国防共協定となった。3年9カ月にわたり山本が海軍次官の職にあった間、この防共協定を事実上の軍事同盟へと強化する動きが生まれる。山本は永野の後任となった米内(よない)光政海相、井上成美軍務局長と共に、身を挺(てい)して三国同盟に反対したと今日では理解されている。しかし、実態は必ずしもそうではなかった。
三国同盟締結の動きは、1次と2次に分けて考える必要がある。第1次交渉は、昭和13年夏から14年夏にかけての三国防共協定強化の動きである。これは、独ソ不可侵条約の締結(14年8月)で頓挫した。続く第2次交渉は、昭和15年夏から三国同盟が実際に締結された同年9月までを指す。このうち三国同盟の是非を巡り論議が沸騰したのは、ドイツの破竹の勢いに幻惑され締結を強く迫る陸軍に対し、対米戦誘発の危惧から海軍が反対し鋭く対立した第2次交渉の時である。この時、既に山本は海軍次官の職を離れ、連合艦隊司令長官として海に出ており、第2次交渉には全く関わっていない。
山本が海軍次官だった当時の第1次交渉では、防共協定を強化し対ソ包囲網を形成することが主な目的とされ、対米戦問題はさほど意識されなかった。端的に言えば陸軍が北進するための同盟締結であり、米内や山本が反対したのは、独伊への接近で英米を刺激することよりも、陸軍の思惑に乗せられ海軍が対ソ戦に引き摺(ず)り込まれることを嫌ったからである。
大陸での戦争となれば、陸軍が主で海軍は従となる。英米を睨(にら)み南に目を向ける海軍からすれば、北進は受け入れ難いシナリオだ。しかも陸軍の強化が優先され、海軍の予算は削られるため、米海軍相手に軍備の大幅増強を目論(もくろ)む海軍の思惑は狂ってしまう。海軍の反対は組織防衛の側面が強く、対英米関係の悪化が反対の主な理由ではなかった。山本の反対も陸軍への消極的抵抗だった。英米戦回避のため自ら積極的に陸軍に働き掛けた事実はない。
英米協調意識希薄に
日英同盟はとうに破棄され、さらに軍縮会議で海軍は英米に不本意な結果を強いられた。山本にとっても忘れ難い屈辱の記憶である。そのうえ南進を考える当時の日本海軍にとって、英米はその途(みち)を塞(ふさ)ぐ障害となる。昭和14年2月、米内海相の下で海南島を武力占領し南に歩を進めたことからも、英米協調の意識が海軍から薄れていたことがうかがえよう。
右翼が山本を付け狙い、山本も遺書を準備していたのは事実だ。だが、陸軍に逆らったため右翼に脅され命を狙われた者はほかにも大勢いた。戦後、山本を語る際にこのエピソードが強調され、対米戦回避のため命を賭して同盟締結に反対したというイメージが生まれ、さらにそれを作家・阿川弘之が喧伝(けんでん)し、通説化させたのではなかろうか。
阿川は、米内、山本、井上の海軍三羽烏(さんばがらす)が同盟締結に逸(はや)る陸軍の前に立ちはだかったかに書くが、3人がトリオを組んでいたのは第1次交渉の時で、それも僅(わず)か1年10カ月にすぎない。しかも当時は、陸軍も同盟締結に未(いま)だ慎重な姿勢を取っていたことを付言しておく。
第2次交渉の頃には既に英独が戦端を開いており、同盟を結べば英米を刺激することは明らかだった。その一方、三国同盟にソ連も組み込めば英米を牽制(けんせい)できる。北に備え南に出やすくする同盟とも言えた。締結を迫る陸軍に対し、対米英戦に自信が持てない海相吉田善吾は強く反対した。しかし病に倒れ、後任の海相となった及川古志郎は陸軍に屈する。
昭和15年9月15日、及川海相は海軍首脳を集め、海軍として三国同盟締結已(や)む無しの意見集約を図った。もし海軍が反対すれば、近衛文麿(このえふみまろ)内閣は総辞職に追い込まれる。内閣崩壊の責任を自分は負い得ないというのが理由だった。会議では伏見宮軍令部総長が「ここまで来たら仕方無いね」と発言し、異論を抑えた。
戦略家の顔が前面に
会議の最後で山本が立ち上がり、自分は大臣の統制に絶対に服従する者であり異論を挟む考えは毛頭無いが、唯(ただ)一点、心配に絶えぬ点があり、それを尋ねたいと切り出した。そして「自分が海軍次官だった当時、企画院の物動計画では8割が英米勢力圏からの資材で賄われることになっていた。三国同盟を締結すればそれは失われるので、不足を補うためどのように物動計画を変更したのか聞かせてほしい」と及川に迫った。
現状では航空兵力が不足しており、陸上攻撃機を2倍にせねばならないと発言したとも伝えられる。「対米戦には戦闘機千機、中攻千機が必要」というのが山本の持論だったが、日本の生産力で陸攻を2倍に増やすなど不可能なことは誰よりも彼がよく知っていた。これに対し及川は、「色々御意見もありましょうが、この際は三国同盟に御賛成願いたい」と答えるのみだった。
第2次交渉の際、公の場で山本が三国同盟に関し自身の考えを吐露したのは、巷間(こうかん)伝えられる限りではこの一度だけである。山本の反対は、英米協調や親米派の立場からではなく、海軍を率い米国に戦いを挑む立場の最高司令官としての不安に拠(よ)るものだった。この3日前、近衛首相に懇請され対米戦の見通しを聞かれた山本は、「是非やれと言われれば、半年や一年は暴れて見せますが、二年三年となっては全く確信が持て」ないと戦争回避の努力を求めた。その一方、彼の胸中では、米国に勝つための秘策が育ちつつあった。かくて軍政家に代わり、戦略家・山本五十六の顔が前面に躍り出ることになる。
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沖縄戦の集団自決問題でクローズアップされた渡嘉敷島。
昭和45年(1970年)、日本軍の責任者であった赤松元大尉は渡嘉敷村から慰霊祭のスケジュールを受け取り、招待の打診を受けた。そして赤松元大尉は出席の意向を伝え、3月26日に那覇に到着した。そこで赤松元大尉は大ブーイングを浴る。
「赤松帰れ!」
「人殺し帰れ!」
そして赤松元大尉は村の人々とともにその場を後にした。つまり、赤松元大尉を非難しているのは当時の軍人、島民ではなく、全く別の人たち、つまり反日サヨクの組合員たちだった。
赤松元大尉は残念ながら那覇で足止めを食い、渡嘉敷島にわたることができなかった。赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席する。
同行した皆本元少尉の話。「島の方がたは大変残念がっていましたね。『赤松さんにぜひ来てほしかった』という声を何度も聞いております。のちに関西で行われた会合では、当時の玉井村長さんがわざわざ来てくれました」
慰霊祭の様子を琉球新報と沖縄タイムスが次のように書いている。
琉球新報(三月二十九日付)
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭-」
沖縄タイムス(三月三十日付)
「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」
慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊った。
手元の本にそのときの写真が一枚載っている。「集団自決は強制だった」という人たちは、この写真を見て何というのだろう。「死ね」と言った人たちを歓迎するわけないだろう。
島に渡れなかった赤松元大尉はモーターボートを借りて、渡嘉敷島沖まできて、島へ向けて手旗信号で何かを合図している。おそらく元部下が島にいて元隊長の意を汲むことになっていたのだろう。あの日あの時あの場所にいた死線を越えた人たち同士にしかわからない感情が手旗信号で伝わったと想像する。
平成19年(2007年)、沖縄で集団自決軍命令の教科書記述削除に抗議する、いわゆる11万人集会(実際は2万人弱)に参加した渡嘉敷村の人はゼロである。
◆
「沖縄タイムス史観」でいえば、渡嘉敷島の戦隊長は「鬼の赤松」であり、当時駐屯していた軍人は「住民を死に追いやった島の仇である」ということになるだろうが、実際は報道とは異なり、島の遺族会と旧軍人との交流は戦後ずっと続いている。
大江健三郎氏が創り上げた「島の慰霊祭に参加の為那覇空港に降りた赤松元隊長を“島の人々”が追い返した」といった神話が、島の人々にとっては、不本意な出来事であり、「故赤松隊長には気の毒なことだった」という気持ちが本音であった。
沖縄タイムスが決して報じることない、赤松氏が追い返された当時の玉井渡嘉敷村長の手記を入手したので全文引用する。
地元在住の重要証言者であるにも関わらず沖縄タイムスが一度も取材もしなかった知念元少尉と遺族会との交流も記されている。(取材もされずに知念少尉の「発言」は『鉄の暴風』には捏造されて記載されている)
沖縄タイムス史観に従えば赤松隊長の副官であった知念元少尉は遺族会の憎むべき仇のはずだが・・・。
沖縄に住んでいてもタイムス等の新聞報道に汚染されると、渡嘉敷村民が赤松隊長にどのような心情を抱いていたかについては、ミスリードされ結果として誤解されてしまう。
玉井村長が抱いていた赤松隊長に抱いていた心情を、沖縄タイムスは決して記事にすることはないだろうし、下記の玉井村長の手記を記事として報道することも決してない。
◇
終戦50周年祈念「いそとせ」沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行 に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想
遺族会発足当時を想ふ 渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八
戦後50年の節目を迎えることになった。想えば半世紀の長い年月であるが何故かそんなに時が流れた感がしない。戦災で焼失破壊された自然や物的なものは年と共に逐次その姿を取り戻し復元されつつあるが、ただ一つ取り戻すことのできない尊い人の命がある。私達は常に心の奥に犠牲になった肉親や同胞を弔い慰める気持ちがあるため時の流れを感じないかも知れない。
昭和22年復員して帰って見ると島は過去の姿はなく、生き残った村民は自失呆然で自給自足もままならぬ状況であった。
焼け残った住宅の補修や仮設住宅の設置に追われ乍らも何かしら足が地につかずの感がしてならない、村を復興するには先ず何より、村民に心の安らぎを与える途を講ずる必要を痛感し戦没者の慰霊供養を最優先すべきであることを決し、慰霊碑の建立をすることになった。
建立場所を西山の集団自決現場近くに設定したが、現地はその当時、機動力が使用できる場所でなく、すべて人力で搬送しなければならない状況にあり、いろいろ検討の結果これを実現するには肉親を失った方々が組織をつくり、率先して村当局と協力し、全村民への奉仕を呼びかけるため、はじめて遺族会が結成された。
学童をはじめ全村民の協力を得ていよいよ建立を始めたが、現場に辿り着く道らしい道がなく、天に昇るような険しいけもの道を海岸から砂や砂利を擔ぎ頭に乗せ、各自体力に応じて搬送したことは孤立した島で共に死線を越えた人々の固い絆があってこそ実現できたと思ふのである。
遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。
西山の山頂に建てられた慰霊塔(白玉之塔)には軍人、軍属、防衛隊、一般住民を含め430余柱が合祀され、毎年3月28日、集団自決の日を村の慰霊の日として行事が行われてきたが、昭和34年予期しないことにこの地一帯がホークミサイル基地として接収された為に塔への出入りが自由にできない状況となり移設を余儀なくされた。
移設場所を港の北側、部落を一眺する丘に選定し、移設費用全額米軍負担として、昭和35年に移設を完了し現在に至っている。
渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。
昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
50年の歳月は、戦争の傷跡を埋め尽くし、島の何処を眺めても戦争と直接つながるものは見ることができない。部落を見下ろす丘に戦没者の芳名を刻した白玉之塔が建っているのみである。
戦時中谷間の避難小屋で生まれた戦争を知らない子が、現在村の指導者として活躍している姿を見るとき、時の流れと世代が変わった実感が湧いてくる。
遺族会も高齢化と共に会員が減少し運営もきびしい状況にあるが、何としても維持存続し戦争の悲惨を後世に語り継がねばならない。慰霊の塔の維持管理、慰霊事業はすべて村主導で行われているので、遺族会としても村の平和行政の推進に積極的に協力して行きたい。
昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。村遺族会としてもその厚意を有り難く受け、戦争の犠牲を無にしないよう、またこれを契機に会の再建をして行く決意を新たにしている。
かっては玉砕場(集団自決跡地)又は基地(ホークミサイル基地)と呼ばれた西山の頂上は、沖縄の本土復帰を記念して設立された「国立沖縄生年の家」があり、戦争を知らない全国から集ふ青少年が自然を満喫しながら研修に励んでいる姿を見るとき、平和の尊さをしみじみ感ずるのである。
注 1.西山は北山のこと。
2.玉井喜八…1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没
3.「国立沖縄生年の家」…現在の「国立沖縄青少年交流の家」
4.句点、読点は適宜補った。
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沖縄タイムス記者により書かれて『鉄の暴風』は、執筆者自身は現地取材もせず伝聞の噂を根拠に裏どりもないまま発売された。
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【おまけ】
ノーベル賞作家の表現の自由を守るためには、老い先短い元軍人の人権など我慢せよ!
「集団自決訴訟」の控訴審判決で、小田裁判長は心の中で、「被告のノーベル賞の重さと原告の短い老い先」を、天秤に掛けた。 これを誰が否定できよう、と「大江健三郎のいかがわしさ」で書いた。
期待した通り、夏の虫ならぬ時期遅れの蝿が飛んできた。
コメント欄の書き込みである。(笑)
≪当たり前だ。 (キー坊)
2008-11-05 22:52:44
ナニが人権なのだ。
ヨボヨボ元軍人が、書かれてから40年近くも経って、自分が読んだ事もなく、自分に関する記述も無い「沖縄ノート」が自分の名誉を傷つけたなどと、ノ-ベル賞作家を訴えた裁判で、裁判官は原告勝訴の判決を下すことできるか?
世界の物笑い、いや日本でも世間の物笑いになるだけだ。最高裁でも同じさ。 ≫
まともに相手にするのもバカバカしいが、ノーベル賞作家の前に思考停止する反日坊やの心情が垣間見れて興味深い。
猟官活動ならぬ「猟賞活動」という言葉の当否はさておき、大江健三郎がノーベル文学賞獲得のため行った破廉恥な「猟賞行動」を知れば、殆どの日本人はノーベル文学賞作家大江健三郎を日本の恥として唾棄するであろう。
ちなみに「猟官制度」とは、アメリカ合衆国での政権交代における現象であるスポイル・システムの訳語で、スポイルとは(狩りの)獲物の意味、つまりは選挙という狩猟の成果で官職を得ると言うことである。
以下引用は評論家渡辺望氏が大江健三郎の「ノーベル賞作家」という虚構を粉砕した大江再批判の論文です。
◆
'08.10.18 ●渡辺 望氏 「ノーベル賞作家」という虚構 -大江健三郎への再批判-
特別編集委員 藤橋 進
安倍晋三元首相の暗殺事件以来、安倍氏を不当に貶(おとし)めようという言論が後を絶たない。それほど安倍氏のレガシーが大きいことを示しているとも言えるが、それが歴史を歪曲(わいきょく)するものである場合は、黙っているわけにはいかない。
現代史研究家で昭和史に関する著書も多数ある保阪正康氏が『週刊現代』7月15・22日号に寄稿した「岸信介と安倍晋三 戦後最大の『謎』 『安倍家』はなぜ天皇に嫌われたのか」という、一文を寄稿した。
関連記事 原稿には252首「昭和天皇の未発表御製」岸信介元首相を悼む3首や平和を願う御心
保阪氏の論文は、簡単に言うと「昭和天皇は岸を嫌っていた」というものである。その根拠として挙げているのは、昭和31年、石橋湛山首相(当時)が組閣名簿を昭和天皇にお見せした際、昭和天皇が「どうして岸を外務大臣にしたのか、彼は先般の戦争に於いて責任がある」と述べられたという話だ。日米安保改定問題で騒然とする中、石橋元首相が昭和35年4月20日付で岸信介首相(当時)に宛てた私信に書かれてあるという。
いずれにせよ、保阪氏はこれを根拠に「戦時下の岸への天皇の不信感は、歴史の流れに則った怒りであり、その感情は戦後も一貫して継続していたと言うべきであろう」と結論づけている。
しかし昭和天皇は、本紙と朝日新聞が2019年にスクープした直筆の御製の草稿で、昭和62年岸元首相が死去した際、その死を悼む御製三首を遺(のこ)されている。
「國の為務めたる君(は)秋またで世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」
「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」
「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみにきえにけり(さりゆきぬ)」
故人への陛下の思いがしみじみ伝わってくる御製だが、注目すべきは、そこで詠まれた岸氏の「ことば」について、欄外に「言葉は聲なき聲のことなり」と記されていることだ。これは、日米安保改定をめぐる騒動でデモ隊が国会を取り巻く中、岸首相がデモの参加者は限られていると指摘し、「私は“声なき声”に耳を傾けなければならないと思う」と語ったことを指す。昭和天皇は岸元首相の「深き思ひ」を理解され、同情を寄せられていたことが分かる。
天皇にとって歌は決して私的なものでなく、公的な性格を持つものだが、個人の心情を元にしていることに変わりはない。岸元首相に不信感や嫌悪が「戦後も一貫して継続していた」なら、このような歌をお詠みになるだろうか。
保阪論文は昭和天皇の岸元首相への思い、為政者としての評価を歪(ゆが)めるだけにとどまらない。断固信念を貫いた祖父の政治姿勢を手本とする安倍元首相を「安保条約の問題点や議会運営の権力的なありようにはまったく目を向けていない。つまり論理が一面的なのである」と上から目線で批判する。
安保改定が日本の安全を保障し国際共産主義の脅威からいかに守ってきたかは改めて論じるまでもない。国際政治の大局の中での判断が政治家の最大の評価の基準であることを考えるなら、「論理が一面的」なのは保阪氏の方である。
以上述べたこと以上に保阪論文で看過できないのは、安倍元首相を貶めるために、天皇の権威を利用しようという意図が透けて見えることである。「アベガー」でもしないことを現代史研究家がすべきではない。
関連記事 原稿には252首「昭和天皇の未発表御製」岸信介元首相を悼む3首や平和を願う御心
メモ:
渡嘉敷島で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き残った金城重明さん(93)が19日、亡くなった。体験の重みを背負いながら語り、平和を訴え続けた。活動を共にした人たちは「戦争の真実を伝えてくださった」と生前をしのんだ。
家永教科書裁判支援全国連のメンバーだった村上有慶さん(72)は「(家族を手にかけた)『加害』の証言は本当に苦しいものだったと思う」。話しづらそうにとつとつと体験を語る金城さんの姿を覚えている。
1988年、法廷での金城さんの証言を振り返り、「あの証言があったから、他の人も親族間での『集団自決』の証言をしてくださるようになった」と話した。
歴史教育者協議会元委員長の石山久男さん(86)は「亡くなられたのは本当に残念」と声を落とした。2006年度の高校教科書検定で「集団自決」の軍の強制などが削除された教科書問題で「金城さんに『集団自決』の真実をしっかり伝えていただいたことはとても大きかった。金城さんのこれまでの証言や思いを私たちが何とか引き継いでいかなければ」と声を強めた。
渡嘉敷島で「集団自決」を体験した吉川嘉勝さん(83)は「先生の行動に勇気付けられて自分も語る活動を始めた。思い出したくない記憶を語り始めた先生の勇気は、多くの人に戦争の真実を伝えた」と振り返る。
祖父母や母が座間味島の「集団自決」で生き残った宮城晴美さんは、会うと優しく声をかけてくれた金城さんの姿を思い出す。「身を切り裂かれるような思いで体験を語ってくれた。どんなに大変だっただろう」と声を詰まらせた。(社会部・當銘悠)
★
>「沖縄戦の真実伝えた」集団自決を生き残った金城重明さん死去
金城重明氏は、「沖縄戦の真実伝えた」歴史の証人どころか歴史を歪曲をした張本人であり、集団自決の実相とは、自分が犯した大量殺戮に対する自己弁護と責任転嫁に過ぎない。
大東亜戦争末期、慶良間諸島で起きた集団自決は、金城氏らにより「軍命」によって起きたと語り継がれていた。千九百五十年に発行された沖縄タイムス編著『鉄の暴風』は沖縄戦のバイブルとされ、同書を出典として数え切れない引用や孫引き本が出版され続けてきた。また、旧日本軍の残虐行為を告発する戦記本も『鉄の暴風』が引用されて来た。
■1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場
その日は、渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。
その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。
忘れられぬ戦争の悪夢
<赤松元海軍大尉が来島>
空港に“怒りの声”
抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、沖縄タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。
赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで事実誤認する沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。
「赤松帰れ」
「今頃沖縄に来てなんになる」
「県民に謝罪しろ」
「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」
「慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」
紙面に躍る「県民の声」を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。
わずか40名前後のサヨク団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民の猛抗議であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。
赤松元大尉に罵声を浴びせた実際の抗議団は那覇市職労を中心にしたサヨク団体であった。赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく、那覇市職労の山田義時氏であった。
肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎していた。 そのため、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。
『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空に居合わせ、その「騒動」の一部始終を目撃していた。
一連の騒動で赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊する。翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。
星氏は、前日空港で目撃したの左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの報道を見て、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。「定説」とは、「赤松元大尉の命令で集団自決が起きた」という『鉄の暴風』の伝聞による記述だ。
星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かう。船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続けていた。そして渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。
慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと左翼団体が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で別の舟をチャーターして島に接岸し、島民に弔文と花束を託すに止め、結局上陸することなく島を去った。
赤松氏は、慰霊祭で徒に騒ぎを起こすこと避け、別行動をした。
この赤松元大尉の配慮も、琉球新報の報道は「赤松元大尉、ついに雲がくれ」と悪意に満ちた大見出しで紙面トップを飾っている。
■沖縄戦史を歪曲した記事■
赤松元大尉の那覇空港での騒動を報じた1970年3月27日の沖縄タイムスの記事は、沖縄戦後史を歪な方向へ書き換え、県民を「沖縄分断」という「タイムス史観」へ扇動していくマイルストーンの役割りを果たすことになる。
先ず、この記事を見た県民は、「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」といった印象を強烈に刷り込まれる。
■大江健三郎が『沖縄ノート』を書く切っ掛けとなる記事
またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、沖縄タイムスの新川明氏記者らの即席ブリーフィングから「軍命論」を「真実である」と信じるようになる。 そして、そのにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を逞しくして『沖縄ノート」を『岩波書店』から出版することになる。
後に梅澤隊長らに提訴される「大江岩波訴訟」の原点は『鉄の暴風』だが、直接の引き金になったのは、この1970年の沖縄タイムスの記事ということが出来る。
ちなみに「大江岩波訴訟」は、大江が『鉄の暴風』の内容を真実と信じたのは止むを得ないとする「真実相当性」という法律概念を適用し、大江の名誉棄損を免責している。
沖縄集団自決のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年のタイムス記事」によって決定的になる。
■「軍命派」の重要証人、金城重明氏がマスコミに初登場
この記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場し記者の質問に答えている。金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版したり全国各地で講演するなどで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。
後に詳述する重要証言者の宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかった。
過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。
■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■
金城重明氏は、沖縄タイムスのインタビューで、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。
米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。
「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがある。まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。
その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」などと強弁する。 その矛盾に、贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。
沖縄タイムスに初めて登場する金城重明氏は、正直に心の内を吐露してはいる。 だが、当時から金城氏にとって「軍命」とは、自分が犯した「殺人」に対し一生叫び続けねばならぬ一種の免罪符であったのであろう。
金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。
≪1970年3月27日付沖縄タイムス
集団自決の生き残りとして
ー牧師となった金城重明さんの場合ー
記者:当時の状況はどうでしたか。
牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。
記者:赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。
牧師:直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。
記者:自決命令についてはどう思うか。
牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。
記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。
牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。
記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。
牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分も死ぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》
◇
1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。
ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。
沖縄県民は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。
沖縄県民の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。
同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。
だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 学校の先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。
■死者の命令で肉親を殺害する不可解■
軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。
自決とは通常自分で自分の命を奪う自殺を意味するが、金城兄弟の場合、「自殺」を試みたのではなく「他殺」で家族を含む多くの他人を殺している。
金城重明兄弟の「自決」については、同じ渡嘉敷島の出身で当時14歳の山城守治安が『渡嘉敷村史 資料編』で次のように証言している。山城盛治は、「金城重明」その兄「金城重栄」と共に「集団自決」の体験者である。
金城重明兄弟と同じ年頃の山城盛治が三人一組になって村民たちを殺戮している状況が、生々しく描かれている。
≪「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。
私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」(『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(p399~406))》
上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重栄」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、『鉄の暴風』による「赤松命令説」は、この多様な態様を全て説明できるものではない。
しかも赤松隊長は、この自決現場に臨場しておらず、「玉砕で既に死亡している」と思われていた。
銃剣で威嚇する軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺あるいは惨殺されるされる状況なら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられよう。ところがその時赤松隊長はすでに死亡したと思われていたのだ。
既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。
このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。
ここで描かれているには「集団自決」の現場ではなく「集団殺戮」の現場であるという点に、留意しておくべきだ。
では、大江岩波訴訟の被告側証人として出廷した金城重明は、証人尋問でどのように対応したか。
渡嘉敷島出身で集団自決を体験した山城盛治の証言、つまり「金城重明の殺害記録」が原告側の証拠としてが提出され、反対尋問で原告側弁護士が金城重明に「これは事実ですか」と聞いた。 原告側は金城重明が「殺害記録」を否認すると予測していた。
ところが想定外の事が起きた。
金城が「事実です」と認めてしまったのだ。まさにこの場面は裁判のクライマックスである。
これまで集団自決の語り部として有名になっていた金城牧師は、家族を殺したのは「愛」からだと、告白していた。 そこで原告側弁護士が「貴方は、親兄弟だけではなく第三者の人たちも殺害しましたね」と問い詰めたら、意外にも「はい」と呆気なく認めてしまったのだ。
この機を逃すまいと原告側弁護士が、こう畳み掛けた。
「合計何人殺しましたか」
しかし、金城は沈黙して、答えない。
そこで弁護士が「もう一回聞きます」と繰り返した。
今度は裁判長が介入してきた。 あたかも言葉に詰まる金城に救いの手を差し出すように。
AERA(7月10日号)が「『生成AI』で大学は進化する」を特集している。これまで生成AIは「人間をダメにしてしまうのではないか」と否定的な見方が多かった。特に学生のリポート作成ではAI利用が懸念されていた。
科学技術の進歩は人間の生活に資するものでなければならないし、技術の使い方によってプラスにもなればマイナスにもなることは誰でも分かっている。ただし、常に悪の誘惑に勝てるとは限らないのが人間の歴史でもある。
パソコンが出現した時でさえ、過去の論文を「コピー&ペースト」(切り貼り)して済ますことが容易になり問題になったことがあった。生成AIはネット上にアップされた膨大な情報を集めてきて、指示に応じた再構成をする機能だから、コピペのように「盗作・剽窃(ひょうせつ)の跡」がすぐにバレるようなヘマはしない。今や学生は自身が勉強しなくても、もっともらしい論文が書けるというわけだ。
だが、その生成AIは学生を怠惰にするのでなく「大学は進化する」というのである。なぜか。同誌が引用した東北大の調査では、対話型AIである「チャットGPT」を使ったことがある学生は32・4%、論文提出に利用したのが14・0%だった。まだまだ普及はしていないようだ。
だが使い方は「学生を怠惰にする」のではなく、工夫が見られる。「回答が正しいか確認し、必要に応じて修正した」のが91・8%、「書き換えたり書き足したりして自分のアイデアを生かした」のが85・3%にも上った。AIに書かせて「はい、おしまい」ではないのだ。「自分の文章力や思考力にプラスになると認識している回答が7割を超えた」という。
チャットGPT利用に懐疑的な筆者を納得させる箇所は次である。「東洋大学情報連係学部長の坂村健さん」は知的所有権や著作権の侵害、他人のパクリ、代筆、ネットからのコピーなどが「昔から『いけないこと』には変わりはない」とした上で、将棋の藤井聡太七冠の例を挙げた。「AIを相手に日々研鑽して能力を高め、人間相手の対局のときは自分の力で戦っている」ことだ。AIは回答そのものではなく、回答を導き出すツールだということである。
その上で坂村さんは「この先、生成AIは日常生活で普通に使うものになる。だったらいち早く、どう使えばうまくいくのかを習得させ、未来の道具を使いこなす新しい学生を送り出したい」と語る。大森不二雄・東北大学教授も「きちんと基礎的なリテラシーを学んだ上で使いこなす必要がある」と強調する。
その一方で利用を「すすめない」という意見も同誌は載せている。「富山大学教授で社会学者の佐藤裕さん」は、「使えるようになっておくこと自体は、悪くない」としつつ、データの内容がどれだけ信用できるものなのか、と懸念を示す。
生成AIの根拠はネット上の膨大な情報だ。それを集めて構成し「もっともらしい」ことを書いてくる。だが出典も、データの信用度も不明、官公庁のものなのか個人のものなのか、どういうサイトにあったのか、要するに検証された確かな情報ではない、ということなのだ。
テーマによっては、偏った情報が意図的にネット上に大量に流され、情報量を“操作”されていることもある。これを根拠にGPTが書けば、当然偏ったものにならざるを得ない。特に陣営間で対立し論争となっているテーマではフェイクや謀略も含まれる。リテラシーが必要なのだ。
「東京大学教授の佐倉統さん」は「自分が欲しい答えを得たいと思えば、適切な質問を投げかけないと返ってこない。『問う能力』もさらに必要」だと指摘する。
使う側の人間がより賢くならなければ正しくは使いこなせない技術なのである。怠惰になっている暇はないと気付かされる特集だ。
(岩崎 哲)