狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

国を売る「菅談話」

2010-08-13 08:32:39 | 歴史

 

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民主党は、自民党政権が決めた政策は、その内容のいかんに関わらず、「踏襲しない」というより「否定する」という姿勢でやってきた。 インド洋の給油タンカー派遣は言うに及ばず、普天間移設民では「踏襲しない」にこだわるあまり、14年にわたる模索の結果である「辺野古移設」を踏襲しなかったため、寝た子を起す羽目に陥り、墓穴を掘った鳩山首相のルーピーぶりはまだ記憶に新しい。

麻生政権が行って思わぬ経済効果を生み始めたエコカー減税も9月で打ち切るというから、やはり「踏襲しない」にこだわるつもりなのか。 これでは折角増えた自動車メーカーの「エコ減税利益」も迫り来る円高で消し飛んでしまうどころか、更なる円高不況が懸念される。

そんな経済オンチの菅首相はノンビリ中夏休みとしゃれ込んでいるが、「注意深く見守る」でけでは済む問題ではないだろう。

この緊急時に休暇とは、「菅談話」で歴史に名を刻んだとでも錯覚しているのであろう。

そう、売国奴としてわが国の歴史に名を刻んだことだけは間違いない。

閣議決定に署名した各閣僚も間違いなく一蓮托生で「売国奴」の汚名を歴史に刻むことになる。

菅首相は談話発表前に、内容は「村山談話」を踏襲すると発言していたが、ならばわざわざ「菅談話」などと寝た子を起すような大愚を行わず、

歴代自民党政権が行っていたように「村山談話を踏襲する」の一言で済まさなかったのか。

「併合100年」だからだから、首相談話が必要だという向きもあるが、一体日本の首相は何度謝罪を続ければ済むのか。

桜井よし子氏によると陛下を含む日本の歴代首脳が実に36回も謝罪しているというではないか。

櫻井よしこ 菅首相に申す】36回…なぜ謝罪続ける

「歴代内閣を踏襲する」の一言で済むことを、閣議決定による首相談話として新たに謝罪文を公表すれば、それが「個人賠償」という新たな火種になることくらい小学生でもわかること。

何を今さら屋上屋を築き新たな火種を作る必要があろう。

早速、韓国側に不満が続出でこの有様だ。

 韓国市民団体、日本首相「謝罪談話」に失望表明(聯合ニュース 8月10日)

植民地支配の被害者の補償問題に対する言及もない、言語的修辞にとどまったことが残念だとし、全体的な流れから見ると、韓国と日本間の不信と障壁を乗り越えるには不十分だったとした。

 太平洋戦争犠牲者遺族会も、「本当に期待に及ばない内容だ。日本が本当に反省しているのか疑わしい。談話にある『痛切な反省』も信じられない」と述べた


 文化財返還と関連しては、国際法改正で日本が保有したくてもできなくなっていると指摘し、日本は韓国から持ち出した文化財をすべて返還すべきだと強調した。

 
韓国挺身隊問題対策協議会もまた、植民地支配で苦痛を受けた被害者問題
に対する明確な見解を明らかにせず、謝罪だけするのはまったく意味がないと強調。歴史問題を真実で解決しようとするなら、被害者への補償と立法措置を行うべきだと提案した。

                      ◇


日韓併合100年:首相談話 「条約の強制性に言及せず遺憾」--民団コメント(毎日新聞 8月10日)

首相談話について、在日本大韓民国民団中央本部は、村山首相談話を踏襲した内容を評価する一方で「(日韓併合)条約の強制性に言及していないことは遺憾。
謝罪や反省より、条約自体が無効であることを認めることが、今後の日韓関係にはプラスだ。
併合の結果として日本に在住している在日韓国人の参政権の早期付与を望む」などとコメントを発表した。
在日本朝鮮人総連合会中央本部は「コメントなどを出す予定はない」としている。


                       ◇

火種はさらに中国にまで飛び火し、今度は中国にも謝り続けるとう構図が「菅談話」で出来上がりつつある。

【首相談話】中国紙も高い関心「日本のおわびは韓国だけでない」(産経 2010/8/11)>

中国の次は何処に謝ればいいのだ、菅首相。(怒)

                       ◇

ただ「菅談話」を発表したからといって直ちに「戦時売春婦」に対する個人賠償の動きがあるとは思わないが、「菅談話」によってわが国が韓国に対して弱みを持ったことを外交上認めたことはまぎれもない事実だ。

韓国側は謝罪に対する賠償として、金銭による賠償(日韓基本条約で決着済み)といった目に付く手段でなくともいくらでもある。

が、特に気になるのがこれだ。

在日本大韓民国民団中央本部は・・・・「併合の結果として日本に在住している在日韓国人の参政権の早期付与を望む」などとコメントを発表した

謝罪による日本側の弱味に付け込んで韓国が次々と要求してくると予想できる外交案件は、ざっと思いつくだけでも、このとおりだ。

1)竹島は韓国領土と認めよ。

2)日本海は東海と呼称変更せよ。

3)歴史教科書に従軍慰安婦の強制連行を記述せよ。

4)靖国参拝は止めよ。

効果てきめん、(4)に対しては売国閣僚が先回りして早速恭順の意を表している。⇒
全閣僚が靖国参拝見送りへ=菅内閣、終戦記念日に(時事通信 8月10日)

考えるだけで頭が痛くなってくるが、売国奴閣僚の靖国参拝見送りのコメントが振るっている。

国家観がスッカラカンの菅首相が靖国参拝をしない理由に「A級戦犯云々」を挙げているのはA級戦犯の意味が分からない無知のせいだと一応の納得はしても、

閣僚の中でも少しは骨があるかと思っていた前原国交相がスッカラ菅の言葉を踏襲するとは。

やはりこの男もただのクズであることが分かっただけでもよしとしよう。


閣僚の靖国参拝見送りに関するコメント>(時事通信 8月10日)

菅首相        A級戦犯が合祀(ごうし)。首相・閣僚の公式参拝は問題
原口総務相      内閣の方針に従う
千葉法相       公式参拝は控えるのが基本的な内閣の考え方
岡田外相       A級戦犯が合祀されており、閣僚の参拝は不適切
野田財務相      まだ判断していないが、多分行かない
川端文科相      静かな環境でその日を迎えたい
長妻厚労相      A級戦犯の合祀にかんがみて
山田農水相      カトリック信者のため
直嶋経産相      予定はない
前原国交相      A級戦犯が合祀されているため
小沢環境相      閣僚としては行かない
北沢防衛相      終戦関連の本を読んで思いをいたす
仙谷官房長官     閣僚は参拝を自粛するのが従来の政府の考え方
中井公安委員長    帰省中
荒井国家戦略相    参拝予定がない
玄葉公務員改革相   閣僚として参拝することはない
蓮舫行政刷新相    理由は特段ない
自見郵政改革・金融相 近隣の国が不愉快に思うことは閣僚として避けるべきだ

                         ◇

売国奴として日本の政治史に汚点を印した閣僚の「言い訳」を聞いて笑ってやって欲しい。

山田農水相のトンチンカンな勘違い弁明はおいても、あの蓮舫行政刷新相の言い草は一体なんだ。

一国の大臣という要職にありながら、何の信念も無く、ただなんとなく見送る、というわけか。

 

ここで今流行の謎かけを一つ。

◆蓮舫とかけて,

ジェームスディーンと解く。

その心は・・・・。

どちらも「理由無き反抗」をしています。

お後がよろしいようで。

 

【追記】

先ほどテレ朝「スパーモーニング」のインタビューで「貯蓄税というのがあることは寡聞にしてしらない」と発言し、全国に恥を晒した野田財務大臣。

一般の人ならともかく経済通のエリート官僚を「政治主導する」という財務大臣が、貯蓄税の実行の当否はさておいても、貯蓄税の存在そのものを知らないとは、経済オンチの菅首相をはじめ飛んだ学級委員内閣に国の運営を任したことを、悔やむべきだ。(民主党支持者へ)

その野田大臣、売国奴閣僚の中では比較的まともな国家観を持つ言動をしていたが、靖国参拝に関して「まだ判断していないが、多分行かない」とは一体どういうことか。

その時々で国家観が揺れ動くとでも言うのか。

野田大臣は過去には、こんなまともなことも言っていた。

小泉純一郎内閣総理大臣に宛てた質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は不可思議」、「南京大虐殺肯定派の論理は破綻している」と政府の戦後史観の対応の甘さを批判した。>(ウィキペディア)

「A級戦犯合祀」を理由に参拝拒否をした、菅首相、岡田外相、長妻厚労相、前原国交相に対して、そんな論理で参拝拒否は不思議」だと批判できるのか。

どうせ何もいえないクズだということが分かっただけでも収穫だが、いずれにせよクズの集団でよく内閣を作ったものだ。

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コメント (7)

「琉球処分」が沖縄タイムスの今年のテーマ?

2009-01-08 07:55:33 | 歴史

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現在でいう国という概念が日本に定着するのは明治期になってからである。

国という言葉は古くは「大国主の尊」にみられるが、戦国時代の国や司馬遼太郎の『国盗り物語』で盗リあいをした国々は、現在で言えば県と県が侵略しあっていたことになる。

ちなみに「国」のつく言葉は思いつくだけでも、「国訛り」「お国言葉」「(殿様の)お国入り」などがある。

ちなみついでにもう一つ挙げると、川端康成の名作『雪国』に出てくる有名な冒頭の一節「国境のトンネルを抜けるとそこは雪国であった」に出てくる「国境」は「くにざかい」と読むのが正しい。(・・と思うが、確証はないので詳しい方教えて)

それが明治期になって、それまで国といわれた各藩が中央政府によってすべてを没収されることになる。 

侵略史観に立てば明治政府による地方国家の侵略であり、琉球王国が琉球藩、そして沖縄県と明治政府に組み込まれていくのも侵略だということになる。

さて、今年の沖縄タイムスは「沖縄が日本の一部に組み込まれていく状況」がテーマのようで、今朝の朝刊文化面も連載企画の第四回で「琉球処分」と大見出しである。

「琉球処分」とは琉球から沖縄に代わる際の行政手続の様子をいうが、「恨み史観」で見ると遠く慶長の「薩摩の琉球入り」を称して「第一次琉球処分」、明治期のそれを「第二次琉球処分」そして大戦後の米軍統治下の沖縄を「第三次琉球処分」と呼ぶらしい。

三つの「処分」に共通するのは「恨み史観」である。

以下は「琉球処分」に関する1年前のエントリーの再掲です。

                   ◇

 

■ 「琉球処分Ⅲ」■

「琉球処分」も廃藩置県も日本各県が経験したという視点で見れば日本史流れのの中の共同体験だと言うことが出来る。

廃藩置県は全国諸藩の意志に関係なく、反対する藩があれば容赦なく武力で討つという明治政府の威圧の元に断行された。

その意味で言えば、確かに「琉球処分」は廃藩置県の一種だといえなくもない。

明治維新の原動力となった薩長土肥の下級武士は出身藩の兵と資金でもって幕府を倒した。

それにも拘らず、倒幕から成立した明治政府によって倒幕を支援した藩そのものも潰され、更には武士の誇りも特権も経済基盤である禄高制さえ取り上げられ四民平等の「国民」に組み込まれた。

自分の資金と人材により幕府を倒し新政府を作ったら、その新政府が今度は自分の全ての権益を取り上げ更には解体を迫る。

倒幕派の藩主から見れば、歴史上これほどバカバカしい話はない。

現在の例えで言えば投げたブーメランに己が身を打ち砕かれたようなものだろう。

島津藩主久光が家来の西郷隆盛や大久保利通が突きつけた「廃藩置県」の断行に怒り狂った気持ちは一世紀以上の時を隔てても理解できる。

明治の群像を『飛ぶが如く』や『坂の上の雲』でみずみずしく描いた司馬遼太郎氏は、

「琉球処分」という言葉が多くの琉球史では一見琉球のみに加えられた明治政府の非道な暴力的措置のように書かれていることに疑念を投げかけている。

「(琉球処分と)同時代に、同原理でおこなわれた本土における廃藩置県の実情については普通触れられてはいない。 つまり、本土との共同体験としては書かれていない。」(「街道をゆく 6」)

琉球が特殊な歴史・文化を持っていることは認めても、「琉球処分」はウチナーンビケン(沖縄独特)ではない。

日本史の明治国家成立の過程で見られる普遍的な歴史的現象だというのである。

琉球の場合は、歴史的にも経済的にも、本土の諸藩とはちがっている。 更には日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかも知れないが、しかし事態を廃藩置県とという行政措置にかぎっていえば、その深刻のどあいは本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える。」(「街道をゆく」⑥27頁)

しかし、このように「琉球処分」を琉球独自の歴史ではなく日本史の中の明治維新の一過程と捉える司馬氏の歴史観には沖縄の左翼歴史家は猛然と反発するだろう。

その例が先日取り上げた某大学講師の、

琉球は日本ではないのだから、琉球処分は明治維新の国造りの過程ではなく、海外侵略である」という論である。

その論に従うと「琉球処分」は無効だという。

煩雑を承知で、その無効論を再引用する。

<「人道に対する罪を構成」

戦争法規の適用

では、日本による琉球統治は正当だったのか。 日本が琉球の領土支配正当化するためには、日本が琉球を実行支配してきたか、もしくは琉球人に日本人としての帰属意識があることを証明する必要がある。

紙幅の関係上結論を先に述べると、日本による琉球の日本の領土編入は、国際法上の主体である琉球の意志を無視した、明治政府による暴力的で一方的な併合であり、国際法上大きな疑義があるということである。(上村英明『先住民族の「近代史」』>(琉球新報 1月15日)

このような論が当時から沖縄に存在するのを司馬氏は先刻ご承知のようで、自分で表立って反論せずに沖縄民俗学の大家・比嘉春潮氏の著書からの引用でやんわりと対処している。

<何にしても、私は10年ばかり前では、沖縄と本土とが歴史を共有しはじめた最初は廃藩置県からだ、とばかり思っていた。 しかし、そのことはすこしのんきすぎたようでもある。 ホテルの部屋にもどって~ベッドの上に寝転がっていたが、このことを考えはじめると、眠れそうにない。 
雑誌「太陽」の1970年9月号に、比嘉春潮氏が「沖縄のこころ」という、いい文章を寄せておられる。

≪沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。 このころ、来た九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。 その波は南九州の沿岸に住む、主として漁労民族を刺激して、南の島々に移動せしめたと考えられる。 この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。 そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の1支族ー沖縄民族が誕生する。≫

沖縄人の由来について、これほど簡潔に性格に述べられた文章はまれといっていい。 さらに「沖縄民族」という言葉については、氏はその著『新稿沖縄の歴史(三一書房)の自序において、「フォルクとしての沖縄民族は嘗て存在したが、今日沖縄人はナチオンとしての日本民族の1部であり、これとは別に沖縄民族というものがあるわけではない」と、書いておられる。

日本民族の中における沖縄人の巨視的関係位置はこの優れた民族学者のみじかい文章で尽くされているわけで、いまさら私が、那覇の町で思いわずらうこともなさそうである。
しかし、という以下のことを書く前に、1氏族が1社会を構成する前に歴史の共有ということが大きい、ということを、つい思わざるをえない。 日本の本島のなかでも、歴史をすみずみまで共有したのは、さほどの過去ではない。 例えば奥州の青森・岩手の両県が九州の五島列島とおなじ歴史の共同体験をするという時代は、秀吉の天下統一からである。(略) 豊臣政権下で大名になった五島氏は、明治4年の廃藩置県で島を去り、東京に移された。 旧藩主を太政官のおひざもとの東京に定住させるというのは、このとうじの方針で、薩摩の島津氏の当主忠義も、長州の毛利氏の当主も東京にいわば体よく長期禁足されていて、丘陵地に帰ることを許されていない。 このことは最後の琉球王尚泰においても同じである。>(「街道をゆく 6」)

大きな流れで言えば沖縄民族は日本民族の支流である、の一言で某大学講師の「琉球処分=違法な植民地侵略」論を粉砕している。

それでも司馬遼太郎氏は「共同体験をしたから結構だといっているのではない」と断り書きを入れて、

琉球藩が廃藩置県以前、250年にわったて薩摩藩から受けた「痛烈な非搾取の歴史」を述べて日本史上他の藩と異なる特殊性を完全に無視はしていない。

司馬氏は「司馬史観」と呼ばれるリアリズムを歴史小説のバックボーンにしており、

封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新を高く評価する。

その歴史観によれば「琉球処分」も日本が近代国家建設のため中央集権国家を作っていく合理主義つまりリアリズムの産物であり、肯定的な見方をしている。

■「鉄の暴風」に毒された「司馬史観」■

一方で、「司馬史観」は昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定して自虐史観に陥っていく。

沖縄史に関しても明治期の「琉球処分」では日本の発展していく過程の歴史共有(廃藩置県)として前向きに捉えていたのが

「沖縄戦」となると突如大江健三郎氏と同じ軸足で歴史を見るようになるから不思議だ。

「街道をゆく 6」でも「琉球処分」を述べた後に次のようなくだりがある。

<太平洋戦争における沖縄戦は、歴史の共有などという大まかな感覚のなかに、とても入りきれるものではない。
同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄では現実におこなわれ、その戦場で15万の県民と9万の兵隊が死んだ。
この戦場における事実群の収録ともいうべき『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)という本を読んだとき、一晩ねむれなかった記憶がある。>(「街道をゆく」6-1978年刊)

なるほど、『デマの暴風』とも言われる『鉄の暴風』を、沖縄戦の「戦場における事実群の収録」として読んだら流石の司馬遼太郎先生も精神が変になりそうで、大江健三郎を彷彿させる逸話を書く羽目に陥っている。

ところで大江健三郎氏の「自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、」という有名な文を書いたのは昭和33年だが、

司馬遼太郎氏が『鉄の暴風』を読む以前にこの文を読んでいた可能性はある。

司馬氏はRさんという在日朝鮮人らしき人の口を借りて、沖縄人にも「帰るべき祖国がない」といったことを言わしている。

■大江健三郎にも毒された「司馬史観」■

<ごく最近、古美術好きの私の友人が、沖縄へ行った。彼は在日朝鮮人で、歳は50すぎの、どういうときでも分別のよさをかんじさせる人物である。

彼は帰ってきて、那覇で出会った老紳士の話をした。 私の友人はRという。
ーーRさんはいいですね。
とその老紳士は、しみじみとした口調で、「祖国があるから」と言った。相手が日本人ならば、このひとは決してこうわ言わなかったにちがいない。 
この話をきいたときの衝撃は、いまなおつづいている。 自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いがした。>(「街道をゆく 6」)

沖縄人の立場から言わせてもらうと、司馬氏が「街道をゆく 6」を出版した1978年の時点で、この沖縄の老紳士のように「祖国がない」と考える沖縄人は特殊な思想の人々はともかく普通の県民ではとても考えられないことである。

それにしてもあれほどリアリズムで歴史を見てきた司馬氏が、

沖縄の地上戦のことを考えて精神が変になりそうになり

『鉄の暴風』を読んだら一晩眠れなくなってしまう

あげくの果てには司馬氏は、沖縄の老紳士の話を伝え聞いて、

衝撃が続き、自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いをしたと述べている。

■帰るべき祖国とは■

文中の沖縄の老紳士の特殊な思想に影響を与えたと思われる大江健三郎氏の文を下記に引用する。

<結婚式をあげて深夜に戻つてきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。
それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。 このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった> (わがテレビ体験、大江健三郎、「群像」(昭36年3月号)>

このお方、日本人であることを放棄しているのだろうか。


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見直したぞ!佐藤栄作 強かな愛国者

2008-12-24 08:31:14 | 歴史

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会見場に詰め掛けた新聞記者たちに向かってギョロ目をむいて退場を迫る佐藤栄作元首相の風貌は、見方によっては西郷隆盛をも思わせた。

事実をそのまま放映するテレビはともかく、事実を歪曲して報道する新聞の取材は拒否するというのだ。

偏向新聞に媚をうる今時の政治家とは大違いだ。

やはり佐藤栄作は只者ではなかった。

少なくとも並みの政治家ではなかった。

前に、文学賞、平和賞などの文系のノーベル賞はいかがわしいから廃止せよと書いた。

発端は佐藤が「非核三原則」で、ノーベル平和賞を受賞したときからだ。

「平和憲法」に屋上屋を設け、「平和団体」が感涙に咽ぶような「非核三原則」で彼らに媚びる姿に、ノーベル平和賞のいかがわさを感じたからだ。 

そしてそのとき、あらためて「平和の念仏」で平和は得られない、との感を強くした。

それ以来佐藤は、沖縄返還とお笑い系俳優佐藤B作 のパロディの対象としてしか認識しなくなった。

だが、今回の外務省文書公開で、佐藤は日本の政治家の中ではA級の政治家であったことが判明した。

ギョロ目で偏向新聞を恫喝するだけではないA級の、佐藤A作であることが証明されたのだ。

 

「日中戦争なら核報復を」 佐藤首相、65年訪米時に

2008年12月22日3時1分

写真佐藤栄作氏

写真マクナマラ元米国防長官

 1965年1月に訪米した当時の佐藤栄作首相がマクナマラ国防長官との会談で、その3カ月前に中国が初めて実施した核実験をめぐり「(日中で)戦争になれば、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と表明、核戦争を容認していた様子が、22日付で外務省が公開した外交文書で明らかになった。

 長官との会談は1月13日に行われた。前年10月に実施された中国の核実験をめぐり、長官が「今後2~3年でどう発展するか注目に値する。日本は今後、核兵器の開発をやるのかやらないのか」と迫ったのに対し、首相は「日本は核兵器の所有、使用はあくまで反対」と米国の「核の傘」の下にいる立場を強調した。

 続いて首相は「核兵器の持ち込みとなれば、これは安保条約で規定されており、陸上への持ち込みについては発言に気をつけて頂きたい」と断ったうえで「(中国との)戦争になれば話は別で、米国が直ちに核兵器による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器用施設をつくることは簡単ではないが、洋上のものならば直ちに発動できると思う」と述べた。長官は「なんら技術的な問題はない」と応じた。

 このやりとりは、60年1月の日米安全保障条約改正時の密約が前提にあるとみられる。「洋上」は艦船を指し、核を搭載した米艦船の寄港は、密約によって日米間の事前協議が不要とされていた。

 一方、その前日のジョンソン大統領との会談では、首相が「中共(中国)の核武装にかかわらず、日本は核武装は行わず、米国との安全保障条約に依存するほかない。米国があくまで日本を守るとの保証を得たい」と求め、大統領は「保証する」と述べた。

 この会談で首相が「中共が核を持つなら日本も持つべきだと考える」と発言したことが98年、米国の公文書で明らかになっている。今回公開された外交文書でこの発言は確認できなかった。

 ただ、マクナマラ長官に対しては「技術的にはもちろん核爆弾をつくれないことはない」「宇宙開発のためのロケットを生産している。これは必要があれば軍用に使うことができる」と発言している。

 「日本は核武装できる」としながら「核武装せず米国に期待する」と表明した佐藤氏はその後、「非核三原則」などが評価され、74年にノーベル平和賞を受賞した。(石塚広志、稲田信司)

     ◇

 米国在住のマクナマラ元国防長官(92)は、朝日新聞の電話取材に応じた。65年1月13日付の佐藤首相との会談録にある日本の核軍備への言及の真意について「中国の核実験に対し、日本がどう反応するか懸念を抱いていた。日本が軍拡競争に巻き込まれていたら核が地域に拡散していたと思う」と述べた。

 また、日中が戦争に陥った場合に米国に核による報復を首相が求めた点については「発言は確認できない」としながら、「中国の核開発に脅威を感じ、米国が日本を守るという確約を得たかったのではないか。中国にも米国の核抑止力を知ってほしいと思っていたのかもしれない」と語った。

     ◇

 〈菅英輝・西南女学院大教授(日米外交史)の話〉佐藤首相は「核は戦争を避けるため」という建前を超え、「核で報復を」と踏み込んだ。当時の国内世論のもとでこうした発言が表面化すれば、政権は吹っ飛ぶ可能性すらあった。米国が日本の核武装を懸念していることを佐藤首相はよく知っており、相手に警戒心を持たせる意図で核武装をほのめかしている。中国の核保有が現実となっていく中で、より確実な安全保障を取りつけるための外交カードの意味合いが強い。

     ◇

 〈核持ち込みをめぐる日米密約〉60年1月の日米安保条約改正時に、日本国内での核兵器貯蔵・配備は日米間の事前協議が必要としたが、秘密合意で核兵器を積んだ米艦船の寄港、航空機の領空の一時通過などの場合、事前協議は不要とした。00年に米政府の公文書で明るみに出た。日本政府は密約の存在を否定している。

     ◇

 外務省は22日付で、60年代を中心とする外交文書を公開した。76年から始まった公開の21回目となる今回は、日本の首相訪米▽国連への各国加盟状況▽核実験停止会議、などに関する資料がある。22日から東京・麻布台の外交史料館で閲覧できる。

                                               ◇

時計代わりに見ている、「みのもんた朝ズバ!」(聞いていると言った方が正確だが)によると、当日の各紙朝刊は朝日を初め一面トップで、佐藤栄作元首相の「核報復」の記事で埋めていたようだ。

コメンテーターが「こんなことが当時漏れていたら、内閣はブッ潰れていただろう」と、「非核三原則」を標榜しながら、とんでもないことをしていたといったニュアンスのコメント。

そりゃそうだろう、アレから44年も経っているのに、未だに「核保有」どころか「核議論」さえ許さない「平和ボケ日本」のマスコミ論調だ。 

当時は学生運動の盛んだった60年代のこと。

内閣がひっくり返るだけでは済まず、過激派学生による「首相暗殺」だって起こりえただろう。

憲法九条の縛りにもかかわらず、日本が「軍隊」を保持していることは国民共通の認識である。 同じく「非核三原則」の縛りにもかかわらず「持ち込み」を知る人は知る。

そして、核の傘の下にいながらも、有事の際に米国が核で守ってくれるかどうかが、常に日本の不安の種でもあった。

だが、「平和憲法」を守るよりも、日本国の安全保障を第一に考える佐藤は

、時の米大統領ジョンソンから日本が核攻撃された場合の「核報復」の確約を取っていた。

「卵が先か鶏が先か」の謎はともかく、「核報復確約」が先か「非核三原則」が先かを調べてみたら、佐藤の強かな「瀬戸際外交」が浮かび上がってくる。

一連の核関連外交を時系列で拾うと、こうなる。

①佐藤は先ず、60年にはジョンソン大統領との会談で、「中共(中国)の核武装にかかわらず、日本は核武装は行わず、米国との安全保障条約に依存するほかない。米国があくまで日本を守るとの保証を得たい」と求め、大統領の「保証する」の言質をとっている。

65年、前年の中国の核実験を受け、佐藤は「(中国に攻撃されたら)米国が直ちに核兵器による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器用施設をつくることは簡単ではないが、洋上のものならば直ちに発動できると思う」と述べた。長官は「なんら技術的な問題はない」とここでも米国側の言質をとっている。

③そして、佐藤は1967年(昭和42年)12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の、いわゆる非核三原則を表明した

佐藤の動き
60年・ジョンソン大統領の言質⇒65。年マクナマラ国防長官の言質⇒67年・「非核三原則」

お見事!

佐藤は、いわゆる「平和ボケ」で何の担保もなく、「非核三原則」を述べたのではなかった。

強かにも「日本は技術的にも経済的にも核を持つちからはあるが核は持たない。だからお前(米国)がそう(日本の核放棄)望むなら核を持ち込んで核報復を保証せよ」と米大統領と国務長官に迫り、それぞれ確約を得た。

そしてその後の「非核三原則」だったのだ。

ところが最近では「非核三原則」に、「議論せず」を加えて「非核四原則」だといわれている。

一連の外交文書公開で明らかになったことは、佐藤栄作は「非核三原則」を根拠なく唱える「非核論者」ではなく、リアリストとして平和を模索する実質上の「核武装主義者」であった。

彼は、核を持つという外交カードでアメリカを牽制しながらアメリカとの同盟関係を維持していた。

彼に与えられた「ノーベル平和賞」は「夢想平和主義者」としてではなく「現実的平和主義者」としての彼の政治活動に与えられたのだろう。

「みのもんた朝ズバ!」の与良解説員(毎日新聞論説委員)の佐藤批判の言葉が、逆に佐藤の正しさを証明しているようで興味深かった。

与良解説員:
「(佐藤の行為は)健全な核アレルギーを黙らせる行為」

アレルギーとは病的症状をいう。

病気に健全も不健全もない。

語るに落ちたぞ・・・「核アレルギー」はビョーキなのだ。

そして与良は、こうもいった。

「カマトトといわれようと、青臭いといわれようと、書生くさいといわれようと、核兵器反対!」

そう、彼らの「核兵器反対」は、「カマトトであり、青臭く、書生くさい理想論、いや夢想論」である。

これをを病人自ら吐露してしまったわけだ。(爆)

佐藤栄作は日本の安全を、そして平和を真剣に考えていたA級の政治家である!

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続・琉球処分 歴史の流れを見誤った人々と本物のバカ

2008-08-27 08:23:00 | 歴史

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小型ながらも近代装備の高速艇の乗船券を持ちながら、あえてそれを捨て、沈没しかかった大型泥船に乗り換えようとする学者バカの面々がいた。

沖縄の近代史に名が出てくる人々は、紛れもなく当時の「学識者」たちである。

学ある人々が正しい判断が出来るとは限らない。

学あるバカは恐ろしい!

タイムスの後田多敦記者は幸地朝常、林世功、蔡大鼎一行を、琉球近代史の英雄と捉えているようだが、

彼らこそ、「なまじ学あるバカ」の典型ではなかったのか。

歴史上の人物に「バカ」は礼を失するので、

「歴史の流れを見誤った人々」とでも言い換えておこう。

 

だが、現在でも泥船を援軍の黄色い軍艦と信じている人は、「本物のバカ」なのだろう。

◆『沖縄タイムス』大弦小弦 (2005年8月8日 朝刊 1面)

 やんばるへ出かけたついでに、名護の湖辺底の港を訪ねてみた。高速道路の許田IC近く、周辺の木立や砂浜が昔の琉球の面影を残しているようで、味わいのある景観だ。琉球国時代は、薩摩への上納米を集積する四津口(港)の一つだったという。
 この港から、一八七六年十二月十日に琉球から中国へ最初の政治亡命となる幸地朝常、林世功、蔡大鼎一行が出航した。その馬艦船には国王尚泰の密書を携えた幸地、通訳や医師、身の回りの世話をする者らおよそ四十人が乗っていた。

 琉球と明治政府のせめぎ合いは、彼らの主体的な活動で清を巻き込んだ琉球の主権問題として拡大していく。その中で、琉球を二分し日清が分割所有するとの案を日清間で合意。その渦中の八〇年、林世功は抗議の自殺をしている。

 つい最近、北京大学の徐勇教授が「沖縄が日本の領土になったのは琉球王国に対する侵略の結果であり、第二次世界大戦後の米国からの返還も国際法上の根拠を欠き『主権の帰属は未確定』」との論文を発表した。

 共同通信が北京発で伝えた(二日付朝刊)。表面から消えたかに見えた琉球問題が、再び話題になり始めている。二十世紀もカイロ宣言からポツダム宣言、さらにサンフランシスコ平和条約と沖縄の位置は大きな課題とセットで動いた。

 歴史の節目で翻弄されるのか、それとも自らかじを取るか。主体的なら、選択肢があることを歴史は教える。(後田多敦)

                    ◇ 

 

>表面から消えたかに見えた琉球問題が、再び話題になり始めている。

やはり「本物のバカ」だ!

 

口直しに、太平山さんの「琉球処分」続編を以下に転載いたします。

 
                    ◆

 公開   琉球処分(5) 2008-08-22 21:44:02 太平山
中国の援軍と琉球処分 

 

琉球処分(5) 幸地親方

先に私は「沖縄では先の琉球処分を日本の侵略としてとらえ琉球を被害者として見る向きがあり清国へ渡った幸地親方を始めとする頑固党一派を分島案を阻止した功労者として評価する偉い先生方もいます」と言いました。

その代表的存在が琉球大学教授の西里喜行氏だと思います。氏は平成10年6月1日~6月5日にかけて「琉球分割の危機」という題で沖縄タイムスに論考を寄せています。ちょうど10年前ですね。狼魔人さんも読まれたかと推察します。

それによると琉球分割案には3案あったことが記されています。以下のとおりです。

(1) 琉球列島二分割案(グラント提案)

前アメリカ大統領グラントが提起した案で実際には二分割案か三分割案か定かではないが日本政府は二分割案と受け止めたようです。すなわち北琉球の奄美、中琉球の沖縄本島、は日本が領有し宮古、石垣の南琉球は清が領有すると言った案です。

(2) 琉球列島三分割案(清国提案)

北島(奄美)は日本が南島(宮古、石垣)は清が領有し中島(沖縄本島)には琉球王国を復活させるという内容でした。

(3) 琉球列島二分割案(清国提案)

北島(奄美)、中島(沖縄本島) は日本が領有し南島(宮古、石垣)に琉球王国を復活させるという内容で交渉が難航した際の清国側からの代案というべきものでした。

以上ですが番号は交渉過程において提案された順に振ってあります。(1) ,(2)は大抵の人が知っていると思いますが(3)については西里教授の論文を読んで初めて知りました。宮古、石垣に琉球王国を復活させる。おもしろい話ですね。この件について、西里教授の論文を抜粋紹介しましょう。

(つづく)
 
公開   琉球処分(6) 2008-08-22 21:49:02 太平山 中国の援軍と琉球処分 
琉球処分(6) 幸地親方

琉球大学教授西里喜行氏の論文「琉球分割の危機」より抜粋

>分島案については清国側も抵抗なく合意したが、尚泰およびその一族の引き渡し問題をめぐって難航した。清国側は割譲予定の南島に王国を復活させ、尚泰かその子息を国王に即位させるつもりで引き渡しを要求したけれども、日本側は尚泰一族の引き渡しを拒絶し、その代わり天津に滞在している琉球人の向徳宏(幸地朝常)を国王に即位させるよう勧告した。

当時、向徳宏(幸地朝常)は李鴻章への救援を要請中であった。分島案については、清国側代表は李鴻章の賛成を取り付けていたことから、李鴻章が説得すれば向徳宏(幸地朝常)は国王即位に同意するものと速断し、向徳宏の意向を確かめることなく、八〇年十月二十一日、日本側代表との間で琉球分割条約に合意するとともに、十日後に調印することを約束するのである。<

※以上ですが当の向徳宏(幸地朝常)はそれに対しどう対応したか、西里教授は次のように記しています。

>向徳宏の性格は忍耐強く忠誠心に富み、琉球王の親族であることも明白なので、尚泰以外の人物を琉球王に立てるとすれば、彼以上の人物はいない。ところが、当の向徳宏は貧瘠(ひんせき)の南部二島(宮古、石垣)に自立できる条件はないといい、分島=建国案は「断断として遵行(じゅんこう)し能わず」と泣いて訴え、どのような説得にも応じない等々。

「訴えに李の心動く」

琉球分割=南島建国に断固反対する向徳宏の悲壮な姿に感銘を受けた李鴻章は、ついにこれまでの分島案容認の態度を変更し、書簡の最後の一節で、日清交渉の妥結を延期するよう要請した。向徳宏は、李鴻章に態度変更を決断させる上で決定的役割を果たしたのである。しかし、十月二十一日の交渉妥結以前に、この李鴻章書簡が総理衛門(清国外務省)へ届いたのかどうかは明らかではない。いずれにせよ、李鴻章の態度変更は、琉球分割条約に調印すべきか否かをめぐる清国内の大論争の発端となる。<

※さて事態はどう動くか、全部紹介したいのですが西里教授の論文は大変長いものです。要約しながら向徳宏(幸地親方)について私見を述べてゆきたいと思います。

(つづく)

公開   琉球処分(7) 2008-08-23 12:11:35 太平山 中国の援軍と琉球処分 
琉球処分(7) 幸地親方

向徳宏(幸地朝常)の嘆願と林世功(名城里之子親雲上)の自決をもっての請願に調印延期=再交渉論が大勢となり琉球分割の危機はひとまず回避されます。

        「分割条約復活へ」

1881年6月24日、清国駐在のドイツ公使ブラントは、清国政府の意向を受けて、明治政府に琉球問題について日清再交渉を呼びかけます。明治政府は一旦ブラントの仲介を拒否しますが尚泰の嫡子尚典を清国側へ引き渡すことによって前年妥結済みの分割条約への調印を清国側に迫る方針を追求します。

外務卿の井上馨は香港総督ヘンネッシーにこの趣旨を清国側へ伝えるよう委嘱し、同時に清国側の意向を探らせます。ヘンネッシーが清国側に伝えたところ総理衛門(清国外務省)は難色を示しますが李鴻章はそれを積極的に受け止め、妥結済みの分割条約で決着をつける外に方法はないと判断します。そこへ駐日公使の黎庶昌(れいしょしょう)が妥結済みの分割条約に附帯条件(首里城の尚泰への返還)を追加する案を提案します。

         「琉球の全面返還を」

黎庶昌から黎庶昌案を受け入れるよう説得された在京の馬兼才(与那原良傑、最後の三司官)はこれを拒否、この情報を北京在住の琉球人や琉球現地の士族層へ通報します。北京在住の毛精長らは馬兼才から情報を得るや直ちに総理衛門に請願書を提出し「琉球の全面返還なしには建国できず、黎庶昌案は亡国を意味するので断固反対して欲しいと訴えます。

一方、現地琉球側は連日会議を開き毛鳳来(富川盛奎、最後の三司官)を請願代表に選出します。それを受け毛鳳来は官職を辞し清国への亡命を決意し82年4月27日、随行者4、5人とともに福州へ向け出航します。福州へ到着するや、直ちに北上して北京に入り、琉球分割反対、全面返還要求を趣旨とする請願書を提出します。

新たに請願運動に加わった毛鳳来らの請願書は、清国内の対日強硬派を勢いづかせ、総理衛門の対日妥協案を牽制することとなり調印は再び延期されます。

1882年前半の第二次琉球分割の危機も、毛鳳来をはじめとする在清琉球人の懸命の分割阻止運動によって回避されるが、日清関係正常化の手段として、琉球分割条約が復活する可能性は90年代の初頭に至るまで潜在し続ける。したがってこの間、琉球人の分割阻止運動も継続する。

以上「琉球分割の危機」より要約紹介


琉球処分(8) 幸地親方

西里教授は琉球分割案が阻止されたのは、向徳宏(幸地親方)、毛鳳来(富川盛奎)、林世功(名城里之子親雲上)等の在清琉球人の懸命の分割阻止運動によるものと言われていますが、私はそれはおかしいと考えている。

そもそも琉球分割の危機を招いたのは誰か?向徳宏(幸地親方)らの請願運動が発端ではなかったのか。分割阻止運動は私から言えば、向徳宏らが自ら火をつけ自ら火消しに回ったに過ぎない。非情かもしれないがそう断定せざるを得ない。

「既得権を失うことを不服とした頑固党は新政府が佐賀の乱、西南の役で忙殺されている隙をつき明治10年3月琉球処分の撤回を求めて清国に救援の密使(幸地親方)を送った」

それにより本来国内問題であるはずの琉球問題が国際化しより複雑化してしまった。琉球分割案が出てきた時、向徳宏(幸地親方)は予想外の出来事に大変ショックを受けたことであろう。何としてでも阻止しなければならない。当然である。

西里氏の論文は琉球問題の発端となる向徳宏(幸地親方)の行動に全く触れていない。最も肝腎な部分だがそれへの考察がなされていない。それもそうだろう、それが否定されると後の向徳宏(幸地親方)らの阻止運動が全く意味をなさないものになってくる。私が「向徳宏らが自ら火をつけ自ら火消しに回った」と言ったのはその事である。

向徳宏(幸地親方)には琉球建国に対する何の戦略も戦術もビジョンもなかった。唯々、清国の情けにすがるより外はなかった。当時の国際情勢を見れば独立が如何に困難なことか、また問題を国際化すれば分島案も出てくるのは当然のことと何故予測できなかったのかと言いたい気持ちである。

そしてもっとも肝腎なことを忘れている。琉球国王尚泰は東京にいるのである。琉球建国に欠かせない存在であるならば、どうやって琉球国王尚泰を奪還するのかまずそれを考えねばならないのではないか。清国が日本と戦端を開き奪還してくれるとでも思っていたのだろうか。

清国がそれほど琉球のことを深刻に考えていなかったことは南島(先島)に琉球国を建国する案を出したことでも判る。清国は琉球をずいぶんと持て余していたのではないか。そんな余裕なんて無かったはずである。「かってにしろ!」というのが正直な気持ちではなかったのか。

私は問題をこじらせたのは明治政府にも責任の一端はあると考えている。何故に交渉に応じたのか。国内問題として突っぱねればそれで済むことである。大久保利通が生きておれば確実にそうしていたでしょう。大久保利通は清国を李鴻章を呑んでかかっていました。清国が当時日本と戦端を開くことはまずありえなかったのです。明治政府は分島案に同意したところを見ると先島なぞはどうでも良いと思っていたとも言える。

向徳宏(幸地親方)らの琉球建国運動は結局は琉球分割阻止運動にならざるを得なくなる。何という徒労であったことか。向徳宏の「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」の言葉を聞くと本当に琉球国のことを考えていたのかと問いたくなる。

(終わり)

                    ◆

太平山さんの「琉球処分前編」は以下のエントリーに転載してあります。

中国の援軍と琉球処分

 

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沖縄タイムスの論点ずらし★中国人の「靖国映画」

2008-04-08 07:25:58 | 歴史

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昨日の夕刊で琉球新報は「米憲兵タクシー関与事件」から撤退し、今朝の朝刊にも一行もこのフォロー記事は無い。

一方沖縄タイムスは、昨日の夕刊で果敢にも「特ダネ」に食い下がった。

⇒■逃走車両 憲兵所有か/沖縄市のタクシー強盗

逃走車両 憲兵所有 (爆笑)

この見出し、いかにも「東スポ風」で、今後の展開が楽しみだ。

ところで今朝のテーマは「靖国」。

連日沖縄タイムスはネタを提供してくれる。

沖縄タイムス 社説(2008年4月6日朝刊)

  4月 6日 【「靖国」上映】試される社会の成熟度
 日本在住の中国人監督・李纓(リ・イン)氏のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を中止する動きは、言論・表現の自由が私たちの社会には十分に定着していないのではないか、との懸念を感じさせる。
 映画は、八月十五日に靖国神社で繰り広げられる様子を十年間にわたって記録したものだ。

 もし国会議員向けに開かれた試写会を「無言の圧力」と感じて中止したのだとしたら、行き過ぎた自主規制というしかない。

 試写会のきっかけをつくった自民党の稲田朋美衆院議員は、当初、「反日映画になっているようだ」としていた。が、その後「上映をやめさせようと考えたことはない」と主張を変えている。

 言うまでもないが、表現の自由は民主主義社会の根幹を成す。意見の違いを大切にし尊重し合うのは民主社会を計る尺度でもある。

 「わたしは、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、わたしは、命にかけて守る」―フランスの啓蒙思想家、ヴォルテールの言葉だが、自由に意見を言い合える社会でなくなれば、戦前の暗い社会に逆戻りし息苦しくなるのは論をまたない。

 何よりも映画は表現の自由を担う大きな分野だ。目に見えぬ「影」に脅え、自主規制したとしたら、言論の自由はまさに危機的状況にあるとみなければならない。

 映画の評価は見る人が判断するものだ。事前に見る機会を閉ざせば、映画館は社会的役割を放棄したといわれかねない。映画館には踏ん張ってもらい、私たちもまた声を上げ上映を支えていきたい。

 五月以降、北海道から沖縄まで二十一の映画館が五月以降に上映を計画しているという。

 今回の騒ぎが、逆に上映に向けてベクトルを転換したのであれば評価したい。

 多様な意見があってこそ健全な社会であり、自由に表現できるのが民主的な社会といえるからだ。

 映画を見るにあたっては、まず予断を持たず、実際に自分の目で確かめた上できちんと判断すべきだろう。大方の意見もそうであり、自らの思想的尺度をいったん脇に置いて映画を見る。私たちに求められているのはそのことである。

 不気味な「影」を過大に評価し、無難に自主規制してしまうと、自由社会とは裏腹に自らの首を絞めることになりかねない。

 そんな空気が日本社会を覆ってしまわないようにすることが、一人一人の責務と考えたい。

 上映中止は、日教組の「教育研究全国集会」が東京都内のホテルによって契約破棄され、全体集会が中止になったこととも軌を一にする。

 憲法二一条は集会、結社及び言論、出版を含めた表現の自由を保障している。「表現の自由は、とりわけ批判の自由ないし反対の自由として、重要な意味を持つ」(宮沢俊義『憲法講話』)。

 権力にものが言えなくなる社会を再びつくってはならない。そのためには私たち一人一人が不断に努力し、言論の自由を脅かす芽が出たらそれを摘み取る社会を築くことが大切だ。

                    ◇

見ていない映画についてコメントするのは難しい。

従ってこの問題、つまり「『靖国』上映中止」についてはスルーするつもりだった。

が、チベットの人権問題にはやけにおとなしい沖縄タイムスが「言論・表現の自由」というお定まりの論旨の社説で参戦。

さらに日曜日のTBSの「サンデーモーニング」。

普段はあまり見ないのだが、見るとなく見ていたらコメンテーターの面々は揃って「言論の自由」を大上段に判で押したようなコメント。

特に浅井信雄氏は番組に媚びるような左翼発言を連発していた。

ついでに言うとこの人物1998年に神戸市外国語大学を定年になるや左翼の巣窟・沖縄大学に潜り込み、そこで教授の肩書を確保したエセ学者。

左翼・親中派の立場での発言を行ってTBSに媚を売る発言は同じコメンテーターの浅井慎平も同じ穴の狢だろう。

番組は両・浅井氏の左翼コメントに加えて、食い詰めた「右翼くずれ」に実家を放火された加藤紘一や暴力団に殺された長崎市長までVTRで登場させ「言論を弾圧も危険な兆候」とご高説を垂れる始末。

これは明らかな意図的論点のすり替えである。

当日記としてもスルーするわけにはいかない。

降りかかる火の粉は払っておかなきゃ。(笑)

この問題の論点は「言論弾圧」でもなければ「表現の自由の弾圧」といった大それた問題でもない。

そもそも「言論弾圧」なんてものは弾圧すべき権力がなければ弾圧しようにもできるものではなく、今回の映画館の上映中止をした映画館に言論を弾圧する権力などあるはずもない。

>上映中止は、日教組の「教育研究全国集会」が東京都内のホテルによって契約破棄され、全体集会が中止になったこととも軌を一にする。

ホテルも映画館も自社のの営業に最適との自主判断で日教組を断り、上映を断ったのであり、どこぞの命令や強制で断ったのではない。

憲法は表現の自由を保証する一方、自主判断で断る営業の自由も保証しているはずだ。

靖国問題は日本人の心、宗教にかかわる問題だ。

仮にも他国・他宗派の人間が他の宗教を侮辱すれば世界中の批判を浴びることはイスラム教の例でも明白だろう。

テレビのコメンテーターたちが揃って紋切り型の「言論弾圧発言」を垂れ流す中で漫画家の黒鉄ヒロシ氏が自分は「靖国」を観たと前置きして正論を吐いていた。(日曜日だったが番組名は失念。 他にテリー伊藤がコメンテーターとして出演していた)

以下その発言の要旨。

「外国人が日本の映画を作るとき、日本人が観ると違和感を覚えることがある。 『靖国』は中国人が作っておりドキュメント風な構成になっているが明らかに中国人作者の靖国観がちりばめられており日本人としては違和感を感じる」。

映画「靖国」に文化庁系独法が750万円助成しているのだから、このままドキュメント映画として外国で放映されたら誤解の元になる」。

突然ですが沖縄大学さん。

浅井信雄のようなエセ学者の苔むした授業より黒鉄ヒロシの講義の法が有意義だと思いますがね。(もっとも黒鉄氏はエセ学者ほど暇はないはずだが)

この問題は「言論の自由云々」ではなく次の三点に要約される。

①日本人の宗教に関わる微妙な問題を唯物論の中国人が「ドキュメント風」映画を作った。

②文化庁がこれに助成金を出した。

③日本人が観たら違和感を覚える(黒鉄ヒロシ氏談)映画に日本政府のお墨付きがついたと誤解される。(文化庁助成金)

言論の自由の無い唯物論の中国で似たような例を見つけ出すのは困難だが、

もし中国在住の日本人が日中間に問題のある「南京大虐殺館」を批判する映画を作り、中国政府がこれに助成金を出す・・・。

こんなことは想像するだけでもムダか。(笑)

意図的なの無知なのかは知らないが、

沖縄タイムスさん、論点が全く違いますよ。

 

参考記事:

中国人監督が「靖国」映画制作

映画「靖国」に文化庁系独法が750万円助成

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歪んだ眼鏡の沖縄タイムス 日中友好協会が聞き取り調査?

2008-02-05 06:53:05 | 歴史

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色眼鏡で物を見れば何事も色つきで見えるが、沖縄タイムスの記者は色眼鏡の上に更に「物が歪む眼鏡」をかけて記事を書くようだ。

まさか心根までは歪んでいないだろう、と思いたいのだが、

下記の記事を読むとそれも疑わしくなる。

取材相手の言葉としているが、ねじれた発言は全て沖縄タイムスの歴史認識をそのまま反映している。

沖縄タイムス 2008年2月4日(月) 朝刊 21面  
 
疎開語り 非戦を誓う/宮崎の受け入れ先市民・県内体験者

 沖縄戦時の県外疎開の様子を調べようと、疎開先だった宮崎県都城市の戦争体験者ら日本中国友好協会の会員が三日、那覇市内のホテルで疎開体験者の話を聞いた。同協会都城支部が企画する平和事業などで、沖縄戦の実態を紹介するために交流を深めようと訪れた。
 疎開体験を話したのは、一九四四年から四五年にかけて県内から同市周辺に疎開した小波津厚明さん(77)=南城市=と玉那覇良康さん(68)=宜野湾市。

 疎開先に食料や住居は準備されておらず、栄養失調になり「食べられる物が落ちていないか」と、いつも下を向いて歩いていたこと、風呂のない公会堂などでの生活が続き、皮膚病や体のにおいに悩まされたこと、慣れない寒さにも苦しんだこと―などを語った。

 一方で、地元の住民が乏しい食料の中から差し入れをくれたことや、小波津さんの疎開先だった同県日之影町の日之影小学校(当時は岩井川村・岩井川国民学校)には疎開記念碑が建ち、疎開した九月八日を「友情の日」として、小波津さんらによる戦争についての授業が続けられていることなども紹介した。

 同協会の田中義教理事長は「沖縄戦もそもそもの始まりは日中戦争だった。私たちは、両国間で二度と戦争が起きないようにと民間交流を続けている」と話し、「日中戦争や沖縄戦の実相に蓋をしようとする動きが強まる中で、事実は事実として残し伝えようと訪れた」と話した。

 小波津さんは「県外疎開は沖縄戦に備え、日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている。沖縄戦の美化は許されない」と訴えた。

 同協会都城支部では毎年「平和のための戦争展」を行っており、今後、沖縄からの疎開を含めた沖縄戦の実相を紹介したいという。

                      ◇

■善意と悪意■

沖縄タイムスが、「集団自決」が軍の命令であると主張する根拠に手りゅう弾を「悪意」の眼鏡で見て、軍が命令した唯一の「物的証拠」にすることへの反論はさておいて、

島の周辺を米艦船の大船団に取り囲まれ袋のネズミ状態で艦砲射撃でパニックに陥入り、死ぬ手段を捜し求めている時、数少ない手りゅう弾を配布されたら「善意」と解釈してもおかしくはない。

>疎開先に食料や住居は準備されておらず、栄養失調になり「食べられる物が落ちていないか」と、いつも下を向いて歩いていたこと、風呂のない公会堂などでの生活が続き、皮膚病や体のにおいに悩まされたこと、慣れない寒さにも苦しんだこと―などを語った。

先ず疎開が行われた一九四四年から四五年当時は日本全国何処へ行っても食糧不足は珍しくなく、これも「残酷な日本軍」の責任にするのは沖縄の左翼くらいのものだろう。

沖縄タイムスが「集団自決」は軍の命令であると強弁する根拠の一つが「軍民混在」だが、

これを避けるため軍が精一杯行った「学童疎開」も、

沖縄タイムスの「歪んだ眼鏡」で見れば「残酷な日本軍」の責任だとというから開いた口がふさがらない。

悪意で見れば全てが歪んで見える。

米軍の沖縄攻撃を前に、軍は県民の県外疎開を命じた。

「学童疎開」はその一環である。

県外疎開の命令に従わなかった県民には北部地域への疎開が命じられ、これに従った県民の戦没者は比較的少なかった。

だが疎開せずに自宅に留まった県民の多くは南部地域に敗走する日本軍の後を追って米軍の「鉄の暴風」ともいえる砲撃を受け多くの戦死者を出した。

小波津さんは「県外疎開は沖縄戦に備え、日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている。沖縄戦の美化は許されない」と訴えた。

沖縄タイムスが、自分の歴史認識に合致する「証言」は全て鵜呑みにするのは「集団自決」の証言で実証済みだが、

疎開当時4歳の少年が「日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている」と断言する証言もそのまま鵜呑みにするのか。

後になってからの大人の「反日思想」の影響だとは考えないのか。

郵送船や燃料さえもも少なくなった時期に、学童が戦火に襲われるのを避けるための「善意」で行った学童疎開も、

歪んだ心根で見れば「残酷な日本軍」が行った口減らしが目的だったとは、さすが「日中友好協会」の歴史認識とあきれて拍手を送りたくもなる。

■日本中国友好協会が聞き取り調査?■

>日本中国友好協会の会員が三日、那覇市内のホテルで疎開体験者の話を聞いた。

そもそも疎開体験の聞き取りを怪しげな団体の会員がやること自体が不可解だ。

「色眼鏡」や「歪んだ眼鏡」どころか心根が歪んだ解釈しか出てこないのは沖縄タイムスとしては想定内なのだろう。

このように学童疎開さえも悪意に解釈する会員を擁する「日本中国友好協会沖縄県支部」が国立大学の研究室内にあることは、この記事を見て調べるまで知らなかった。

沖縄の大学はますます中国工作員に侵食されつつある。
 

日本中国友好協会沖縄県支部 〒903-0129
沖縄県西原町千原1-1琉球大学教育学部辻雄二研究室
098-895-8444

日本中国友好協会がどのような性格の集団であるかは、次の「公式声明」を読めば明らか。

  • 小泉首相の靖国神社参拝に強く抗議  
  • 歴史を否定する「教科書検定」結果に抗議する 
  • 「戦前回帰」思わせる政治統制 
  • 沖縄タイムスの社説にしてもおかしくない程の論調の一致に、納得、ナットク。

    冒頭の記事も納得できる。


                          ◇

    ■沖縄タイムス社説:毒入り餃子は「有毒無罪」■

    沖縄タイムスは、「中国の毒入り餃子問題」でも中国様には一言の批判もなく、全ては日本政府の責任だと言う論調。

    これbにはさすがは沖縄タイムスと拍手を送りたい。

    2月1日社説 【中国製餃子で中毒】「水際防御」の再点検を

    消費者保護の観点からみると、政府の対応はずさんで甘かった。そういう疑念を抱かざるを得ない。

     問題はもう一つある。最初の被害発生から厚労省の発表までほぼ一カ月かかっていることだ。通報が迅速に行われ、消費者への告知が早ければ被害はもっと抑えられたのではないか。縦割り行政の弊害といえよう。

     言うまでもないが、輸入食品が多くなればなるほど「食の安全・安心」は徹底した検査が頼りになる。

     消費者保護は水際での防御が重要であり、輸入情報の一元管理とともにその対策に政府は万全を期すべきだ。>

    太字強調部分は一々ごもっともな指摘だが、中国には一言の指摘もない。 

    「有毒無罪」とでも言いたいのだろうか。

    同じような論調だが、中国がミサイルを日本向けに配備しても一言の文句もなく、日本が迎撃ミサイルを配備すると日本が悪いと大騒ぎする。

    やはり沖縄タイムスの祖国は中国だったのか。

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    司馬遼太郎も読んだ『鉄の暴風』  「琉球処分Ⅲ」

    2008-01-30 06:44:59 | 歴史

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    ■ 「琉球処分Ⅲ」■

    「琉球処分」も廃藩置県も日本各県が経験したという視点で見れば日本史流れのの中の共同体験だと言うことが出来る。

    廃藩置県は全国諸藩の意志に関係なく、反対する藩があれば容赦なく武力で討つという明治政府の威圧の元に断行された。

    その意味で言えば、確かに「琉球処分」は廃藩置県の一種だといえなくもない。

    明治維新の原動力となった薩長土肥の下級武士は出身藩の兵と資金でもって幕府を倒した。

    それにも拘らず、倒幕から成立した明治政府によって倒幕を支援した藩そのものも潰され、更には武士の誇りも特権も経済基盤である禄高制さえ取り上げられ四民平等の「国民」に組み込まれた。

    自分の資金と人材により幕府を倒し新政府を作ったら、その新政府が今度は自分の全ての権益を取り上げ更には解体を迫る。

    倒幕派の藩主から見れば、歴史上これほどバカバカしい話はない。

    現在の例えで言えば投げたブーメランに己が身を打ち砕かれたようなものだろう。

    島津藩主久光が家来の西郷隆盛や大久保利通が突きつけた「廃藩置県」の断行に怒り狂った気持ちは一世紀以上の時を隔てても理解できる。

    明治の群像を『飛ぶが如く』や『坂の上の雲』でみずみずしく描いた司馬遼太郎氏は、

    「琉球処分」という言葉が多くの琉球史では一見琉球のみに加えられた明治政府の非道な暴力的措置のように書かれていることに疑念を投げかけている。

    「(琉球処分と)同時代に、同原理でおこなわれた本土における廃藩置県の実情については普通触れられてはいない。 つまり、本土との共同体験としては書かれていない。」(「街道をゆく 6」)

    琉球が特殊な歴史・文化を持っていることは認めても、「琉球処分」はウチナーンビケン(沖縄独特)ではない。

    日本史の明治国家成立の過程で見られる普遍的な歴史的現象だというのである。

    琉球の場合は、歴史的にも経済的にも、本土の諸藩とはちがっている。 更には日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかも知れないが、しかし事態を廃藩置県とという行政措置にかぎっていえば、その深刻のどあいは本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える。」(「街道をゆく」⑥27頁)

    しかし、このように「琉球処分」を琉球独自の歴史ではなく日本史の中の明治維新の一過程と捉える司馬氏の歴史観には沖縄の左翼歴史家は猛然と反発するだろう。

    その例が先日取り上げた某大学講師の、

    琉球は日本ではないのだから、琉球処分は明治維新の国造りの過程ではなく、海外侵略である」という論である。

    その論に従うと「琉球処分」は無効だという。

    煩雑を承知で、その無効論を再引用する。

    <「人道に対する罪を構成」

    戦争法規の適用

    では、日本による琉球統治は正当だったのか。 日本が琉球の領土支配正当化するためには、日本が琉球を実行支配してきたか、もしくは琉球人に日本人としての帰属意識があることを証明する必要がある。

    紙幅の関係上結論を先に述べると、日本による琉球の日本の領土編入は、国際法上の主体である琉球の意志を無視した、明治政府による暴力的で一方的な併合であり、国際法上大きな疑義があるということである。(上村英明『先住民族の「近代史」』>(琉球新報 1月15日)

    このような論が当時から沖縄に存在するのを司馬氏は先刻ご承知のようで、自分で表立って反論せずに沖縄民俗学の大家・比嘉春潮氏の著書からの引用でやんわりと対処している。

    <何にしても、私は10年ばかり前では、沖縄と本土とが歴史を共有しはじめた最初は廃藩置県からだ、とばかり思っていた。 しかし、そのことはすこしのんきすぎたようでもある。 ホテルの部屋にもどって~ベッドの上に寝転がっていたが、このことを考えはじめると、眠れそうにない。 
    雑誌「太陽」の1970年9月号に、比嘉春潮氏が「沖縄のこころ」という、いい文章を寄せておられる。

    ≪沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。 このころ、来た九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。 その波は南九州の沿岸に住む、主として漁労民族を刺激して、南の島々に移動せしめたと考えられる。 この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。 そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の1支族ー沖縄民族が誕生する。≫

    沖縄人の由来について、これほど簡潔に性格に述べられた文章はまれといっていい。 さらに「沖縄民族」という言葉については、氏はその著『新稿沖縄の歴史(三一書房)の自序において、「フォルクとしての沖縄民族は嘗て存在したが、今日沖縄人はナチオンとしての日本民族の1部であり、これとは別に沖縄民族というものがあるわけではない」と、書いておられる。

    日本民族の中における沖縄人の巨視的関係位置はこの優れた民族学者のみじかい文章で尽くされているわけで、いまさら私が、那覇の町で思いわずらうこともなさそうである。
    しかし、という以下のことを書く前に、1氏族が1社会を構成する前に歴史の共有ということが大きい、ということを、つい思わざるをえない。 日本の本島のなかでも、歴史をすみずみまで共有したのは、さほどの過去ではない。 例えば奥州の青森・岩手の両県が九州の五島列島とおなじ歴史の共同体験をするという時代は、秀吉の天下統一からである。(略) 豊臣政権下で大名になった五島氏は、明治4年の廃藩置県で島を去り、東京に移された。 旧藩主を太政官のおひざもとの東京に定住させるというのは、このとうじの方針で、薩摩の島津氏の当主忠義も、長州の毛利氏の当主も東京にいわば体よく長期禁足されていて、丘陵地に帰ることを許されていない。 このことは最後の琉球王尚泰においても同じである。>(「街道をゆく 6」)

    大きな流れで言えば沖縄民族は日本民族の支流である、の一言で某大学講師の「琉球処分=違法な植民地侵略」論を粉砕している。

    それでも司馬遼太郎氏は「共同体験をしたから結構だといっているのではない」と断り書きを入れて、

    琉球藩が廃藩置県以前、250年にわったて薩摩藩から受けた「痛烈な非搾取の歴史」を述べて日本史上他の藩と異なる特殊性を完全に無視はしていない。

    司馬氏は「司馬史観」と呼ばれるリアリズムを歴史小説のバックボーンにしており、

    封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新を高く評価する。

    その歴史観によれば「琉球処分」も日本が近代国家建設のため中央集権国家を作っていく合理主義つまりリアリズムの産物であり、肯定的な見方をしている。

    ■「鉄の暴風」に毒された「司馬史観」■

    一方で、「司馬史観」は昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定して自虐史観に陥っていく。

    沖縄史に関しても明治期の「琉球処分」では日本の発展していく過程の歴史共有(廃藩置県)として前向きに捉えていたのが

    「沖縄戦」となると突如大江健三郎氏と同じ軸足で歴史を見るようになるから不思議だ。

    「街道をゆく 6」でも「琉球処分」を述べた後に次のようなくだりがある。

    <太平洋戦争における沖縄戦は、歴史の共有などという大まかな感覚のなかに、とても入りきれるものではない。
    同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄では現実におこなわれ、その戦場で15万の県民と9万の兵隊が死んだ。
    この戦場における事実群の収録ともいうべき『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)という本を読んだとき、一晩ねむれなかった記憶がある。>(「街道をゆく」6-1978年刊)

    なるほど、『デマの暴風』とも言われる『鉄の暴風』を、沖縄戦の「戦場における事実群の収録」として読んだら流石の司馬遼太郎先生も精神が変になりそうで、大江健三郎を彷彿させる逸話を書く羽目に陥っている。

    ところで大江健三郎氏の「自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、」という有名な文を書いたのは昭和33年だが、

    司馬遼太郎氏が『鉄の暴風』を読む以前にこの文を読んでいた可能性はある。

    司馬氏はRさんという在日朝鮮人らしき人の口を借りて、沖縄人にも「帰るべき祖国がない」といったことを言わしている。

    ■大江健三郎にも毒された「司馬史観」■

    <ごく最近、古美術好きの私の友人が、沖縄へ行った。彼は在日朝鮮人で、歳は50すぎの、どういうときでも分別のよさをかんじさせる人物である。

    彼は帰ってきて、那覇で出会った老紳士の話をした。 私の友人はRという。
    ーーRさんはいいですね。
    とその老紳士は、しみじみとした口調で、「祖国があるから」と言った。相手が日本人ならば、このひとは決してこうわ言わなかったにちがいない。 
    この話をきいたときの衝撃は、いまなおつづいている。 自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いがした。>(「街道をゆく 6」)

    沖縄人の立場から言わせてもらうと、司馬氏が「街道をゆく 6」を出版した1978年の時点で、この沖縄の老紳士のように「祖国がない」と考える沖縄人は特殊な思想の人々はともかく普通の県民ではとても考えられないことである。

    それにしてもあれほどリアリズムで歴史を見てきた司馬氏が、

    沖縄の地上戦のことを考えて精神が変になりそうになり

    『鉄の暴風』を読んだら一晩眠れなくなってしまう

    あげくの果てには司馬氏は、沖縄の老紳士の話を伝え聞いて、

    衝撃が続き、自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いをしたと述べている。

    ■帰るべき祖国とは■

    文中の沖縄の老紳士の特殊な思想に影響を与えたと思われる大江健三郎氏の文を下記に引用する。

    <結婚式をあげて深夜に戻つてきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。
    それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。 このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった> (わがテレビ体験、大江健三郎、「群像」(昭36年3月号)>

    このお方、日本人であることを放棄しているのだろうか。
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    「琉球処分」Ⅱ 王朝の春 優美に幕開け

    2008-01-22 09:31:37 | 歴史

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    沖縄タイムス 2008年1月3日(木) 朝刊 26面   
     
    王朝の春 優美に幕開け/首里城きょうまで【写真】

     琉球王朝時代の正月儀式を再現する「首里城公園新春の宴」(主催・国営沖縄記念公園事務所、海洋博覧会記念公園管理財団)が一日から那覇市の首里城公園で開催されている。三日まで。元日の午前中から大勢の観光客や家族連れが詰め掛け、厳粛で優雅な儀式に見入った。
     正殿前の御庭では三部構成の壮大な「朝拝御規式」が披露された。中国の明や清の時代、琉球に伝わったとされる御座楽(うざがく)の演奏のもと、国王や親方に扮した人々が色鮮やかな衣装を身にまとい入場。祭壇に焼香と合掌し、一年の平穏を祈った。

     初めて儀式を見たという八重瀬町の会社員、亀川博芳さん(57)は「息子夫婦に誘われて来た。ゆったりして優雅な感じが素晴らしくて感動した」と話した。

                                                ◇

    最近の沖縄のマスコミはこの記事のように琉球王朝時代の行事を誇らしげに紹介するが通例である。

    だが、沖縄マスコミが琉球国王を目の敵にしていた時期があった。

    住民を搾取した専制君主ゆえ、琉球王朝の宝物も処分して人民に還元すべきだという論調である。

    戦火で壊滅した首里城の再建にも、人民を搾取した国王の居城再建に無駄な金を使うべきでない、といった左翼インテリの意見が新聞で紹介されたりしていた。

    終戦直後の日本共産党が君主制(天皇制)の打倒を目指したのと同じく、琉球国王は打倒されて当然の専制君主だった。

    これは当時の左翼インテリが、コミユンテルンの「32年テーゼ」の影響下にあったことを物語っている。

    米軍統治下の沖縄では共産党は禁じられていたため、瀬長亀次郎氏のような筋金入りの共産党員は沖縄人民党の名で「隠れ共産党」として活動していた。

    隠れ共産党の沖縄人民党も沖縄の君主(琉球国王)は打倒すべき人民の敵と看做していた。

    それが復帰後、沖縄左翼は「反日の丸」、「反日」に方向転換を始めたあたりから、従来の「反琉球国王」から「琉球王朝賛美」に軸足を変えていく。

    つまり沖縄左翼の論理は、敵である日本帝国が「琉球処分」で琉球王朝を廃したのであるから、敵である日本の敵は賛美すべきものと変質した。

    即ち琉球王国は沖縄左翼の賛美の対象となったのだ。

    その結果彼らは夢のような物語を描いて見せた。

    憎むべき日本帝国に侵略されなかったら、琉球王国は今でも平和を愛する王国として、独立を享受し繁栄していただろうという幻想である。
     
    そこで冒頭記事の「琉球王朝賛美」と裏腹に恨み節で語られるのが「琉球処分」である。

    そう、「琉球処分」にはシナ人になりそこなった琉球王国支配層のルサンチマンが凝縮されている。

    沖縄在住の評論家恵隆之介氏によれば、琉球王国は住民から過酷な収奪を続けた北朝鮮の「金王朝」のようなものだったという。

    そういえば、どちらの王朝も統治者の顔だけが目立って、国民の顔が見えてこないのが共通している。

    昨日の「琉球処分」に関するエントリーに読者の「きんじょう」さんから次のようなコメントを頂いた。

    <「沖縄は日本ではない」というテーゼに立てば確かに琉球処分は、琉球という国が日本に侵略、併合され、琉球国民は皇民化教育をうけ、悲惨な戦争に駆り出され、あげくのはて集団自決までさせられたということになるのでしょう。韓国の反日理論と同じです。

    しかしその頃の琉球は国として存立できるだけの力があったのでしょうか?ペリーが浦賀に行く前か、帰るときか忘れましたが、琉球に立ち寄った際の日記に「琉球の農民は世界で一番悲惨だ」と書いてあるそうです。

    大交易時代で栄えたのはほんの一時の話であり、琉球王朝は農民を搾取するだけだったとも聞く。再建された首里城は圧政の象徴としてみればそれほど有難がる気にもなれない。

    それに比べて、江戸時代後半の庶民の暮らしは江戸に上った琉球国の役人の目にはとんでもなく豊に映ったろうと思われる。日本につくか、シナにつくか、結果的に琉球は日本を選んだ。琉球国民も馬鹿ではなかった。

    琉球処分という言葉は当時の「シナ派」が言い出したと確信していますが、その生き残りがマスコミに巣くい、沖縄を韓国と同一のカテゴリーに嵌めようとしている。

    >大交易時代で栄えたのはほんの一時の話であり、琉球王朝は農民を搾取するだけだったとも聞く。

    大交易時代は沖縄の歴史学者が誇る琉球王国栄華の時代だが、ほんの一時の話というより、幻ではなかったという気さえする。

    その当時、世界交易をするには、各種の航海関連技術、例えば大型船の製造技術、操船術、天文学、地理学、貿易知識、語学、等々が思い浮かぶが、

    現在の沖縄に小型漁船のサバニ製造の技術以外に主だった技術の継承の痕跡は見当たらない。

    文献にある交易時代とは琉球王国というより、明の時代に鄭和率いる大船団を派遣したといわれるシナの「大航海」に、

    琉球に帰化したシナ人が便乗し、これを琉球王国の大交易時代として誇った、と考えた方が自然である。

    或いは琉球の朝貢品に対する明の下賜品に大型船もあったというから、それをシナよりの帰化琉球人が操船して交易したとも考えられる。

    いずれにしても大交易時代は琉球王国とは言っても一握りのシナ帰化人によって実行されたものであり、一般の琉球国民は大交易時代という華やかなイメージとはかけ離れた生活をしていたことが事実のようだ。

    >琉球処分という言葉は当時の「シナ派」が言い出したと確信していますが、その生き残りがマスコミに巣くい、沖縄を韓国と同一のカテゴリーに嵌めようとしている。

    「ダッタン人の踊り」とは、ロシアの作曲家ボロディンが作曲したオペラ『イーゴリ公』の第2幕の曲であるが、・・・

    「ダッシン人の呪い」とは、・・・これこそ当時の「シナ派」が言い出した「琉球処分」である。

    脱清人と称する一握りの「シナ派」は帰化人の係累として琉球王国で権益を享受していたが、

    廃藩置県が決まるやこれに反対し清に援助を求めて亡命した。 

    「琉球処分」という明治政府に対する呪いの言葉を残して。

     

    明治政府は廃藩置県の方針を伝達し、実施するために松田道之内務大丞を琉球に派遣した。

    松田は数度にわたり琉球王府首脳の説得にあたったが、事は明治政府の思う通りには運ばなかった。

    松田は後に、説得交渉の関連文書をまとめて、『琉球処分』(全3冊、明治12年12月)を刊行した。

    琉球王府の「シナ派」要人との交渉過程で「琉球処分」は明治政府への呪いの言葉と化して行った。

    廃藩置県も日本史の中で捉えると、「藩」という一種の地方王朝を廃して県にしたわけだから、例えば鹿児島県の場合は「薩摩処分」といえなくもない。

    薩摩藩の下級武士だった大久保利通によって突きつけられた「薩摩処分」とも言うべき廃藩置県に、

    藩主(国父)の島津久光は怒りのあまりに錦江湾に花火を打ち上げて怒りを何とか抑えたという話もある。

    他の藩でも大同小異で権力を享受していた士族階級が、

    それを奪われて路頭に迷った例は「士族の商法」という言葉で今でも語り継がれている。

    「琉球処分」の折、日本人になるのを拒み中国に助けを求めて亡命した「シナ派琉球人」は、清のシンボルカラー黄色で飾った軍艦が沖縄救援のためやって来ると、本気で信じていたという。(下記沖縄タイムスコラム参照)

    彼等「脱清人」の清を祖国と考えるDNAは現代の沖縄の一握りのインテリ達に引き継がれている。

    中国を祖国と考えているとも思われる沖縄タイムスが「琉球処分」前後の沖縄について興味深いコラムを書いていた。

    ◆<2005年5月16日> 沖縄タイムス
    [大弦小弦]

     黄色軍艦がやってくる…。船体に黄色の龍の文様を描き、黄龍旗を掲げる清国の南洋艦隊は黄色軍艦と呼ばれたという。知人とこの話をしていたら、黄色軍艦が沖縄を侵略すると、勘違いして話がややこしくなった▼実際は逆で、明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった▼一八八六(明治十九)年に大迫貞清県知事が上申した「事変準備ノ件」が残る。清が軍艦を派遣するとの報に対し、政府派遣の知事は、対策十項目を提案。政府も北洋艦隊から戦艦九隻が派遣されると情報を得て、県に指示を出した▼日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか。林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ▼百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう。(後田多敦)

     

    林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。

    林泉忠氏は国立大学(琉球大学)に在籍しながら反日、独立で沖縄を扇動する中国人教授である。

    明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。

    どうりで中国軍艦が沖縄領海を侵犯しても、沖縄タイムスはこれを静観しているわけだ。

    いや、静観というより日本から沖縄を解放に来た援軍とでも思っているのだろうか。

    軸足の踏み所を忘れた沖縄タイムスよ、

    恥を知りなさい!

     

      【緊急お知らせ】


    =教科書問題を考える集い=

    沖縄戦集団自決と教科書検定

    新しい歴史教科書をつくる会の

    藤岡信勝会長、沖縄に来たる!

    主催「新しい歴史教科書をつくる会」沖縄県支部

    後援 「日本会議沖縄県本部」 「教科書問題を考える会」

    講師 藤岡信勝氏( 新しい歴史教科書をつくる会 会長) 昭和18年北海道生まれ。
    北海道大学教育学部卒業、同大大学院教育学研究科博士課程単位取得。
    東京大学教育学部教授などを経て、現在拓殖大学日本文化研究所教授。
    教育学専攻 平成9年新しい歴史教科書をつくる会の創立に参加し、現在会長。
    著者に「教科書採択の真相」(PHP新書)共著に「レイプオブ南京」の研究など。

    【日時】 平成20年1月24日(木)午後6時30分~ 午後8時30分

    【場所】 エッカホテル沖縄 14階ヒルトップ 那覇市天久1068-9 867-5111 地図

    【会費】 1,000円

    【連絡先】 教科書問題を考える実行委員会 867-3037 担当 敷田氏



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    琉球処分報じた中国紙入手 沖縄は日本ではない?

    2008-01-21 09:07:07 | 歴史

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    沖縄タイムス 2008年1月20日(日) 朝刊 27面  
     
    琉球処分報じた中国紙入手/上海図書館で又吉教授

     近代中国で長期間発行され大きな影響力を持った新聞「申報」が一八七五―九四年にかけて琉球について報じた記事を、沖縄大学の又吉盛清教授(近現代沖縄中国関係史)がこのほど中国・上海図書館に保管されている史料の中から入手した。同新聞の旧社屋「申報館」が上海に存在していることも確認した又吉教授は「貴重な史料である記事だ。今後の歴史研究の一助になれば」と話し、公的機関には今後提供する予定。(与儀武秀)
     「申報」は一八七二年四月三十日に創刊された中国の日刊新聞。一九四九年五月二十七日に廃刊になるまで、政治、経済、軍事、外交などさまざまな事象を記録して報じ、歴史研究では第一級の史料とされる。

     今回入手した記事は、琉球処分(琉球の近代日本への併合)期の琉球や日本の動きなど、東アジアの近代史を知る上で貴重な史料となる記録という。

     又吉教授は、昨年末に北京大学での講義のため訪中した際、上海図書館で保管されている申報の琉球に関する記事のコピーを入手した。記事には、日本の新聞の論調を批評したものや琉球に関する日中交渉の経緯などが記されており、琉球処分前後の歴史的うねりの中で、中国側がどのように琉球や日本の動向を見ていたかが把握できる。

     又吉教授は「上海には新聞を発行していた旧社屋『申報館』が現存しており、研究者間でもあまり知られていない」と説明。「県内図書館でも同紙は閲覧できず貴重な史料。これをきっかけに東アジアに対する理解が深まれば」と話している。

    同史料の問い合わせは沖大・又吉研究室、電話098(832)2971。

                                                 ◇

    歴史用語の中には表面上の意味の他に、

    その用語誕生時の怨念やイデオロギーが封じ込まれ、

    その用語を使用する度にそれが読む人の脳裏にイデオロギーを訴える例が多々ある。

    その代表的な例として「天皇制」という言葉がある。

    「天皇制」は元々日本の歴史用語にはなく、共産党の「業界用語」が一般化したものである。

    「天皇制」と言う用語誕生の経緯について、多少長くなるが、

    過去エントリの「朝日の天皇制論 「本音では打倒だが・・仕方ないか」より以下に抜粋します。(確か憲法記念日のエントリー)

    朝日新聞は昨日四日の社説で「天皇と憲法を考える 国民と伝統に寄り添って」と題して、憲法問題を「天皇制」に絡めてバトルに持ち込むつもりかと思ったら意外な内容にいささか拍子抜けをした。   

    ≪朝日新聞の世論調査は、78年から象徴天皇制について断続的に聞いてきたが、支持率は常に80%を超えている。≫という通り、朝日自ら実施して来た30年にも渡る世論調査に「常に80%を超える支持率」には流石の「天皇制」嫌いの朝日もひれ伏さざるを得ないのだろう。

    朝日の社説本文中、何度か「天皇制」と言う言葉が出て来るが、この言葉は明治憲法制定の時には言葉として存在していなかった。

    因みに明治憲法は立憲君主制を基調にした憲法である。

    古代日本には言霊(ことだま)と言うことが信じられていた。
    言霊とは言葉に宿っていると信じられる不思議な力のことであり、それが更に進んで言霊により、発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた。

    ある思想・信条を持つグループがその思想をある言葉に秘めて使い続けると、その言葉を聞いた瞬間一つのイメージの呪縛に取り付かれる。

    「天皇制」と言う言葉は本来共産党が、自分達の天皇に対する呪いの言霊を込めて使った造語であり、日本の歴史には左翼の登場以前には存在しない。

    1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。

    1932年のコミンテルンテーゼは、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記した。(この日本共産党に対する指令が有名な「32年テーゼ」でこれについては稿を改めて書きたい)

    そして天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。

    第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、一般には認知されていなかったが、現代では共産党と関係なく一般にも使用されている。

    戦後の新聞メディアは戦前の反動で左翼に傾き共産党造語の「天皇制」を唯々諾々と使用し一般にも無抵抗に使用され出したのだ。 その意味では共産党の作戦は一部成功した。

    今でも共産党の「天皇制廃止論」に従う人はこの言葉に呪いの言霊を込めて「天皇制」、「皇民化政策」等と使用している。

    二つの新聞が言論・思想を牛耳る沖縄では「天皇制」に対し、特にこの傾向が多く見られる。

    地元新聞の活躍で沖縄では、「天皇制」と言えば、「軍靴の響き」、「戦争」、「侵略」、「住民虐殺」等々と言霊が彷徨い出して来る。

    最後にはコミュンテルンが指令した「32年テーゼ」つまり「天皇制打倒」と言うスターリンの亡霊にまでたどり着く。

    「天皇制」は日本共産党内部の「業界用語」であり、その後には当然の如く「打倒」と言う言葉が対句で連なり「天皇制打倒」で熟語は完成する。

    しかし、沖縄メディアの師匠・朝日新聞といえども80%を常に超える支持率には抗す術も無い。

    「本音では打倒したいが、仕方が無い・・・」、と言うのが本音なのだろう。

    長い引用で恐縮だが、ここでやっと冒頭に引用の記事の「琉球処分」に話が及ぶ。 

    その前に先ず「琉球処分」とは何か、を説明すると概略次のようになる。

    中央集権の近代国家建設を目指す明治政府は、1871年に全国で廃藩置県を実施し、翌年1872年(明治5)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。1879年(明治12)、明治政府は琉球藩の廃止を宣言し、同年中に沖縄県を設置した。日本政府のもとで琉球は、近代日本国家に組み入れられていき、琉球王国は完全に消滅した。琉球藩設置から、廃藩置県までの一連の流れを沖縄では琉球処分と呼んでいる。(ウィキぺディア参考)

    だが、沖縄の新聞等に現れる「琉球処分」は「天皇制」と同じように左翼学者のイデオロギーを含んだ怨念の用語として使用されるのが一般的である。

    沖縄戦に絡んでいえば「皇民化政策」のルーツは明治政府の断行した「琉球処分」にあるという仕掛けだ。

    又突然脱線するが、沖縄インテリの代表的「琉球処分」認識を1月15日の琉球新報のキャンペーン記事「沖縄戦認識を問う」⑤<目取真・小林論争を中心に>に垣間見ることが出来る。

    「目取真・小林論争」とは「集団自決」に関する小林よしのり氏の一連の著作に対し、作家の目取真俊が琉球新報で批判を加え、それに小林氏が反論し、更に目取真氏の再反論という経過である。

    論争とはいっても当事者間ではまだ決着が着かないまま(当日記は小林氏の完勝と見るが)、

    琉球新報は卑劣にも第三者に5回連載の紙面スペースを与えて、小林氏叩きのキャンペーン企画を行ったのである。

    この琉球新報の卑怯な言論操作については、本旨ではないのでここではさておくが、

    途中から論争に介入したこのT大学非常勤講師の小林氏批判文の最終回(第五回)に、

    「琉球処分」に関して次のような興味深いくだりがある。

    「人道に対する罪を構成」

    戦争法規の適用

    では、日本による琉球統治は正当だったのか。 日本が琉球の領土支配正当化するためには、日本が琉球を実行支配してきたか、もしくは琉球人に日本人としての帰属意識があることを証明する必要がある。

    紙幅の関係上結論を先に述べると、日本による琉球の日本の領土編入は、国際法上の主体である琉球の意志を無視した、明治政府による暴力的で一方的な併合であり、国際法上大きな疑義があるということである。(上村英明『先住民族の「近代史」』

    このT講師が主張するには、沖縄戦の「集団自決」は日本軍の住民に対する虐殺行為だから「国際基準で法的責任追及」をするべきだという。

    だが、これに該当する国際法「 ハーグ陸戦条約」は交戦国の相手国に適用されるので、日本軍の自国民(沖縄住民)に対する残虐行為には適用されない。

    そこで、上記引用の「日本による琉球の日本の領土編入は、国際法上の主体である琉球の意志を無視した、明治政府による暴力的で一方的な併合であり、国際法上大きな疑義があるということである」と主張する。

    つまり「琉球処分」は無効だという。

    従って沖縄住民は日本国民ではないので、国際法規の「ハーグ陸戦条約」の適用が有効であるというのだ。

    その結果「日本軍を国際基準で法的に追求できる」という、まことに壮大な構想の主張である。

    しかも責任追及の訴因が、東京裁判でも立証できなかった事後法の「人道に対する罪」。

    これを沖縄が連合国に代わって立証し祖国・日本を裁くというのだから、まことに気宇壮大。

    歴史の時空は明治維新から沖縄戦へとめまぐるしく駆け巡る。

    とても筆者のような凡人にはついてはいけない話である。

     敢て祖国・日本と書いたのは長い米軍占領下から「島ぐるみ」で「祖国復帰」を勝ち取った「沖縄県民の総意」と「琉球処分無効」と

    をどのように理論的に整合させるのか興味があったからである。

    「小林ー目取真論争」をウヤムヤにしたまま、

    第三者に一方の批判文を多量のスペースを与えてめった斬りさせる卑劣な手法といい、

    明治維新に遡って「日本の沖縄侵略」を主張する文を何の疑いもなく掲載する琉球新報には、もはやジャーナリストしての矜持は微塵も見られない。

    「小林ー目取真論争」の一方に肩入れするあまりに、トンデモ論文を平気で掲載する琉球新報よ、

    恥を知りなさい!


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    「鬼畜米英」と「ストックホルム症候群」

    2007-11-27 07:21:55 | 歴史

    「鬼畜米英」と「ストックホルム症候群」■

    8月15日の玉音放送で日本人の価値観はひっくり返ったと言われる。

    しかしその約2週間後マッカーサーが丸腰で日本に上陸してから、日本人の心理状態は精神医学上極めて興味ある状況に陥る。

    鬼畜米英と恐れたアメリカ軍は意外と紳士的だった。


    それどころかマッカーサーは「自由と民主主義」を手土産に持ってきた持った紳士であった。

    以後7年の間占領下という閉鎖空間で日本人と共に暮らすこととなる。

    ここに日本人は後に精神医学用語となる「ストックホルム症候群」を全国的に体験することになる。

    ストックホルム症候群とは、
    1973年にストックホルムで起きた銀行立てこもり事件に由来する。


    4人の人質の犯人に対する複雑で難解な心理状態を指すための言葉で、彼らは被害者になったにも関わらず長い期間(6日間)犯人と時間を共にすることによって、

    最終的には犯人に対して連帯感、親近感、同情を感じて犯人逮捕の際彼らは感謝するべき警察を非難し、非難すべき犯人を支持した。

    この人質の心理状況が後にストックホルム症候群と言われるようになる。

    米軍の日本占領時では、言うまでも無く、凶悪犯人は鬼畜と思った米軍の総大将マッカーサーであり、人質は敗戦国民の日本人、人質現場の銀行は占領下の日本(Occupied Japan)にあたる。
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    ■敵の敵は味方■

    「ストックホルム症候群」は特に地上戦の激しかった沖縄戦で顕著に現れた。

    沖縄でも終戦を待たないで米軍の捕虜になった人は価値観の逆転を味わった。

    鬼畜が食料を与え怪我の治療をしてくれた。

    無残な姿で未だ逃げ回っている日本軍は「敵」になった。

    自分達の敵である日本軍の敵は米軍。 

    「敵の敵は味方」という方程式が成立し、この瞬間米軍は解放軍になった。


    更に沖縄を日本から永久分断するための米軍の心理作戦、そしてそのため善意を強調する米軍との共同生活は沖縄でも「ストックホルム症候群」の症状が群発した。

    凶悪犯人は鬼畜と思った米軍であり、人質は捕虜、人質現場の銀行は捕虜収容所、いや沖縄全島といっても良い。

    この辺の複雑な心境を当時沖縄で捕虜になったある女性は次のように書き残している

    米軍に保護された住民にとって、それまでの『兵隊さん』は、いつしか『日本兵』という“敵”に変わっていた。住民は、すっかり”親米派”になっていたのである。『お国のために』と信じ、日本軍と行動をともにしてきた私の母・宮城初枝も、大けがをして投降したものの、島の人たちからあらぬ噂をたてられ、日本軍に加担したとして批判の的にされていた。
    戦争は終わった。しかし母にとっての”戦争”は終わらなかった。さまざまなできごとが戦後に尾を引き、母はその当事者になってしまうのである。≫
    (宮城晴美著 「母の遺したもの」)


    ■マッカーサーの置き土産■

    マッカーサーが7年後日本を去るとき「鬼畜」は「親愛なるマッカーサー様」に変わっていた。

    彼のもとには日本国中から感謝と惜別の念に満ちた数万通の手紙と贈り物が届けられていたと言う。

    だが、マッカーサーが日本に残したものは「言論の自由」ではなく、「焚書坑儒」、・・・いや、そんな荒業ではなく、知られざる「3年殺し」の技だった。

    古来沖縄に伝わる空手の秘技「3年殺し」については「マッカーサーの三年殺し」【再掲】で書いた。

    突かれたときは痛くも痒くも無いが3年目には内部の細胞が崩れて死に至るという必殺技だ。

    しかしマッカーサーの秘技は3年どころか60年の時を超えて日本の内部組織を今でも壊し続けている。

    ■マッカーサーの焚書坑儒■

    マッカーサーは当時のアメリカでも実施していなかった男女平等を始めとする数々の民主主義の理想を持ち込んだ。

    彼は軍人でありながら何故このような当時は勿論、現在でも類のない理想主義に満ちていたたのか。

    その鍵をとく為に彼が日本に第一歩を印すまでの足跡を辿ってみる。

    パターンの復讐

    マッカーサー、この誇り高きエリート軍人はフィリピンでは日本軍に敗走の屈辱を味合わされた。

    挌下と見下していた黄色民族の軍隊に敗走する事は彼の辞書には無かった。

    ダグラス・マッカーサーは1880年1月26日アーカンソー州リトルロック生まれ。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり名誉勲章を受章している職業軍人家系だった。

    1898年、アメリカ陸軍士官学校に入学し、1903年に陸軍少尉になり卒業した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。

    1942年5月7日、その誇り高きマッカーサーがフィリピン・コレヒドールで日本軍本間中将との戦いに敗れてオーストラリアに敗走する。

    この屈辱の負け惜しみに「I shall return」(必ず戻る)という有名な言葉を残した。

    彼の屈辱の敗走の2年後、彼より10歳若いアイゼンハワーがヨーロッパ戦線でノルマンディ作戦を指揮して世界的英雄になった。

    アイゼンハワーは軍人として必ずしもエリートコースを歩んでおらず一時は閑職で燻っていた時期もあった。

    またアイゼンハワーはマッカーサーの部下として彼の補佐官を務めた時期もあった。

    軍人のエリートコースを歩みながら、むしろ政治家志向のマッカーサーが後年大統領予備選に敗北をして、立候補を再三辞退していたアイゼンハワーが大統領になった。

    日本占領までのマッカーサーはフィリピンでの屈辱を晴らす復讐の念に燃えていた。

    それには日本の軍隊を徹底的に壊滅させる必要があった。

    日本を手足のもぎ取られた子羊のように、二度と米国に反抗できない状態にしておく意図に燃えていた。

    そのためには日本国憲法の設定、その中でも交戦権の否認は不可欠であった。

    ■マッカーサー 皇居を睥睨しながら執務をした■

    マッカーサーは皇居に面した第一生命ビルの6階に占領軍の本部を構えた。

    そこから皇居を見下ろして天皇の権威の上に君臨する全能の権力者となった。

    日本の歴史上権力と権威を1人で独占して日本を統治した者は彼をおいて他に例が無い。

    日本の歴史では朝廷の権威と幕府の権力は常に補完しあってきた。

    マッカーサーと言えば日本に「自由と民主主義」を普及させた恩人とと見られている。

    しかし彼が日本で最初に行ったことは「自由と民主主義」とは逆の「焚書坑儒」であった。

    「焚書坑儒」とは中国の専売特許かと思ったらマッカーサーもこれを行った。

    秦の始皇帝にも劣らぬ絶大な権力を振るったマッカーサーなら「焚書坑儒」もけして不思議ではない。

    マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を書物の存在すべきあらゆる場所から没収し、廃棄することを日本政府に指示した。

    書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大がかりとなる。

    昭和23年文部省の所管に移って、各都道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし、秘密裏に行わた。

    没収対象の図書は7千7百余種に及んだという。

    そのとき処理し易いように作成されたチェックリストが分厚い一冊の本として公開されている。

    戦後のWar Guilt Informasion Programの一環であった私信にまで及ぶ『検閲』の実態はかなり知られている。

    だが、数千冊の書物の『焚書』の事実はほとんどまったく知られていない。

    チェックリストは、昭和57年に文部省社会教育局編として復刻され、やっと公開されるようになった。

    失われた書物の内容を、殆んどの日本人は知らない。

    つまり、先の大戦に関して、戦後の日本人は偏った情報を与え続けられ現在もそれが継続していることになる。

     

    ■「三年殺し」に潰された安倍政権■
       
    マッカ―サーの「焚書」という「三年殺し」の荒業は彼の予想を遥かに越えて、60年経った現在でも日本の内部組織を破壊しつづけている。

    マッカーサーの負の遺産である「戦後レジーム」。

    それは「戦後民主主義」という形で今でも左翼マスコミの中に奥深く染み込んでいる。

    その解消に果敢に挑んだ安倍前首相は、「戦後レジーム」そのものともいえるマスコミと左翼官僚によって見事に潰されてしまった。
     
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    閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)
    江藤 淳
    文藝春秋

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    「パールハーバー」とは何だったのか

    2007-11-06 20:26:53 | 歴史

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    徳富蘆花は昭和史の執筆にとりかかった時に、その前の明治がわからんと昭和が書けない。明治を書く前にはさらにその前とさかのぼってしまい、ついには大日本史になったと聞きます。(読者のきんじょうさんのコメントより)

                          ◇

    東京の世田谷区が教育改革をして良い結果を生んだことを偶然ラジオで聞いた。 

    世田谷区教育委員会教育長・若井田正文氏は元々教育畑の出身ではなく根っからの商社マンだが、

    その長い海外生活で子供たちをフランスの学校で教育した経験で日仏の学校教育に興味を持つようになったという。

    その中で若井田正文氏は日本語を通じ哲学や伝統文化を学ぶ、つまり読み書きの重要性を説く。

    「国家の品格」を書いた藤原正彦御茶ノ水大学教授も同じような意見を言っておられるが、読み書き(国語)については別に改めて触れるとしてここでは歴史について触れたい。

    若井田教育長によると、フランスでは国語(フランス語)の次に重要視されるのは歴史そして哲学だという。

    その歴史も日本の学校のように古代から年代順に現代に向かうのではなく、現代史から次第に時代を遡っていくという。

    従って小学生でも日本の大人が驚くほど現代史に詳しいという。

    冒頭引用したきんじょうさんの文にある徳富蘆花の歴史の勉強法に興味を持つ。  

    良書と推薦されたヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」(角川書店)の要約サイトを引用するので興味のある方は目を通してください。

    以下要約の又要約の引用です。 全文はリンクでどうぞ。

                          *

      国際派日本人養成講座
       地球史探訪:アメリカの反省http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog219.html
                 日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らな
             かったことではなく、よく守ったことなのだ。

    ■1.「パールハーバー」とは何だったのか■

             パールハーバーはアメリカ合衆国の征服を企んで仕掛け
            られた「一方的攻撃」であるというが、この論理では日本
            を公正に罰することはできない。なぜなら、私たちの公式
            記録が、パールハーバーはアメリカが日本に仕掛けた経済
            戦争への反撃だったという事実を明らかにしているからだ。
            [1,p87]
           
         1948年、戦後わずか3年目にこのような主張をした本がアメ
        リカ人女性によって書かれた。ヘレン・ミアーズの "Mirrorf
        or Americans: JAPAN"である。この本の日本での翻訳出版は、
        占領軍総司令部によって禁じられた。
       
        「占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むこ
        とはできない。」と、マッカーサーはある書簡に書いた。その
        言葉通り、「アメリカの反省」と題した翻訳が出たのはマッカ
        ーサーが帰国し、占領の終わった1953(昭和28)年だった。
       
    ■2.日本人には隠しておくべき真実■

         実は当のマッカーサー自身が次のような発言を1953(昭和2
        6)年5月3日に合衆国上院の軍事外交合同委員会で行ってい
        た。[2,p565]
       
             日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もない
            のです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、
            錫がない、ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如して
            いる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在し
            ていたのです。
           
             もしこれらの原料の供給が絶ち切られたら、1千万から
            1千2百万の失業者が発生するだろう事を彼らは恐れてい
            ました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、
            大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
           
         マッカーサーのこの見解はミアーズと同じである。ミアーズ
        の本を翻訳禁止としたのは、それが単なる日本弁護のプロパガ
        ンダではなく、日本人には隠しておくべき真実を語っていると
        判断したからであろう。
       
    ■3.私たちアメリカ人の責任■

         ミアーズは1925年、二十歳代の時に日本や中国を訪れて、ア
        ジアに深い興味を抱き、大戦中は大学で日本に関する講義や研
        究をしていた。戦後、占領軍の労働局諮問委員会のメンバーと
        して来日し、労働法の策定などに参加したが、帰国してからこ
        の本を書き上げた。
       
         アメリカでは日本擁護者として批判され、本は絶版となって
        ごく限られた専門家以外には忘れ去られ、ミアーズ自身も学者
        として世に出ることができなかった。

         しかしミアーズが書きたかったのは、日本弁護論ではない。
        著者自身の前書きには次のように述べられている。
       
             私たちアメリカ人は、今のところ、地球上で最も強い国
            民である。・・・だからこそ、私たちは世界が置かれてい
            る深刻な無秩序状態の責任を免れることができないのであ
            る。私たちが本当に平和を望んでいるなら、世界の戦争原
            因を究明するにあたって、もっと現実的になる必要がある。
           
         ミアーズの本を読んでいて心うたれるのは、「現実的」にな
        るために史実を曇りない目で見据える客観性と、それを根底で
        支える人類愛である。

    ■4.英米蘭に依存していた日本の軍事力■(略)

        ■5.日本に石油を売らなければ戦争になるだろう■(略)

            
    ■6.生き死ににかかわる問題■(略)

     ■7.日本の求めた生存圏■(略)

         
    ■8.日本は行くところまで行くしかなかった■(略)

       
    ■9.学んだことを実行すると、先生から激しく叱られる■

             私たちはアメリカから多くのこと、とくに隣接地域の不
            安定政権にどう対処するかを学んできた。そして、学んだ
            ことを実行すると、先生から激しく叱られるのである。
               
         新渡戸稲造のこの言葉をミアーズは引用する。次の例はその
        典型だろう。
       
             つい5年ほど前、米英両国の軍隊と砲艦が自国民の生命
            財産を守るために中国の「盗賊」を攻撃したとき、両国の
            世論は中国人を野蛮人と呼んで非難した。イギリスとアメ
            リカの国民は忘れているようだが、日本人はよく覚えてい
            る。ところが、日本が同じように中国の「盗賊」を攻撃す
            ると、同じ国民が日本人を野蛮人と呼ぶのである。
            [1,p295]

         (略)    
             西洋列強はいま、日本を激しく糾弾している。日本が
            「凶暴で貪欲」であったことは明白な事実だが、だからと
            いって、西洋列強の責任は、彼らが思っているようには、
            免れることはできない。日本の本当の罪は、西洋文明の教
            えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ。
            [1,p386]

    ■10.アメリカの鏡:日本■

         ミアーズがこの本を書いていた頃、終戦からまだ2年も経っ
        ていないのに、米ソ冷戦が始まっていた。
       
              私たちは現在、「ソ連を押し戻す」、そして「共産主
             義の脅威と戦う」ことを政策として明らかにしている。
             これは実に日本が、彼らの全近代をかけて実践してきた
             政策だ。[1,p410]
            
              今日私たちがいっているように、ソ連が「世界の脅
             威」であり、(JOG注:日露戦争当時)日本を支援したか
             つての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ
             連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国
             における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保する
             ために、満洲を緩衝国家にしようとした日本を支援しな
             かった1931年以降の米英両国の政策担当者は、犯罪的に
             無能だったことになる。
            
              そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールま
             で悪化させ、その結果、私たちの生命と財産ばかりでな
             く、極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶ
             りは、犯罪をはるかに超えたものであるというほかない。
             [1,p410]
            
         日本はパワー・ポリティックスを西洋列強に学び、そしてそ
        れをよく守ったがゆえに、悲惨な結果を迎えた。その日本の近
        代史を鏡として、アメリカは自らのパワーポリティクスを見つ
        め、反省せよ、というのが「アメリカの鏡:日本」という原題
        の意味である。
       
         しかし、その後もアメリカはソ連の脅威を封じ込めるために、
        共産中国とまでも手を結び、中国が成長して脅威となると、今
        度はこちらを封じ込めようとする。東京裁判史観によって真実
        を覆い隠したまま、アメリカがそのパワーポリティクスを続け
        る限り、「世界が置かれている深刻な無秩序状態」はまだまだ
        続くだろう。
                                              (文責:伊勢雅臣)

    抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21)
    ヘレン ミアーズ,Helen Mears,伊藤 延司
    角川書店

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    完結、「真珠湾」以前に日本と戦った米兵

    2007-11-03 07:32:18 | 歴史
     
    何年か前、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を見た。
    このタイトルを「私的なライアン」と思い込み、首をかしげた記憶がある。
     
    だがこの場合の「プライベート」は「兵卒」「二等兵」の意味である事を後で知って納得した。
     
    戦場で行方不明になった「一兵卒」に過ぎない「ライアン」の捜索に捜索隊が派遣されると言うアメリカ得意のヒューマニズムを訴える戦争映画だと知って腑に落ちたわけだ。
     
    アメリカの兵役についても「ドラフト」とか「ボランティア」と通常に日本語化された用語なので、つい誤解の迷路に迷い込む。

    ◆アメリカの兵役
    ドラフトと聞くと飲兵衛なら生ビールを想像して生唾を飲むだろうし、野球ファンなら八重山商工の大嶺や北海道苫小牧の田中の顔を思い浮かべるだろう。

    英単語「draft」を新グローバル英和辞典でも検索すると、
     
    先ず「描くこと, 線描」と有るし、勿論「生ビール」もあるが、

    5番目に「糧食・軍勢・資金の)調達, 徴発;((the ~))徴兵[徴募]制度;((集合的))徴募兵;《スポーツ》ドラフト制 」とある。

    つまりアメリカでは徴兵のことをドラフトと言う。

    だが、現在のアメリカに徴兵制(ドラフト)は無い。

    イラクでの戦死者が3000人に達したアメリカの兵役は徴兵制ではなく志願兵でまかなっていると聞くと驚く。

    現在泥沼に入り込んでいる「イラク戦争」に更に二万人余の派兵をするというが、アメリカではこれを志願兵で対処していることになる。

    志願兵はアメリカでは、ボランティア(volunteer)と言い、しばしば日本語の「義勇軍」と言う言葉に置き換えられる。

    だが「義勇軍」という日本語の定義を誤ると歴史を見誤る。

    スペイン戦争の折、ヘミングウェイ等の知識人が参加したことで知られるように、「義勇軍」とは 「戦争・事変の際に、人民が自発的に編成する戦闘部隊」のことを指す。

    日本では1873年に国民皆兵を目指す徴兵令が出され、幾多の戦争を専ら徴兵で乗りきって来たので、志願兵とか傭兵、或いは義勇兵という言葉はあまり馴染みがない。

                     ◇

    ◆ファシズム対民主主義の戦い

    戦後民主主義で育った者は次のように歴史を習った。

    第2次世界大戦はファシズム対民主主義の戦いである。

    例として高校用世界史の教科書である山川出版の『新世界史』(昭和61年3月5日発行)の記述を覗いて見る。
     
        「1920年代から30年代にかけて,とくに世界恐慌が先進工業諸
        国をおそってから,イタリア・ドイツ・日本にあいついでファ
        シズムやそれに似た政治体制がうまれ,民主主義をとる国々と
        の対立が激しくなり,世界はふたたび,さらに大規模な世界戦
        争に突入した」(313頁).「独ソ戦が始まるとソ連と米・英関
        係が好転し,イギリスはソ連と軍事協定を結び,アメリカは大
        量の戦略物資をソ連に送った.…こうして全体主義に対する民
        主主義の戦いという戦争の政治的性格が強まり,交戦諸国の戦
        意も高まった」(342頁).

    驚くべきことに,殆どの教科書にはソ連の参戦を戦争の民主主義防衛の共同戦線だとして平気で記述している。

    数々の新資料の公開で、ソ連が多くの自国民を平気で虐殺し,ナチス顔負けの全体主義国家であったことが今では歴史的事実として認識されている。

    ◆真珠湾の7ヶ月前に日本爆撃計画

    日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米軍が 蒋介石軍に荷担して、日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、 そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた書類 が明るみに出た。

    この作戦には350機のカーチス戦闘機、150機のロッキー ド・ハドソン爆撃機を使用するとし、また大阪、神戸、京都、東 京、横浜の爆撃には木造住宅の多い日本民家に効果のある焼夷 弾を使用すべきとする内容もあった。

    後の本土空襲の原形がすでに考えられていたのである。

    だが実際には、欧州戦線への爆撃機投入を優先したため、この計画 は実施が遅れて、その前に真珠湾攻撃となった。

    この計画が突飛なアイデアでない証拠として、すでに米軍の最新鋭戦闘機とパイロット約100名、地上要員約200名 のフライング・タイガースと呼ばれる一隊が、義勇兵を装って、蒋介石軍に参加していた事実は前に書いた。

    上記の爆撃計画は、この戦闘機部隊に爆撃機を加えて、日本本土を直接攻撃しようという拡張案なのである。

    これに対してフライング・タイガースはあくまでも中国軍に自主的に参加した義勇軍であり、アメリカの正規軍ではないので何の問題も無いと主張する論もある。

    フライング・タイガースは正式名をアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)と言うが、その実体は志願兵(Volunteer)によるアメリカ軍であった。

    ボランティアと聞くと無償の善意の集団を想像しがちだが、フライング・タイガースは高額の条件で政府の募集に応じた志願兵集団であった。

    フライング・タイガース生みの親クレア・リー・シェンノートは、蒋介石に乞われ重慶に着任後、

    「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行い、

    この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国にも承認されている。

    派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。

    また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。

    1940年の夏にシェンノートは中国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。(ウィキペデリア)

    アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。

    シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。

    またアメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で集められたアメリカのパイロットは計100名。

    しかし形こそは義勇兵としていたが、実質はアメリカ空軍のパイロットが殆どでありかれ等は元の階級への復帰を保証されていた。

    世界の目を誤魔化すためにパイロット達全員は義勇の目的からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。

    さらにAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。

    軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
    中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
    毎月600ドルを全てのパイロットに支給
    月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給

    またAVGパイロット全員のフライトジャケットの背中には中華民国軍を援助する米国人飛行士であることを示す認証が縫い付けられた(ウィキペディア)。

    正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日、軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。

    だが、これは完全な中立義務違反で、これがが国際法上許されるなら、たとえば台湾が中国に攻撃された場合、自衛隊を一旦除隊させて「義勇兵」として台湾に送れば、日本は中国と台湾に対し「中立」と「平和憲法」を維持したまま、実質的に参戦できることになる。

    何よりもフライング・タイガースが所謂「義勇軍」ではなかったという証拠は、日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米軍が 蒋介石軍に荷担して、日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた書類が明るみに出たことである。

    シェノートが最初に中国入りした時期がルーズベルトの大統領就任時期より前だった、ということを根拠にフライング・タイガースはアメリカ正規軍ではなく、義勇軍だという説があるが、

    少なくとも1941年初頭から始まった大統領命付きの「義勇軍募集」に応募した軍人達は、如何に「義勇軍」の名に隠れても米国正規軍の世を忍ぶ仮の姿であった。

    the American Volunteer Groupがサンフランシスコ港をオランダ船で出発した1941年7月10日の直前には、二回目のAVGの派遣時の「100人のパイロット」「181人の射撃手」を1941年11月までには中国に到着するよう派遣すると言う大統領の承認を得ている。(★)

    それだけではない。

    さらに驚く事には、フライング・タイガースによる日本爆撃計画推進者の推進者だったロークリン・カリー大統領補佐官(当時)は、実はソ連と極秘情報のやりとりをしていたことが、当時の米暗号解読機関によって確認されていた。 

    ≪この文書はVENONA資料と呼ばれ、1940年代後半、ニューヨークとワシントンにあるソ連代表部とモスクワ間の交信記録を米特殊機関(戦後の国家安全保障局=NSA)が暗号解読したものだ。

    カリー補佐官はカナダ生まれの経済学者で、39年から45年まで 大統領補佐官(経済担当)をつとめた。

    41年初頭には対日戦略を調整するため米国の中国支援担当特使に任命され、ルーズベルト大統領と中国国民党の蒋介石主席(当時)の橋渡し役をしていた。

    48年にソ連スパイだったことを告白した政府職員、エリザベス・ベントレーによる「カリー氏もスパイだ」という訴えをきっかけに、カリーは米下院・非アメリカ委員会の追及を受けた。
     
    しかし最後まで容疑を否定し、50年に米国市民権を放棄し、南米コロンビアに移住、93年に死亡している。

    ソ連がスパイを送り込んで、日本と蒋介石軍との戦いをアメリカに支援させていた動機は容易に理解できる。

    両者が戦えば、毛沢東軍が漁夫の利を占めることになり、中国共産革命が近づく。

    さらに日米戦争ともなれば、ソ連にとっても日本からの軍事的脅威はなくなり、ドイツと日本から挟撃されるという最悪の事態を避けられる。まさに一石二鳥の見事な謀略なのである。≫(「国際派日本人講座」http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog116.htmlよりの引用)

    光あるところに影がある。

    表面に見える歴史の奥底には人知れぬドラマが潜んでいる。

    フライング・タイガースは今まで歴史の闇に埋もれ、民間人の冒険野郎の単なる「冒険物語」としての伝説から、アメリカ正規軍としての歴史の表舞台に登場したのである。

    The first contingent (of pilots) of the American Volunteer Group left San Francisco on July 10, 1941, aboard the Dutch ship Jaegersfontaine.  Just before leaving, Chennault received confirmation of Presidential approval for the second American Volunteer Group of bombers with a schedule of 100 pilots and 181 gunners and radio men to arrive in China by November, 1941, and an equal number to follow in January, 1942. (HISTORY: American Volunteer Group (Flying Tigers) http://www.flyingtigersavg.com/tiger1.htm

    ◆フライング・タイガースの公式ウエブサイト(http://www.flyingtigersavg.com/

    ◆参考: Air Force A BRIEF HISTORY WITH RECOLLECTIONS ANDCOMMENTS BY GENERAL CLAIRE LEE CHENNAULT 

    ◆関連エントリー:

    続「真珠湾」以前に日本と戦った米兵

    真珠湾攻撃以前に日本と戦った米兵

     

    【追記】 緊急のお知らせです。

    東京近郊の方、「高田馬場の決闘」です。(中山安兵衛を知らん方には意味不明?)

    祝祭日は都の西北に集結して下さい。

                       *

    昭和の日本は民族の誇りをかけて闘い抜いてきました。先人たちに想いを馳せ るべく、昭和を満州事変から大東亜戦争そして東京裁判までの激動の時代に焦点 をあて、パネル展示で振り返ります。また、外圧によって捻じ曲げられようとし ている歴史的事件の真実を明らかにします。

     早稲田大学唯一の保守系学術サークルによる、特別展示企画です。


     いよいよ本日展示発表です。

    展示発表は 10時から17時まで行いますので、皆様お誘い合わせの上、是非ご来場下さい!

     
    ●展示内容 

     ・満州事変
     ・昭和維新
     ・昭和の外交政策
     ・治安維持法と共産党
     ・支那事変
     ・大東亜戦争
     ・東京裁判
     ・B.C級戦犯裁判
     ・南京大虐殺はウソだ
     ・沖縄集団自決軍命令の嘘
     ・従軍慰安婦「強制連行」はなかった
     ・靖国神社の真実
     ほか 

     日時:11月3・4日(祝・日)
     両日とも10時~17時

     場所:早稲田大学西早稲田キャンパス1号館405号室
     (早稲田大学正門を入って、すぐ右の校舎。大隈講堂の向かいです。)

     主催:早稲田保守研究会

     交通アクセス:早稲田大学西早稲田キャンパスまで
     ・地下鉄 
     東西線早稲田駅下車徒歩5分

     ・都バス
     高田馬場駅より都バス早大正門行乗車、終点早大正門バス停下車、徒歩0分
     ・都電
     都電早稲田駅より徒歩5分

     早稲田祭公式ウェブサイト http://www.wasedasai.net/
     お問い合わせはgut0345@yahoo.co.jp(漆原)までお願いします

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    コメント

    続「真珠湾」以前に日本と戦った米兵

    2007-11-02 17:35:04 | 歴史

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    フライング・タイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」の再掲です。

    ◆一昨年、「パール・ハーバー」と言うハリウッド映画を見た。

    所詮はアメリカ側視点のハリウッド映画、ある程度の予測はしていたが、余りにも自分達のご都合主義で貫かれた映画だったのには驚かされた。

    細部をここで取り上げる余裕は無いが、こんな映画でも全米で記録的ヒットをしたと言うから、たかが映画だと軽く見るわけに行かないと一人憤慨した。

    映画の、キーワードは「リメンバー・パールハーバー」と「スニーク・アタック(卑劣なだまし討ち)」だった。

    映画の中では再三この言葉が繰り返され日本憎悪に使われていた。

    その鬱憤晴らしに、仲間のプライベート・サイトに、

    「卑劣なだまし討ちはお前の方だろう」、と言う意味で

    「真珠湾」の4年前から日本と戦っていたアメリカ人少将」を寄稿した。

    そして、同稿を昨年12月、当日記に転載した。

    以下はその続編として新たに書いたものです。

                     ◇

    1991(平成3)年7月6日付ロサンゼルス・タイムズ紙の一面に、

    米国民間人パイロットにより結成された対中国義勇団、通称フライングタイガースが、実は米国の正規兵であったことが米国当局によって公式に確認された、との記事が掲載された。

    このフライングタイガースは、中国国民党(蒋介石)に協力して日本軍機を撃墜した部隊だが、これまで民間義勇軍であり米国陸軍省や米国大統領とは無関係であると米国防総省は主張してきた。

    ところが同記事は、今までの主張を覆して米国務省がフライング・タイガース(AVG)の生存者100人を退役軍人と認定した、と伝えたのだ。

    「日米開戦五十年」の記念日のこの年、フライング・タイガース結成から50年にして、

    アメリカ政府は公式にフライング・タイガースを「義勇軍」ではなくて「正規軍」であったことを認めたのだ。

    これは、日本の真珠湾攻撃以前に「中立国」であったはずのアメリカが、自国の「中立法」を侵して日中戦争に介入し、

    宣戦布告なしの「SNEAK ATTACK」を日本にした、と政府が公的に認めたことを意味する。

    フライング・タイガースと言っても日本では知る人は少ない。

    だがフライング・タイガースの存在はアメリカでは第二次大戦の英雄として知らぬ者がいないといわれる。
     
    中国やビルマ戦線での「活躍」は世界中に知れ渡り、いまなお出版物があとを断たないという。

    フライング・タイガースのロゴ入りジャンパーその他のグッズは今でも人気で販売されていると言う。

    そういえば沖縄では虎のマークを刺繍したジャンパーが米人のお土産グッズ店で今でも人気だと聞いた。

    フライング・タイガースの創立には中華民国の蒋介石夫人・宋美齢が深く関わっている。
     
    幼少の頃からアメリカに留学をして完璧な上流英語を話す蒋介石夫人・宋美齢は、アメリカの支援獲得に乗り出し、特にルーズベルト夫人メアリーの後援を受けた。

    宋美齢はホワイトハウスで演説をした初めての東洋女性と言われている。
     
    又タイム・ライフ社の社長の知己を得てタイムの表紙をも飾り、完璧な英語でラジオ等で中国の危機を訴える宋美麗の姿に、アメリカ人は「東洋に嫁に行った娘が里帰りして苦境を訴えている」と言ったイメージを抱き、蒋介石のアメリカの支援取り付け作戦は大成功した。

    こうしたアメリカ上流階級との豊富な人脈からルーズベルト大統領の支援を取り付け、フライング・タイガースの創立者、退役軍人シェンノートとの遭遇に至るのである。
     
    こうして「中立法」の壁を密かに踏みにじり、蒋介石は「人、物、金」を米国が提供し、中国空軍の識別マークで戦う異例の航空部隊を創設させる事に成功した。
     
    まともに事を運べば明確な「中立法」違反であるから、シェンノートは身分を偽って「中国銀行員」を装い、軍事作戦は商行為の仮面をかぶって行われた。
     
    1941年初頭から隊員の募集が始まった。
     
    給料は月600ドルで、日本軍機一機を撃墜するごとに500ドルのボーナスが支給されるという破格の厚遇。
     
    現役軍人から人員を募集する大統領特別令も出された。
     
    ルーズベルトは500機からなる部隊を準備し、中国派遣を命じた。
     
    これが「義勇軍」フライング・タイガース(AVG)の実態であった。
     
    陸軍航空部隊長の1941年8月のメモによれば、米国正規軍としてのフライング・タイガース(AVG)の創設はすでに「大統領と陸軍省が承認していた」という。
     
    フライングタイガースが米国を出発してビルマに到着したのは昭和16(1941)年春のことであった。

    この事実は日本が開戦回避を必死で模索してワシントンで日米交渉を行っていた時、既に米国側は対日参戦にひそかに踏み切っていたことを示しているのである。

    アメリカが「リメンバー・パールハーバー」と対で使う「SNEAK ATTACK」(卑劣なだまし討ち)は、実は真珠湾以前に既にアメリカによって行われていたのである。
     (続く)

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    真珠湾攻撃以前に日本と戦った米兵

    2007-10-30 18:51:16 | 歴史

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    ワンフレーズ発言を繰り返すことで歴史は固定化されていく。

    「リメンバー・アラモ」、「リメンバーパール・ハーバー」、

    そして「リメンバー・911」は未だ記憶に新しい。

    アメリカの歴史を「リメンバー~」で拾えばこれだけで一冊のアメリカ史の本ができるという。

    「リメンバー・パールハーバー」と聞けば、「真珠湾攻撃」という日本語が出てくる。

    だが、「真珠湾攻撃」に対応する英語を正確に知る日本人は少ない。

    英語では「Sneak Atack on Pear Harbor」、

    つまり「真珠湾の卑劣な攻撃」という。

    攻撃前に日本が出した宣戦布告が在米日本大使館の不手際で攻撃後に伝えられた。

    それで、「Sneak Atack on Pear Harbor」を甘んじて受け入れるという日本人もいる。

    だが、「真珠湾」の4年前から日本と戦っていたアメリカ人少将の存在を知る日本人は少ない。

                          *

    以下は「再掲」です。

    「幻のAmerica’s Sneak Attack on Tokyo」

     1941年12月8日。

    日本の「真珠湾攻撃」によって日米戦争が始まった。

    だが、その四年前アメリカは既に日本と戦っていた。

    卑怯にも(sneak)日本攻撃(attack)の準備をしていたのだ。

    そのときアメリカ製戦闘機を駆って日本軍と戦っていたアメリカ人士官とアメリカ人戦闘機集団がいた。

                        *

    アメリカでは軍戦没者は一兵卒でも英雄として扱われる。

    最近のテレビ映像等でもイラクで戦死した兵士の棺を星条旗で包んで国に殉じた英雄として丁重に扱うシーンが記憶に新しい。

    昨年の2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が終結した。
    彼らはフライングタイガースの元隊員であった。 

    フライングタイガースの元隊員といっても,大阪の道頓堀川に飛び込む熱狂的な阪神ファンのことではない。

    日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。

    この軍戦没者慰霊祭に参列している一人の年老いた東洋系婦人がいた。

    元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。

    時は遡り今から16年前の1989年。

    あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。

    航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。

    この会社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
    しかしその社名の由来は終戦の年から更に八年時代をさかのぼり故シェンノート少将に行き当たる。

    この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。

    日本では天空を駆ける想像上の生き物として「天馬」がある。

    だが中国には飛竜が一般的だが、空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物を敬う。

    中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。

    因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。

    戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、「飛鮫」では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。

    その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。

    フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。

    アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、
    「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。

    シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
    1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。

    大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。

    日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。

    1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。

    1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。

    1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。

    シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。

    1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。

    このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
    人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
    広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
    別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。

    この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。

    ・・・・・で、そのフライングタイガースが一体どうしたのかって?

    今までの話は単なる前書きであって本題は今から始まる。

    日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。

    その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。

    そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が右往左往していた。

    シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。

    当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。

    着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。

    そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。

    この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。

    アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。

    「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。

    つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃(sneak attack)」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。

    歴史に「もし」は許されない。

    だが密かに計画されていた「1941年9月下旬のロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画」が実行されていたら

    「東京空爆を忘れるな!」(リメンバー;・東京)

    が日本の合言葉になっていただろう。

    これ嘘のような本当の話。

    1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。

                            ◇

    「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」
    (読売新聞1991年7月8日)

     

    驚くべきことに、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた

    作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた
    (産経新聞2000年7月15日)


    ◆本稿は下記タイトル「飛虎」で今年1月7日、プライベイト・サイト「マックス」に掲載したものに一部加筆した記事の転載です。 

    【Date:  2006年1月7日(土) 午前9時44分】
    【Subject:  飛虎】

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    「822」 アメリカとソ連の潜水艦が日本の民間船を撃沈した日

    2007-08-22 17:58:25 | 歴史

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    アジア大陸から太平洋への出口を封ずるように細長く伸びた日本列島。

    その日本列島の西、日本海側に浮かぶ「対馬」。

    東側、太平洋には「小笠原」。

    南の東シナ海で大陸を封じ込め、台湾の近くまで伸びる「沖縄」。

    そして紛れもなく戦前は日本であった北の「樺太」。

    対馬、小笠原、沖縄、樺太、この四つが奇しくも62年前と、63年前の今日、8月22日、

    アメリカとソ連による卑劣な民間船攻撃という点で一つに繋がる。

     

    ■1944年8月22日 対馬丸事件■

    1944年8月22日、戦争準備中の沖縄県より疎開のため一般・学童合わせて1788名を載せた「対馬丸」が長崎へ向けて航海中、鹿児島県の悪石島沖でアメリカ海軍潜水艦から発射された2発の魚雷を受け沈没し、乗員乗客合わせ1418名が死亡した。

    アメリカ海軍は、暗号解読などにより、対馬丸の予定航路を把握していた。 対馬丸が民間の輸送船であることを確認していながら、これを撃沈した米潜水艦「ボーフィン」は、

    現在「真珠湾攻撃の復讐者」として誇らしげに戦艦「アリゾナ」の上にあるハワイの資料館に展示されている。

     

    明くる1945年。

    戦争が終わって既に一週間が過ぎていた。

    だが、長崎原爆投下の8月9日に満州に攻撃をかけてきたソ連は終戦後にもかかわらず樺太に攻撃をかけてきた。

  • 1945年8月9日ソビエト連邦日ソ中立条約を一方的に破棄して占領作戦を開始する(本土最後の地上戦の開始)。
  • 1945年8月20日真岡郵便電信局事件が起こる。
  • 1945年8月28日、ソビエト軍が樺太全島を占領する(本土最後の地上戦の終結)。 (ウィキペディアより)
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    ■1955年8月22日 小笠原丸事件■

    奇しくも対馬丸が米潜水艦に撃沈された同じ8月22日。

    民間輸送船「小笠原丸」が逓信省職員をはじめ女性や子供、老人など樺太からの引揚者600名近くを乗せて稚内港から小樽港へ航行中、留萌沖にて★国籍不明の潜水艦に雷撃されて沈没、700人近くの犠牲者を出した。

    (この潜水艦は、その後、引き揚げ船として利用されていた特設砲艦の第二新興丸に雷撃を加えるが反撃されて損傷、その後樺太留多加郡能登呂村の二丈岩近海で沈没している)。

    ★(ロシア側は認めていないが、当時の状況から判断してソ連潜水艦以外には考えられず、ソビエト連邦のL12またはL19説が有力)

     

    ちなみに、沖縄戦のことを「国内唯一の地上戦」という表現を沖縄の新聞は決まり文句として使う。

    だが、樺太でソ連軍に勇敢に立ち向かった日本軍と樺太住民のことはあまり知られていない。

    「国内で軍民を巻き込んだ地上戦が行われたのは沖縄樺太」というのが正しい。

    いづれにせよ樺太は戦前は紛れもなく日本の領土であった。

    リメンバー822!

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